03-お兄さん


「ふぁ」

川原の斜面。草むらの上に寝転がってのんびりしていたら、うっかり眠ってしまったらしい。
目が覚めて先ず、ここは何処、私は誰だなんて思ってしまった。何回記憶喪失になるつもりだ。

きょろきょろと辺りを見渡せば、すぐに買い物袋が見つかった。ちゃんと中身も入っている。
陽はまだ落ちていないものの、辺り一面はすっかり眩い茜色に染まっていた。眼球が光に晒されて間もない所為か、視界がチカチカと不快に点滅する。もう一度大きく欠伸をしながら体を伸ばした。

「く、ふぅ……!ふあぁ……ん、ん……」
「……クク」
「………………」

男のものらしき笑い声が耳に入り、私はがばりと起き上がった。慌てて辺りを見渡す。
……あ。人が、いる。恥ずかしい。いっそ幽霊であれ。無茶言うな。
真っ先に目に入ったのは、派手な色と模様の着物。一瞬女だったのかと思ったが、よくよく見れば普通に男の人だった。カマさんではありません。……あ、顔に包帯巻いてる。怪我してるのかな。

「あ……ど、どうも……」
「やらしい声出すなァ、お嬢さん」
「…………」

バッチリ聞かれていた。誰もいないと信じ切って思い切り気を緩めていた過去の自分に拳骨を喰らわせたい。いや、やっぱり痛そうだから平手にしとこう。デコピンでも可。

「あ……あの、違います……た、唯の欠伸ですよ」

割と必死に弁解したのだが、肝心の男はと言えばこっちを見てすらいなかった。酷い。こっち見ろ。
男……もとい、お兄さんがどうでもよさそうな顔をして煙管の煙を吐き出した。

「んなもん分かってらァ」
「…………」

なら何故あんな事を言ったのか。……敢えて?
そうか。やらしいのは私ではなく、このお兄さんの方だ。主に思考回路が。危険が危ない気がしたので、袋を引っ掴んで立ち上がろうとした。
だが、どうしても視線がちらちらと怪しいお兄さんの方へと移ってしまう。正確にはお兄さんの顔に巻かれた、痛々しい包帯に。気付けば私は口を開いていた。

「……あの……大丈夫ですか?怪我……」

初対面なのに何を言ってるんだろう、私。でもすごく気になる。
片方の目が包帯で完全に覆われている。軽い怪我には見えない。全然大丈夫さ、ハハッ!とか言ってほしい。それはそれで大丈夫じゃない。

「昔の傷さ。左目ならもう見えねェ」
「……そ、そうなんですか……」

全然だいじょばなかった。やっぱり聞かなきゃよかったかもしれない。ものもらいだと思い込めばよかったな。もしくはファッション。後者はやっぱり嫌だ。
余計な事を言わせてしまったが、お兄さんは別段機嫌を損ねた訳でもなさそうだ。まだ陽は落ちていないし、後もう少しここにいよう。
坂田さんがいない、静かな万事屋にはあまり帰りたくない。溜め息を吐きながら袋を漁る。
フルーツオレの紙パックにストローを挿し、ちびちびと吸い上げながら川を眺めた。あ、かなり温くなってる。まあいいか。冷蔵庫が来い。

もしも、少し前までの私が受けていた苦痛の数々を知ったら、両親はどう思うだろう。
決してそれを知る事が叶わなくなっていたのは、却って幸いだったのかもしれない。……なんて、本当は寂しくて堪らなかった癖に。
私がいつかあんな目に遭うなんて、微塵も思ってなかっただろうな。……だって、優しい両親だったもの。今にして思えば、あれは親馬鹿だったもの。……気付けない程に幸せ、だったな。
早く坂田さんに帰ってきてほしい。今、私は世界で一人っきりだ。本当はそんな訳ないと分かってはいるけど、心の底からそう感じてしまっているから、きっとそんな事は全くなく、また、ただの事実でもあるのだろう。

「なァ」

慌てて隣に目を向ける。うっかりお兄さんの存在を忘れてしまっていた。私は失礼でお兄さんは危険。碌な奴いないねここ。

「……は、はい?」
「何がそんなに悲しいんだい」
「……え」

そんなに哀愁でも漂っていたのだろうか。急に恥ずかしくなってきた。
引き攣った笑みを浮かべながら、何と言ったものかと考える。この時代にいじめってあるのだろうか。あるとしたら、どんな風に危害を加えるのだろう。
もしかしたら、私の知っているいじめとは随分色が違うのかもしれない。悪口とかじゃなく、いきなりリンチに入るとか。なにそれ怖い。お命頂戴!とか言いながら刀で斬りかかるの?節子、それいじめちゃう。ただの殺人や。

「えっと……えーと……」

お兄さんは自分から話しかけてきた割にはどうでもよさそうな、どこか冷たい目をしていた。
何故聞いたし。暇潰しか。この人絶対人見知りじゃない。人見知りから最も遠い位置にある何か。

「ちょっと、きつい事言われちゃって。あはは……」

言われたというか、書かれたというか。油性マジックで。まあ、どうせ真剣に聞いちゃいないだろう。
曖昧に笑いながら一応返事を待って黙っていれば、お兄さんは先程よりも勢いよく煙を吐き出した。

「くだらねェ」

……あ、駄目だ、この感じ。周りの空気に拒絶されているような感覚。学校と言う狭い箱庭の中にいたときの様に、息苦しい。

「……あはは、そうですね」
「どうせ、今みてェにへらへら笑ってたんだろ。そんなんだから舐められんだよ。十倍にして言い返すぐれェしてみたらどうだ」
「……はは……」

この人、さては苛める側の人間だな。何というか、発想からして違う。
この人ならきっと、私のように必死に気にしてないフリをして受け流そうとなんてしないのだろう。なら一体どうするのかなんて、あまり考えない方がよさそうだ。怖いね。他人事です。

「……そう、ですね。あはは……頑張ってみます」
「そうやって馬鹿みてェに愛想笑いしてる内は無理だろうよ」

ぐさ、と男の言葉が矢のように突き刺さる。この人、容赦ねぇな。
もう笑う気なんて微塵もしなくて、あからさまに困った顔をしながら川の流れに視線を戻した。何かもう、飛び込みたい。だが飛び込まない。風邪引く。
言い返したりしなかったのは、そんな事をしても火に油を注ぐだけだと思ったから。食ってかかりでもすれば、数人がかりでやり返されるのだろうし。何ともなさそうな顔をしているのが一番だと思ったのは、間違いだったのだろうか。
友達だと思っていた子は、自分が助かった途端にあっさりと掌を返した。教師は少し嫌そうな、迷惑そうな顔をしていた。……味方なんて、一人もいなかった。
死ぬ事ばかり考えていたのに、今では毎日が楽しい。そしてその分怖くもなる。もし目が覚めて、万事屋の天井が視界に映らなかったらどうしようかと。
ちらりと横目でお兄さんの顔色を窺えば、視線に気付いたお兄さんが小さく口角を上げた。

「まァ、俺が口出しするこっちゃねェけどよ」

ほんとにな。また泣きそうになったわ。
中身が零れない様に気を付けながら、袋の隙間に紙パックを押し込んだ。立ち上がって着物の汚れをはたく。

「じゃ、そろそろ暗くなりそうなんで帰ります。……すいませんでした。つまんない話しちゃって」
「聞いたのは俺の方だぜ」
「……え?あはは、そうでしたっけ……」

そう言えばそうだったね。いや、もうどうでもいいけど。
小さく頭を下げてから、お兄さんに背を向けて歩き出した。車道へと続く斜面を登りきって、ちらりと後ろを振り返る。
……しかし、個性的なお兄さんだな。見た目は勿論のこと、内面も。あそこまで気が強かったら悩みなんてなさそうだ。失礼すぎる偏見。


*****


「……あれ?何でいるの?」
「あ?何だ、その言い草。反抗期か」
「違う違う。思ったより早かったねって」
「ちゃんと働いてたっつの。意外と客が少なくて、早い目に上がらせてもらえたんだよ」
「へぇ。わーい」
「うぐっ」

ソファに凭れて寛いでいた坂田さんに後ろから抱き付くと、首が絞まったらしくかなり苦しそうな声が上がった。すいません。私は暗殺者違います。

「あ、ごめん……」
「げほっ、テメー!殺す気か!」
「まさか。坂田さんが死んだら私も死んじゃう」

寂しくて。……あー……想像もしたくない。また、独りなんて。

「なんちゃって。晩御飯の用意するね」
「……なぁ」
「え?」

笑いながら振り返れば、坂田さんは「何でもねーよ」と言ってテレビの方を向いてしまった。
……何だったんだろう。気になる。髪に包帯でも付いてた?それはさっきのお兄さん。

「どしたの?」
「どーもしねーよ。それより、晩飯なんだよ」
「シチュー」
「マジでか」


*****


野菜を切って灰汁抜きに水に浸けていきながら、先程のお兄さんの姿を思い浮かべた。
派手な着物だったな。女性でもあんな派手な着物着てる人、そうそういない。今頃何してるんだろ。まだ河原にいる……訳ないよね。どんだけ暇?
もう家に帰ってるだろうな。子供とかいたりして。……というか、どうしてこんなに気になるんだろう。……個性的だからか。そうか。納得。


*****


「美味しい?」
「おー」

出ました「おー」。誰かこの「おー」を通訳して下さい。今の私には理解出来ない。

「今日ね、川原で変わった人見た」
「あー?……んだ、変質者か?露出狂?」
「いや、そういう「変わった」じゃなくて……。でも話してみたら思ったよりは普通の人だったな。ちょっと性格きつかったけど」
「んな奴、どーせ化粧もきつかっただろ」
「いや、男だよ」

性格きついで化粧の濃い女を連想したようだ。……いや、分からないでもないけど。
そういえば着物は派手だったけど、化粧はしてなかったな。よかった。だからカマじゃねーよ。

「あ、でも着物は派手だったよ。やっぱり外見に出るのかな、性格が」
「そーだろ。俺なんかほら、外見からして滲み出てるだろーが品の良さが」
「………………」
「あれ、オイ。何処見てんの?目線おかしくね?」

ふと気付けば吸い寄せられるようにふわふわな天パを凝視していた。
……はい。外見に性格が出ております。



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