9傷口に塩
『もう、ええです。ウチはここを出て行かせて貰います』
『おう出ていけ出ていけ。こがぁな話の分からん女子じゃったとは此方が騙されたわい…!』
久しく見なかった悪夢だ。しかし相手の顔も映っていない。ただ最後に交わした言葉だけははっきり憶えている。
「けったくそ悪いのう……」
20年も前の話だったか。当時人生を共にしたいと思った女と結婚し、最初は恙無く幸せに暮らしていたというのに何のボタンの掛け違いか些細な喧嘩からお互いに不満を募らせ、結婚生活は1年もせず砕け散った。呆気ない砕け散り様で20年も経った今、もはや元妻の事も結婚生活についても憶えている事の方が少ない。
『可能性をしらみ潰すなと言うなら、サカズキさんだって今後再婚されたり、お子さんだって可能性はありますよね?何で行動されてないんです?』
ベルに偉そうに人生の先輩面して説教垂れた癖に、自分を指摘されるとぐうの音も出ないとは。離婚の事は特段隠したい訳でもなかったが、話をしてしまうと余計に彼女が引いていきそうな気がして言わなかった。今となっては、後の祭りだが。
「可能性か………」
離婚を経験してからは自他共に好いた腫れたの話が本当にどうでも良くなった。女に何も期待もしなくなったし、たまの欲を発散させる為に女を買う事ぐらいはあったものの。
仕事だけが生き甲斐で、たまに旧友と酒を飲み明かし趣味を親しむと言う生き方が身に沁みてしまい、今もこれから先もそうやって生きていくのだろうと漠然と思っていた。彼女みたいに計画的に自分の人生の終わりである“終活”など考えた事もなく、ただ徹底的な正義の為に今という時間を消費しているだけ。
ーーただ何でだろうか。
ベルに出会ったおかげで、自分の生きた半世紀の人生や過去をなぞろうと思ったのは。どうせ傷口に塩を塗るだけではないか、と分かっているのに向き合わねば先に進めない気がした。向き合わずにいたツケが、今やっと来たかと思うくらいに彼女の存在は大きかったのだろう。
「行くかの」
珍しく思いもふける間もなく時は無情だ。
今日も徹底的な正義の為に霞が関に赴かねばならない。自分の使命はまずはそこにあるのだから。
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朝方から局長が帰って来る…!とバタバタと何処かの部下達が忙しなく駆けずり回っている。何事だと横目で傍観していたのだが、久し振りに見慣れた黄色いスーツを見かけてやっとその訳に納得がいったのである。
「やぁ、久し振りだねェ〜。サカズキィ、遅めのあけおめって処かなぁ」
「ボルサリーノ。もう出向は終わったんか」
年末から特別研修の名目で大阪府警に出向していたはずだ。テンセイと同じく、同郷の旧友であり唯一“兄弟”とも呼べる仲でもある。Limeでたびたび近況は聞いていたが、警察庁で実際会うのは1ヶ月振りであった。
「まぁねェ〜。ほら、お土産」
「どうせ既製品のたこ焼き味かなんかじゃろ……みたらしの小餅か」
大阪は自分も以前出向した事はあったが、大阪名物のものは大抵美味かったのだがお土産に困ったものだ。何せたこ焼きもお好みも熱々がいいのだが、職場に持っていくには消費期限が限界なのと衛生的にもよくない。貰ったお土産は餅の中にみたらしが入っているもので、確かに美味かった記憶はある。
「ウチの孫は気に入ってくれたよォ?正月に大阪にまでわざわざ会いに来てくれてねェ〜、可愛いのなんのって」
そして唯一の既婚者で孫までいる。スマホの待受画面は必ず孫の写真という、爺馬鹿と言ったところか。また孫自慢か?と訝しげにしているとそれすら気づいてもいないようで、呑気に廊下にあった自販機に小銭を入れていた。
「今日空いてるよねェ〜?ウチ来なよォ」
「ん?あぁ……仕事終わりなら構わんが。奥さんはええんか」
「正月に酒買いすぎたってよォ。むしろ飲んでくれって言ってたし、構わねェだろォ」
酒がたんまりあるなら行かない理由はない。これで家で酒を調達する必要もなくなるなら、儲け物ということだ。
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「ごめんなさいね〜サカズキさん。孫が来ちゃってて、もうすぐ娘がお迎えに来るんだけど……」
「いやぁ、構いませんけェ。気にせんでおくんない」
「すまねェなァ、サカズキ。騒がしくって」
ボルサリーノ宅は自分の家から徒歩数分で着く億ションだった。元々同郷の関係もあったからか、ボルサリーノが奥さんと結婚してからも家族ぐるみで月に一回程家で飲む付き合いはあった。ボルサリーノの娘は既に結婚して息子もおり、キャリアウーマンを続けながらたまに預けに来る事も多いと言う。
まだまだ歩き慣れてないその足取りは、微笑ましさを纏いながら無邪気そのものを表している。
「だぁ、ま!ま!」
目尻を下げて孫の頭を撫でるボルサリーノの心底幸せそうな顔。子どもや孫を持つというのは、一体どんなものなのか想像も出来た事はなく、正直、羨ましい気持ちがないとは言えない。
「まだ1歳過ぎでねェ。よたよた歩いてるでしょォ」
「あぁ、可愛い盛りじゃのォ」
「てってっ、て!」
一度ボルサリーノに駆け寄った孫だが、次の興味が唆るものを見つけたのだろう。再び覚束ない足取りで奥さんの処へ赴いた。むさ苦しいジジイ共に挟まれるよりは世話好きな婆さんの方がいいのであろう。
リビングに赴くと、いつも通り奥さんが用意してくれていたのか、テーブルの上に若干の酒のツマミになるものと徳利とお猪口を置いて貰っていた。
「テンセイから聞いたけど、正月早々痴漢事件に巻き込まれたってェ〜?」
「よう喋る馬じゃのォ、あいつ」
右から左へ筒抜けだ。少しは自重出来んのかあいつ。とは言っても、広島出身のわしら3人だけの話なのだが。
「そんでガイシャと仲良くなったって。どんな子なんだァい?」
「さぁの」
「何だよォ。わっしにだって教えてくれたっていいじゃねェかァ〜」
年末から自分だけ大阪に出向していた為、除け者にされたかの如く若干焼き餅もあるのだろう。昔から秘密にしてるとすぐ不機嫌になるのだ、ボルサリーノの奴は。しかしそうは言われても、未だ男女の関係にもなってない女の事をポロリと溢すほど、もう若くもない。
「別に結婚した訳でもあるまい」
お前みたいに家庭を円満に保てた訳でもねェ、失敗続きな自分の老いらくの恋など取るに足らぬ話。順調に孫にまで恵まれたボルサリーノに話すには、気恥ずかしさや心疚しさが隠せず押し黙る。
何処かそんな卑屈な自分を見て取ったのだろう、酒を注ぎながら「そう言うなよォ」と窘められる。
「分からねェだろォ?お前ェさん、元嫁引き摺り過ぎなんだよォ」
「ハッ。もう顔も憶えちょらんわ、あげな女」
今日は妙に踏み込んだ話をする。離婚の事はボルサリーノもテンセイも空気を読んでくれたのか、あまり進んで話に出さない気遣いはあったのだが。チラ、とボルサリーノに視線を移すと案の定、感は当たっていたようだ。
「それが凄い偶然でねェ。ま、年末さぁ、大阪行くついでに京都にも遊びに行ったんだけどもォ、君の元嫁が京都駅で歩いてたの見たんだよォ」
「!……」
ーーーあいつが。
「旦那さんと、高校生ぐらいの息子さんとねェ」
「……ほうかィ」
別れた後の事は20年間一切知らなかった。というか、知りたくもなければ向こうも知らせる義理もない。調停が決まる前に会っている男がいたらしいが、恐らく次の旦那はそれだろう。まぁ、自分と別れた後に幸せな家庭を築けたのならそれで良かったのではないか。
あぁ、けったくそ悪い。
猪口に入った酒を一気に飲んで、既に空になった徳利を渡し、少しボルサリーノに八つ当たりした。
「せっかく来てやったっちゅうに、不味い酒飲ませるのォ。ボルサリーノ」
「逆だよォ。これで吹っ切れるだろォ?ある意味。おーい、おかわりくれ〜」
吹っ切れる、か。今朝方偶然見た悪夢はその為の布石だったのか?
空になった徳利をボルサリーノが奥さんに渡したところで、奥さんから新しい徳利を貰おうとしたらご丁寧に猪口に酒を注いでくれた。感じのいい奥さんだが、昔からついでに一言が多い。ふふと穏やかに笑いながら人の話を溢さず聞き拾っている所が玉にキズだ。まさに地獄耳とはこの人の事だろう。
「ふふ、サカズキさんまだまだお若いんですから、いつかお嫁さん連れてきてくださいよ。楽しみにしてるんですよ?私」
「おばさんは地獄耳やめなさいよォ、全く」
「はいはい」
夫に咎められるも気にする様子もなく、酒を注いでさっさとリビングから立ち去る。気遣いができるかできないのか、いやできる方ではあるんだろう。たとえおべっかではあっても、相手に不快な思いをさせるよりはましだと言う事をよく心得ている。
理想的な家庭とは多分この家庭の事を言うのであろう。ボルサリーノは幸せ者だ、羨ましい。酒の肴には気持ち良く、酒も進むに進んだ。
「ボルサリーノ、お前には勿体無い奥さんじゃな。馳走になったわ」
「わっしはそういう話がしたかったんじゃないのよ。で、どんな子なんだィ?いい加減、教えなさいよォ」
ボルサリーノは最初からずっとベルの事を聞きたがっている。そろそろ教えてやらんとキレそうな気がしてぼんやり酔ってきた頭をフル回転させる。酒飲んだボルサリーノがキレるとちィと面倒なのだ。
えーと………なんだ。可愛らしい、色が白くて清楚で真面目で隙があってすぐムキになってやっぱり可愛らしい。いや違う、口にするには勿体無さすぎる。ええい、もうええわい。
「“終活”と“貯金”が趣味らしい」
「はァ?なんだそりゃ」
傷口に塩。
(わしもシケた趣味じゃとは思うたわ)
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