傷者同士の一夜限り【中編】
 里の中で当てはまる子供を思い出せなかった。同い年くらいの背格好で、質素な小豆色の浴衣を着ていた。
 浴衣の下には、夏なのに黒の長袖を着ている。
色素の薄い長い髪が印象的だった。

 女の子は黙ってこちらの様子を窺っていると、ハッとしたように思い切り人差し指をボクに向けて叫んだ。

「あーーーーーーっ!!  そこ、私の特等席なのにぃーーーーー!!」

 つかつかと大股で近寄ってきた彼女は、ボクの前に仁王立ちしながら腕を組んで顔を近づける。

「………………あなた、だれ?」
「え……えっと……、その」

 我愛羅、と名乗るべきか迷った。名前を呼ばれそうになって逃げてきたから。
 咄嗟に思い浮かんだ名前が、

「や、夜叉丸」

 彼の名前だった。

 嘘ついちゃった……。
 ほんの少しの罪悪感が心の中に蹲る。けれど本当の名前を言う訳にはいかない。だって、この女の子もボクの事に気づいたら怖がって逃げちゃうかもしれないから。

 女の子はふぅんと息を吐くと何に納得したのか、

「まあいいわ! 私は名前子。貴方も花火を見に来たの?」

 花火?
 と首を傾げた。名前子と名乗る女の子は、器用に岩に登るとボクの方へと手を差し出した。自分に向けて差し出されたとは思わなくて、思わず後ろを振り返って確認していると、名前子の苛立った声が頭上から降ってくる。

「貴方以外に誰がいるっていうのよ……ほら! 夜叉丸、手を出して」
「う、うん」

 手助けをされなくても登ることはできたが、彼女の迫力に押されて自然と手を借りて岩の上に登り座った。
 人の手って、あったかいんだな……。
 夜叉丸以外の誰かが自分の手に触れたり隣にいることは、ボクにとって初めての出来事でどうしても緊張してしまう。
 そんなボクの緊張をよそに、生温い風がボクと名前子という女の子の髪をさわさわと撫でて行く。

「ここから見える花火はね、里の中でいちばん綺麗なの。そしてこの岩は私しか知らない特等席。貴方に見つかっちゃったけど」
「ご……ごめんなさい」
「別に謝らなくていいのよ。仕方ないから今日は一緒に見てあげる。ほら、もうすぐ上がるわ」

 名前子の横顔を盗み見たが、しっかりと表情はお面の下に隠れている。彼女が差した指先の向こうを見つめると、数秒後に大きな花が空に返り咲いて、名前子とボクを照らし出した。

「わ、あ……!!」

 頼り投げな打ち上がる音がした刹那、煌びやかな花火が幾重にも咲き、その後に身体に届いた響く音。
 それだけでボクは花火に釘付けになった。

 花火は一種類だけではなかった。
赤や黄色、緑に青。里を飲みそうな大きなものもあれば、キラキラと弾けるように消えるもの。小ぶりの花火が踊るように広がって楽しめるものもあった。

「たーまやー! ねっ、言った通りだったでしょ? ここから見る景色が最高だって」

 名前子が振り返ってボクに言った。
 ボクはぼんやりしながら「うん」と言うしかできない。夜叉丸と家から眺めた去年の花火より、ずっとずっと美しい今の景色に心が奪われていた。

 見る人を退屈させない、次々と打ち上がる花火は、ボクのささくれた心を少しずつ癒していく。

 第一弾が終了したのか、最後の花火が燻る音がして急に静かになってしまった。
 そういえば、今何時だろう。
 本物の夜叉丸がさすがに心配しているだろうと思ったボクは、急いで岩をかけ降りようとする。

「もう帰るの?」
「ごめん。ボク、一緒に来た人とはぐれちゃったの忘れてた」
「何だ……貴方迷子だったの? だからこんなとこに居たわけね。待って、途中まで送るから」

 名前子はひょいと軽い動きで岩元から地面に飛び移り、ボクの前へとやって来る。身のこなしが忍みたい。もしかしたら、彼女も忍の家系なのかもしれない。それならきっと、どこかでやっぱり会っているはず。
 けれど最初に出会った時にも感じた「初めて見る子」の感覚は拭えなかった。
 声も、体格も、髪の色も。
 近しいと思う忍の子供が思い浮かばない。

 戻らなければならないという焦りもあったが、突然現れた名前子の正体が何者なのか。好奇心には勝てなかった。
 ボクは自然な素振りを装って、名前子に尋ねてみる。

「あの……名前子はどの辺りに住んでるの? あんまり、里で見かけた事がないから聞くんだけど……」
「…………」

 急に名前子が黙り込んだのを見て、言いたくなかったんだと気づいたボクは慌てた。
 ボクだって、名前を夜叉丸だって嘘をついてる。
 誰にだって言いたくない事はあるのに。

 謝ろうと口を開いた瞬間、名前子が静かにそれを遮った。

「謝らなくって大丈夫。少し言いにくいだけ。どの辺りって言っても、私の家に来る事はなかなか難しいから」
「わかりにくいところにあるの?」

 ボクはもう一度尋ねた。

「そういうわけじゃないのよ。でも来られないと思う。どうしてそんな事を聞くの?」
「えっ。そ、それは……」

 彼女は感情のない声で尋ねて来た。とても冷たい声。それは敵意のある父さんや、怯える里の子供達の声よりもずっと寂しい声音だった。
 ボクは名前子にどう言うべきか躊躇した。素直に伝えたら、他の人のように困らせるかと思ったからだ。困るくらいならまだいい。嫌がったり、嫌われたらどうしよう。

 どくどくと胸の音が聞こえて来そうだったけど、胸の前でぎゅっと拳を握りしめて思い切って言ってみた。

「……っ。君とまた遊びたいから……!」

 少し指が震えていたかも。それくらい、勇気を出したと思う。
 お面で名前子の表情はわからない。だからどう思ったかはわからなかったけれど、ボクの耳にも名前子の息を飲む声が聞こえた。

「顔のわからない私と?」
「う、うん……」
「……私、もう貴方とは会えないと思う」

 名前子が悲しそうに言った。

「ど、どうして?」
「今日は特別に外に出られたの。だから、次にまた貴方に会えるかわからない。もしかしたらまた会えるかもしれないし、一生会えないかもしれない。だから」
「それでも、ボクは今日、君と一緒に花火を見れて嬉しかったよ」

 それは、ボクの本音だった。

「ボクも今日は、本当は外に出ちゃいけなかったんだ。でも、君と会えた。一緒に誰かと花火を見る事なんて初めてだったから、嬉しかった。……ありがとう」
「……夜叉丸……」
「でもやっぱり、半分だけでいいから名前子のお顔が見たい。半分なら、ボクも君もわからないだろうし。次に会えないのだとしたら、顔を知らないままなのも……寂しい、から」

 名前子はしばらく考えるように俯いていたけど、最後には「わかった」と言ってくれた。最初で最後の出会いをこんな夜に味わうとは思いもしなかった。
 もう二度と会えないかもしれない。だから彼女は承諾してくれたのかもしれないけど、ボクは嬉しかった。

 でも、怖がらないでね。と名前子は言った。彼女が言うには、顔に大きな傷がたくさんあるらしい。
 気持ち悪いかもしれないという名前子に、ボクはそんな事ないと強く言った。

 よくよく観察すると、襟元から切り傷がはみ出ているのがわかる。襟元だけじゃない。腕の裾から青あざ。お面を半分だけずらして見せてくれた顎や頬にはミミズが這ったような痕がたくさん見えた。
 ボクは最初は驚いたけど、理由は聞かなかった。聞く必要もないよね。ボクだって、心にいっぱい見えない傷があるんだもの。

「じゃあ、ボクの番……」

 むしろボクの方が、気味悪がられるかもしれない。でも……名前子も半分見せてくれたから、自分も見せるって決めたんだ。
 ドキドキしながらお面をずらそうとした時、近くでよく知った声がボクの名前を呼んだ。

「我愛羅様!」
「え!?……わあっ!」

 呼ばれた声に驚いて、手からお面が滑り落ちる。慌てて拾い上げた時に近寄ってきたのは、本当の夜叉丸だった。

「我愛羅様、こちらにいらしたんですね。心配したんですよ」
「ごめんなさい」

 あの夜叉丸が肩は上下し、額に汗が浮かんでいる。きっと、里中を駆け回ってくれたに違いない。
その様子に胸の中にじわりと温かいものが広がっていくのを感じた。
 夜叉丸は息を整えながら、不思議そうな顔で聞いてくる。

「どなたかいらっしゃったんですか? 先程、もう一人声が聞こえた気がしたんですが……」
「うん。名前子と一緒に話して……あれ?」

 彼女を紹介しようとした時には、名前子の姿はどこにも居なかった。名前を呼ぼうとした時、見計らったように空に第二弾の花火が打ち上がる。

 呼んでもきっと届かない。

 そう言うかのように、ボクはそれから、名前子に会うことはなかった。