17-猫と赤い手


***少し生々しい描写あり***





ギャアギャアと恐ろしい呻きが聞こえる。
どこまでも苦しそうなその声に、全身に鳥肌が立った。

「……う……」

土の上に赤黒い染みを作りながら弱々しく藻掻いているその生き物は、猫なのだろう。
ただ、自分の知っている猫という生き物には見えなかった。
腹が潰れたのか、裂けているのか、どろりとした何かが零れ落ちそうになっている。
牙を剥き出しながら声もなく吐くような動作を繰り返しているその姿は、もう助からないのだろうなと思わせるには十分だった。
猫のすぐ近くには、タイヤの跡らしきものがあった。轢いた後、そのまま去ってしまったのだろう。
轢いた人は一体、何を思ったのだろう。それとも、何も思わなかったのかな。

きょろきょろと辺りを見渡すが、空き地や民家が数軒あるだけのこの寂れた道には、通行人は全くいないに等しかった。
若い男女がいたにはいたが、女が男の腕にしがみ付いて「やだぁ!」と言うと、男は「見ない方がいいよ」と女の肩を抱き、足早にその場を去ってしまった。
「待って」と言いたかったが、血の気の引いた身体は思うように動いてくれない。
私は携帯なんて持っていないし、何処に動物病院があるのかも分からない。私には何も出来ないのに。
それ以上見ていられなくて、ぎゅっと目を瞑った。顔に両手を押し当てて、耳から入ってくる音全てを意識から遮断しようとする。
涙が溢れてきた。怖い。辛い。助けて。
……でも、本当に助けが必要なのは私じゃないんだろうな。指先は冷たいのに、頭だけがやけに熱い。
ごめんねごめんねと頭の中で繰り返しながら、私はその場を離れようとした。そして大事な事を思い出し、ぴたりと歩みを止める。
……駄目だ。いけない。……でも、相手は猫だし。幸い人気もないし。
結局、五秒と悩まなかった。私は恐ろしい何かから逃れようとするかのように、大急ぎで猫の元へと駆け寄った。

「い、……やぁ……」

ぬるり、だかずるり、だかとにかく不快な感触がした。
首根っこを掴んで持ち上げ、もう片方の手で何かが零れ落ちそうな腹を支えて走り出す。
今にも貧血を起こして倒れそうな程青白い顔をしている私は、猫からしてみれば酷く頼りなかっただろう。

*****

結論から言えば、猫は恐らくだが助かった。それまでの過程はあまり思い出したくない。

私は猫を抱え、大急ぎでもっと人気のない場所まで走った。通行人はいなかったが、念の為にだ。
混乱する頭で必死に考えた結果、自分の体を噛み切って血を流す他ないという結論に至った。刃物でもあればよかったのだが、生憎そんなものは持ち歩いていない。
恐怖で脳が興奮状態になっていたのか、手首に神経が集中する事はなく、痛みも大して感じなかった。
手首からたらたらと溢れる血を必死に猫の腹に塗りたくる。気分が悪くて吐きそうだったし、始終鳥肌が治まらなかった。

思考回路がじんじんと麻痺し始めた頃、猫が鳴き声を上げた。ギャアギャアと、そして次第にニャアニャアと、猫らしく。
もう、何処を触っても異常な感触はしなかった。安堵のあまり、座り込んだまま項垂れてじっと地面を見つめる。
血が足りないのか少しばかりふらつきながらも、猫は何処かへとすたすた歩き出してしまった。長く細い尻尾がゆらゆらと頼りなさげに揺れている。
そして猫は、所々が欠けている古い木塀の下を潜り抜けていなくなってしまった。私にはもう追えない。ぼんやりしながら自身の体に視線を落とした。

掌も、着物も血まみれだ。でもまあ、いいよね。助かったんだもの。
怪我はあれで治った筈だし、貧血は時間が経てば何とかなるだろう。少なくとももう、想像すらつかない程の苦しみに藻掻いてはいないのだ。その事実だけで、もう。
「なァ。そんな所に座り込んで、一体何してんだい」

驚きのあまりびくっと肩が跳ねた。慌てて振り返る。
少し離れた所に、編み笠を被った男が立っていた。……あれは。

「……お兄さん」
「血でも吐いたのか?ひでェ格好してやがる」
「ち、違いますよ」

否定する為に左右に振った手は、べったりと赤く染まっていた。説得力ゼロ。
何と言ったものか。通りすがりの不審者に突然ペンキぶっ掛けられたんです。
こんな生臭いペンキがあるか。そしてどんだけショック受けてんだ私。呆然としすぎ。

「えーと……えっと……酷い怪我した野良猫がいて……病院に連れて行こうとしてたら途中で逃げられちゃって……」
「ふぅん」
「…………」

まただ。自分から聞いてきた癖に、至極どうでもよさそうな声。無礼な。嘘吐いたのバレたからだろうけど。
お兄さんがじっと私を見下ろす。まるで観察するような目だ。
何だか気不味くて、ふいっと視線を逸らす。

「……あ、あの……この辺りに池とかありませんかね……いや、水道のある公園でも……とりあえず水があれば何でもいいんですけど」
「無ェんじゃねえか」
「……ですよね」

どうしよう。いっそ着物を脱いで……それはそれで通報される。
このまま歩いて帰ったら、通行人がぎょっとした顔するだろうな。二度見とか三度見とかするだろうな。私だったらする。
はぁと溜め息を吐いてとりあえず立ち上がろうとした。

「……え」

バサリと何かが落ちてきて目を瞬く。
無造作に投げられたそれは、黒い無地の羽織りだった。

「……あ、あの……」
「貸してやる。ほら、立てよ」

お兄さんが手を差し伸べてくる。私はその手を掴もうとして、ぴたりと動きを止めた。
今の私の手は、赤子でも取り上げたんですかと言われそうな程赤く染まっている。
このお兄さんの着物、いくらしたんだろう。安物ではなさそうだ。弁償、無理。絶対。

「あっ……」

お兄さんが引っ込みかけた私の手を素早く掴んだ。
力強く引っ張られ、「うわっ」と間の抜けた声を漏らす。

「あ、あの……」

肩に腕を回してぐいぐいと歩かされ、またしても私は行き先の分からない旅に出る羽目になった。何これデジャヴ。
私の体には少し大きな羽織りで、血に濡れた着物を隠しながら歩く。
横目でちらりとお兄さんの顔を窺ったが、包帯のせいで表情がいまいち読めなかった。眼帯に替えてくれ。
そんな事を思っていると、お兄さんが不意にこちらを見た。無事な方の目とばっちり視線が合う。
咄嗟に顔を背けてしまったのは何故なのか、自分でもよく分からなかった。別に怖い訳じゃなかったのだけど。


20160119


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