ざんぎょ
風影室の窓から光がチラチラと漏れている。私はノックをしようかしまいか迷って、ほんの少し隙間を開けて中を覗き見た。
数センチの隙間から見えたのは、風影様が机に向かって書類の山と戦っている姿だった。
全ての書類に目を通し、判子を押したりサインをしたり。
昼間は任務の連絡以外は外出して里内外を視察したり、アカデミーの講義にも出ていたりしていると聞いていた。
そのため、いつ風影様しかできない事務的な作業をしているのだろうと思っていたけど。
こんな時間まで……。
私は扉をそっと閉めると、来た道を引き返す。給湯室に、確か美味しいお茶があったはずだ。
気持ちを落ち着かせながら手順通りに煎茶を入れると、お盆に乗せて扉の前までやってくる。コンコンとノックすると、数秒経って許可する声が聞こえてきた。
「お、お疲れ様、です……」
「……ああ」
扉から覗いた顔より、間近に見た風影様の顔は微々たるものだが疲れているように感じた。
私の顔を一瞥するとまた、書類の方へ視線を戻す。私が入ってきたのにぼうっと突っ立っていることに不審に感じた風影様が尋ねてきた。
「……何か用があったんじゃないのか?」
「あっ、そ、その、えっと……」
私は慌てて持っていたお盆のお茶を、風影様の机にそっと置いて。
「あの……あの、お茶、です。良かったら」
「……」
机の上に置かれた湯のみを見つめて、風影様は二三度瞬きした。が、小さく息をするとそれを受け取り「すまない」と呟いた。温かな飲み物で、彼の表情がほんの少し和らいだように感じる。
私はじんわりとお腹の辺りが温まるのを感じながら、ふるふると首を振ってそれに返した。
「えと……、風影様。毎日、こんな時間まで仕事をされているんですか?」
机の上も周りも、昨日見た時より散らかっているほど書類と巻物の山だ。その傍らには複雑な判子や文房具など、上役に必要そうな物が煩雑している。
風影様はしばらく黙った後、湯のみを置いて私に目を合わせた。透き通る美しい瞳に見つめられ、頬が熱くなる。
「……そうだな。いつもなら日付が変わっても書類を進めていることが多い」
「大変ではないですか?」
私は率直に質問した。
「守鶴が抜けた後とはいえ、睡眠習慣は急には変わらない。深夜に仕事をしていても、特に苦にもならないな」
「そう、なんですね」
「体に疲れはあるだろうが、それでも今していることが未来の里に繋がっていると思えば……いくらでもやれる」
そう言っている間にも、チラチラと書類に目を通している。時間を無駄にしない癖が自然とついているのだろう。
彼の僅かな仕草が私の中で尊敬に変わっていく。
同時に、私は先ほどのプラチナさんの言葉を思い出して顔に暗い影を落とした。
「それで?」
「……え?」
「二回も同じ事を言わせるな。お茶を出しに来ただけじゃないんだろう?」
驚いて顔をあげると、翡翠色の瞳と視線がぶつかった。見透かされたようなその目に、私はたじろぐ。
もう、定時をとっくに過ぎている。仕事上の用事なんてあるわけがない。たまたま風影室に明かりがついていて、風影様にお茶を出しに来ただけなんて。
もちろん、気づいてお茶を持ってきたのは私の気持ちだ。だがそれを理由に居座るのは、わざとらしいにもほどがある。
風影様は私の異変を悟られて、時間を割いて聞いてくれているのだ。
何かあったのか?……と。
私は恥ずかしいような、泣きたいような、嬉しいような気持ちになって黙り込んだ。自分の胸の内にある感情をさらけ出したくなくて、でも、彼の厚意に甘えたい自分がいて。
震える唇で呟いた。
「風影様に」
「……何だ?」
「聞きたいことがありまし、て」
言ってみろ、と彼は真っ直ぐに正面から物を言う。大戦の演説の時もそうだった。そんな貴方が好きです。そう心の隅で想って、かき消した。
「……不純な動機で秘書候補になることは、いけないことですか?」
ぎゅっと拳を強く握り、俯く。私の思いは、秘書候補になるために不必要なものですか。
「……プラチナに何か言われたか?」
「い、いえ」
「言われたのか」
私は言葉を濁らせて答える。直接言われたわけではないけど、彼の言葉も否定はしなかった。
風影様は何秒か私を見つめた後、頬杖をついてぱしりと答えた。
「愚問だな」
私はさあっと血の気が引く思いがした。
風影様は、里を背負う人だ。プラチナさんと同じかそれ以上に里のことを考えている人なのだ。不純な動機など、考えたこともないだろう。
恥ずかしい。やっぱりこんなこと、聞くんじゃなかった。そんな思いが体を駆け巡る。
涙で滲んで行くのを堪えながら、私は次に浴びせられるお叱りの言葉を待つ。けれど風影様の口から発せられた言葉は、私の予想と反するものだった。
「お前がどのような理由で秘書候補になったのかは分かりかねるが。不純な動機だけでお前は三千も任務をこなすのか?」
「……え」
私は不意をつかれたような気分になった。驚いて濡れた目で俯いていると、風影様はひとつも表情を変えずに淡々と話す。
「……目的と目標は、似たような言葉のようで意味が違う。お前は先日の初の顔合わせでこう言ったな」
風影様の一言で、私は自分が初めての顔合わせで言った言葉を思い出していた。
情景がフラッシュバックする。期待していると言ってくれた風影様に胸を張りたくて、生き生きとした顔でこう言った。
『里に生きる人々のために、己を粉にしても務めを果たしてまいります!』
「……あ」
「お前がどんな目標を持って、幾つもの任務をこなしてきたのかは知らない。だがその背景には、『里のために』という目的があるだろう」
そうだ。そうだった。
私の中には風影様の隣りに立ちたいという目標と共に、隣りに立って里を守りたいという気持ちがあった。
彼が描く、里の未来を。
私にも、里を思う気持ちは……あったんだ。
崇高ではないかもしれない。大それた思いではないかもしれない。それでも、確かに。
私は顔を上げて風影様を見つめた。そこには、いつもと変わらない無表情の彼がいたけれど。声音はとても、優しかった。胸の中がぽかぽかと温かくなる。
「その目的がブレないなら、おまえの言う『不純な動機』とやらが目標になるのは……」
風影様はお茶の残りを飲み上げて、静かに机の上に置いた。振り返り、窓の外をチラリと見つめる。夜の外に見えるのは、私たちが守るべき里の景色が広がっている。
ゆっくりと私の方へ顔を向けた風影様の口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
「問題にはならないと……俺は思う」
私は震える唇をきゅっと一文字に結んで、溢れ出す気持ちを堪えたけれど。抑えることはできなかった。彼の優しさが、言葉が、私の心を包んでいく。
くしゃりと笑って、声を絞り出すくらいしか。私は言葉を紡げなかった。
「……ありがとうございます。風影様」
……To be continued