嫉妬
 俺の肩書きは砂隠れの里の長、風影だ。皆から認められた者だけがなれる、里を守る存在である。

 しかしその激務のせいで、俺は恋人の名前子と会える時間が極端に少なくなり、お互いに寂しい気持ちを抱えていた。
 けれど里内に居る間は、名前子が夜中に会いに来てくれるようになったために、会えない日々から脱却しつつある。
 おかげで枯渇気味だった俺の心も、段々と潤いを増していった。
 ……だが最近、気になることがひとつある。

 視察から帰って来て一休みしようと、窓の外に視線を移したちょうどその時。人混みの中に名前子の姿が見えた。
 こんなに距離がある人混みの中からでも彼女だと判別できることは、良いのか悪いのか。
 そんな自分に呆れていると、名前子の隣りにもう一つの姿を見つけた。

「アイツ、また名前子に……」

 見た目はここからではよく見えない。ただ、名前子に俺の知らない男が近寄って行く。二つの人影が揺れて、楽しそうに話しているのがわかる。
 俺は眉間に皺を寄せた。

 一週間ほど前からだ。
 名前子は知らない男と待ち合わせをして、どこかに消える。しかも、仲良さそうに……。
 どこに行っているのか、何をしているのか、考えただけで胸の中にチリチリと焼けるような痛みを覚えた。

 けれど毎夜のようにやって来てくれる彼女を疑うことは出来ない。そう気持ちを押さえつけようとしても、反対に「じゃあ、あの男は何者なんだ」と心が問いかけて止まない。
 砂の眼球を使って動向を探ろうかとも考えたが直ぐに打ち消した。男としてそれは何だか、恥ずかしいことのように思えたからだ。

 どうしようもなく、どうすることもできず、俺は静かな怒りと言いようのない不安に襲われていた。

「我愛羅。お仕事おつかれさま!」

 今夜も、正面ではなく風影の椅子後ろにある窓から名前子が現れる。正面から入ろうとすると、「風影様はお忙しいのでお引き取りください」と門前払いされるらしい。

 俺は彼女が来てくれて嬉しい、嬉しいハズなのに、戸惑いを隠せない。目を逸らしたまま「ああ」とだけ返事をすれば、さすがに名前子も違和感を感じたようで、荷物を机に置くと傍まで寄ってくる。

「……どうしたの? ちょっと、疲れてる?」
「……」

 しゃがんだまま上目遣いに見つめてくる彼女に、チクチクと良心が痛む。違う、心配させたいわけじゃない。
 苦しくて、口が思うように動かない。
 本当は昼間のことを聞きたい。彼女に、「あの人のことは何でもないよ」と言って、笑って欲しい。

 けれど、もし、『違っていたら』どうする?

「……名前子、すまないが」
「うん?」
「しばらく、ここには来ないでくれ」
「……え?」

 名前子の瞳が揺れる。俺は視線をゆっくりと彼女に向けた。名前子は驚いた顔をした後、悲しそうに目を伏せる。

「……そ、そっか。ごめんね、お仕事忙しいから、邪魔だったかな」
「……いや」

 苦しい。
 本当は、そんなことを言いたいわけじゃないのに、自分の気持ちと反対のことを言ってしまっている。そのせいで、彼女を傷つけてしまっている。
 俺は、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

「……えへへ、ごめんね邪魔ばっかして。今日は、帰るね」

 なぜ会えないのか?とは、聞かないのか。何か言おうとしたが、俺は言葉にならなかった。名前子は歪んだ笑顔を俺に見せて、その場から立ち去った。

 それから一週間。
 名前子は俺の言葉通り、風影室にも本部にも近づかなかった。

「最近の風影様、やけにスパルタじゃないか?」
「ああ、俺もそう思っていた」
「喋る暇があるなら黙って手元を動かせ」
「は、ハイッ」

 小声で話す中忍達に叱咤を飛ばす。任務と遣いを言い渡すと、風影室は静かになった。それがやけに物寂しい。

 名前子と会わなくなると、焼け付くような痛みは無くなった代わりに、また、胸の奥が物寂しく酷く乾く。

「……俺は馬鹿か」

 手の甲を顔に当て、背中にもたれる。こんなに後悔するなら、なぜあの時傷つけるようなことをわざと言ってしまったのか。
 らしくない。任務ならどんなランクの物も平然とこなしてきた。どんなに風影の激務が続いても耐えられた。
 なのに、名前子のことになると俺は……。

 ため息をついて窓の外を見る。外はまだ明るい。いつもならあと数時間で、彼女がこの窓からやって来ていたのに。
 俺は心を落ち着けようと里を眺めていると、また、人混みの中に名前子を見つけた。
 買い物だろうか。今の状況だけに姿を見つけるだけで胸が締め付けられる。
 ふと気づけば、また同じ男が彼女に近づいていた。
 ……やめろ。
 黒く淀んだ気持ちが膨れ上がるのを感じて、俺は――

「……っ、嫌だ」

 俺は、窓の外から屋根伝いに飛び降りた。仕事のことなら、後でもできる。でも、名前子のことは、今じゃなければ駄目な気がした。後でもっと、後悔する気がした。

「――名前子!」

 俺は二人がいる近くの家の屋根から地面へと着地して走り寄る。楽しそうに会話する名前子が男より先に俺に気づき、驚いた顔で俺の方に顔を向けた。

「我愛羅? って、え、ちょっと、」

 往来に人がいるのも構わずに名前子の腕を掴んで、男から引き剥がすように彼女の前に立ち塞がった。
 子供たちが『あ、風影様だ!』と言う声が遠くで聞こえた。名前子が何か言おうとしたが、構わない。
 たとえ嫌われようと、俺は彼女に余計な虫が寄ってくるのは我慢出来なかった。

「名前子に近づくな」

 相手の男は俺より身長が高く、厳つい顔と体つきをしていた。『なるほど』と訳の分からないことを呟くとニヤリと笑う。次の瞬間、

「やあっだぁー! 名前子ちゃんもすみに置けないわねぇー!」
「……は?」

 厳つい男が体をくねらせ、女のような仕草で可愛く言葉を発した。ピンク色のハートがこつんと俺の頭を跳ねていく。
 俺は振り返り彼女の方を見ると、頭を押さえはぁーとため息をついていた。





「だから会わせたくなかったのに」

 俺と名前子は風影室に場所を変え、向かっていた。アイボリーのソファに腰を下ろすと、柔らかく体が沈む。
 視線がぶつかると、名前子は多額の借金でも背負った忍者のように暗い顔をして言った。

「……『アレ』は、私のお兄ちゃん。屈強なくせに可愛いものが大好きな乙女男子。今まで他国に任務で行ってたんだけど、最近帰国して……あんなだから恥ずかしくって我愛羅に言えなかったんだよ」
「……」

 あの後、ものすごく気持ち悪い仕草で「うちの妹をよろしくねっ」とウインクされた。

「我愛羅に、私に兄が居るなんて言ったら絶対紹介しろって言うでしょ。だから黙ってたんだよ」
「そうだったのか……俺は、てっきり、」

 そう言ったきり俺は押し黙る。
 言うべきではないと思った。彼女を疑った、自分の中の黒い感情を晒したくないと思ったからだ。
 名前子は俺をじっと見つめると、

「……てっきり?」
「いや、」

 俺に続きを促す名前子。苦虫を噛み潰したような顔で俺は視線を逸らした。それでも、彼女が俺を見ているのがわかる。
 ゆっくりと視線を戻すと、名前子が真っ直ぐに俺を見つめていた。

「……隣り、座ってもいい?」
「……」

 否定も肯定もしないでいると、名前子は静かに立ち上がり俺の隣に座った。彼女の重みで、ソファが更に沈む。
 名前子が子供のような顔でじっと俺を見つめる。

「ね、言って」

 その声に、目に、抗えず。俺は目を伏せて自白した。

「……俺じゃない誰かを、好きなったんだと思った」

 俺は最初から最後まで、洗いざらい彼女に話した。名前子が他の男と会っている事に気づいていたこと、それを聞けなかったこと、それに対してしばらく来るなと酷く当たってしまったことを。
 名前子は俺が話終えるまで、黙って聞いていた。

「……呆れただろう。風影だ何だと言っても、所詮俺は、一人の男なんだ」

 名前子は首を振って、照れ臭そうににやにやと笑った。
 真面目に話しているのに馬鹿にされたような気がして、俺はムスッと眉間に皺を寄せる。

「何故笑っている」
「だって、嬉しくて」

 嬉しい?
 問いかけると、名前子は俺の手を優しく取って、するりと指を絡ませた。

「うん。結局は我愛羅の勘違いだったけど……私のこと、そんなに思ってくれてたんだなって。顔がにやける」
「……疑ったことに怒っていないのか?」
「私もお兄ちゃんの事言わなかったから、誤解を生んだようなものだしね」

 ごめんね、と名前子は言って、はにかむように笑う。
 その一言だけで、俺の心の黒く淀んだものが消え去るような思いがした。
 握られた手を、俺は自然ときつく握り返す。もう二度と、離さないように。

 こつん、と愛の見える額を名前子の額に当てる。そうすると、互いの瞳に映るのは俺と彼女だけになる。
 くすぐったそうに笑う名前子が、焦がれるほどに愛おしい。

 俺もすまなかったと彼女だけに聞こえるように俺も呟くと、夕日に重なるように俺達の影も重なった。

end