02-夢と月


余りにも落ち着かない気分になって、布団を片手で押しのけ上半身を起こした。
別段暑い季節でもないのに嫌に身体が熱い。冷や汗が滲んでいる。

はぁ、と息を吐くと自身の腕で体を抱き締めた。小さな机の上に記された言葉を思い出そうとすると息が苦しくなって、僅かに吐き気が込み上げてくる。
……そうだ。あれは、教室っていうんだ。どうして忘れてたんだろう。信じられない。
髪を緩く握り締めながら、視線をうろうろと彷徨わせる。此処があの厭わしい空間ではない事を確認したかった。

「……どーした?」

ごろんと寝返りを打った坂田さんが眠たそうに半開きの眼でこちらを見た。
起こしてしまったようだ。物音を立てたり声を上げたりはしていないのに、いつから気付いていたんだろう。この人は何だか、妙に勘のいい時がある。

「……ううん、何も。怖い夢見ただけ」
「……へー……どんな?」

こういうふわふわとした実体のない恐怖は、自分の中で消化しないといけない気がする。
大した事はないと自分に言い聞かせながら、口角を上げて笑みの形を作った。

「えーと……どうしよ、忘れちゃった」
「何だそりゃ。……眠れねーんだったら、ジャンプでも読んでろ」
「余計眠れなくなるよね、テンション上がって」
「おうよ。燃えるからな」
「……んー、でもそうしようっと」

掛け布団をほいっと足元に跳ねのけて立ち上がった。
静かに襖を開いて、そっと閉じる。足音を殺しながら向かった先は、居間ではなくて玄関だった。
世話になりだして直ぐに買ってもらった下駄を履いて玄関の扉を開く。気を付けているのにガララと鳴る音が耳障りだ。
外に出てすぐ目の前にある手摺りに凭れながら、かぶき町の町並みに目を滑らせる。私はいつまでもここにいたい。……いつまでも、ここに。

坂田さんに拾われて数か月経った今、少しずつ思い出していく過去の光景は、息が苦しくなるようなものばかり。まるで存在を拒絶されているようで、泣きたい気分になる。私は何か悪い事をしてしまったのだろうか。
どこまでも美しい、煌々と輝く白い月を見上げて目を細めた。綺麗だと思うけれど、とても恐ろしい。
この月は、この世界と同時に私のいた世界をも照らしているのかもしれない。なんて、根拠のない馬鹿げた考えが浮かんでくる。この美しい月に照らされている内に、あの息苦しい世界に戻されてしまったらどうしようだなんて考えてしまうのだ。
本当は分かっている。私はこの世界にいるべきじゃないって。記憶が戻る毎に、違和感が大きくなっていく。だって明らかに時代が違うもの。何でみんな当たり前のように着物姿なんだ。時代劇の撮影か。カメラどこだよ。
それに、時代が違うだけではない筈だ。宇宙人が当たり前のように町中を歩いているし。ちなみに、宇宙人の存在は否定派だった。理由は、単純に怖いから。
昔テレビで見た、本物か合成かも分からない映像の宇宙人は外見が完全にホラーだった。未だにトラウマです。あの黒く落ち窪んだ目は何なんだ。

辛くて辛くて、助けて下さいと無意識にせよ毎日願っていたから、目には見えない何かが助けてくれたのだろうか。こっちでもう一度幸せになれるチャンスをあげるよ、と。
どちらにせよもう、戻りたくなんてなかった。例え帰る方法があったとしても。


*****


外に出て二十分は経っただろうか。少し気分が落ち着いてきたのでそっと中に戻れば、すぐ傍の廊下に坂田さんが座り込んでいた。キノコばかり摂取している赤い服のおじさんよろしく、その場で思い切り飛び上がる。

「オイ何、その反応。俺は幽霊か?」
「いや、吃驚するよこれは。あー、まだ心臓が踊り狂ってる……」
「陽気な心臓だなオイ。ちなみに俺のはいざとなったらロック奏でるけどな」
「えっ何そのドヤ顔」

ちょっと引いたが、少し遅れて笑いが込み上げてきた。
うくくと小さく笑っていると、笑うんじゃねーと掴みかかられ、腕一本で軽々と持ち上げられる。気分は出荷される米俵。

「きゃー、○ャックが空飛んでるわー」
「いや、ジャッ○は飛んでねーよ。つーか、それだとロ○ズが持ち上げたの?どんな怪力?」
「そう言う坂田さんも、何でこんなに馬鹿力なの?」

視界の高さと浮遊感に子供のようにテンションが上がり、けらけらと笑いながらそう尋ねた。
腕一本で肩に担がれるなんて経験、きっと今までなかった。やっぱりこの人ちょっと変。いい意味で。褒めてます。

「男は苺牛乳飲んでりゃ筋肉付くんだよ」
「贅肉付くだけだと思う」

ぼふっと布団の上に下ろされ、柔らかい心地よさに眠気が込み上げてくる。
ふぁ、と欠伸をすれば坂田さんまでつられて大きな欠伸をした。やっぱり眠かったんだろうな。……ごめん、余計な心配かけて。
これから先、どうなるかなんて分からないけど。でも今はまだ、此処にいていいよね。



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