05-傷と血


「いたっ……!」

指先に痛みが走って小さく声を漏らす。料理中にぼんやりしていたら、包丁で指先を斬ってしまった。
まな板の上にぽたりと赤い液体が落ちる。それを見ていると、嫌な記憶が蘇ってきた。

……いつだったか、いじめの一環で教科書にカッターの刃を挟まれていた事があった。
血の溢れる指先を見ながら、そこまでする?と半ば呆然としたのは今でも覚えている。
それからは血を見ると、怪我をした事と言うより、他人の悪意の恐ろしさを思い出して身が竦むようになった。この世には、人に血を流させて楽しそうに笑う人間もいる。
今、坂田さんは家の中にいない。詳しくは面倒だからと言って教えてくれなかったけれど、依頼を受けて仕事に行っている筈だ。
一旦台所から離れ、絆創膏が入った救急箱なんてないかなと家の中を歩き回る。
なかったらティッシュでも巻いておこうかなと思っていると、どたどたと何かが倒れ込む様な音が聞こえた。

「ど、どどど、泥棒……?」

勘弁して。無理です。ここには大金なんてないよ……そんな事を思いつつ、そろりと音源である玄関を覗き込んだ。
相も変わらず好き勝手に跳ねる銀色の髪は、所々が赤く染まっている。私は慌てて坂田さんに駆け寄った。

「さ、かた……さん」

情けない声で名前を呼ぶが、返事はなかった。
泣きそうだ。こういう時は一体どうすればいいのだろう。私には分からない。
救急車を呼ぶには私の世界と同じ番号でいいのだろうか。と言うか、救急車というものはあるのだろうか。

「ううう……」

とりあえず仰向けにしてみようとしたが、これがまた難しかった。
意識を失った成人男性は思いの外重たい。坂田さんなんて、私を腕一本で持ち上げられると言うのに。
ぱくりと裂けた頬が痛々しい。何となくその傷を指先でなぞれば、ぴりっと痛みが走った。そうだ、包丁で切ったのだった。

「あ、……え?」

坂田さんの頬にはまだべったりと血がこびり付いている。だが、先程と明らかに違う点があった。
指先でなぞった部分だけ、綺麗に皮膚がくっついている。謎の現象に、私は大量の疑問符を排出しながら首を傾げた。
試しに、皮膚の裂けている部分に指先を当ててそっと動かしてみる。
……やっぱり、治った。でも、怪我をしていない指では何も変わらない。

「……は?」

とりあえず間の抜けた声を出している場合ではないと気付いて、私は坂田さんの着物を剥ぎ取った。これもまた難しい。
インナーの前を肌蹴させてみれば、やはり腹の辺りに鳥肌が立つ程深い裂傷があった。手を伸ばしかけて、引っ込める、

「……こんなんじゃ、足りないかも」

独りごちて、台所へと足を運ぶ。
包丁を手に戻ってきた私は、少しの間躊躇っていたが、やがてそれを皮膚の上に押し当てた。



*****



ゆさゆさと揺さぶられて、意識が浮上する。
いつの間にか廊下で横になったまま眠りこけていたらしい。

「……ん……」
「おい、起きろ」

いつも通り、死んだ魚のような目でこちらを見る坂田さんに違和感を感じた。
そうだ、いつも通りだからおかしいんだ。

「あ……坂田さん、大丈夫?」
「おー。……俺、怪我してたよな?」
「うん。吃驚した」
「いや、吃驚したじゃねーよ。なんでこんな綺麗さっぱり治ってんの?」

正直にあった事を話せば、坂田さんは目を丸くしていた。
うん。当然の反応だ。ああ、そりゃそういう事もあるよな、なんてあっさり納得されたらその方が怖い。

「信じらんね」
「私も」
「……おい。これ、気付いたの今日か?」
「うん。……今更だけど、これ夢じゃないよね?」

むに、と頬を引っ張ってみれば普通に痛かった。はい、現実決定。
坂田さんが赤く染まった着物を摘まみ上げて「これが現実だって証拠だろ」と呟く。

「そうみたいだね。……背中痛くない?廊下に枕と布団運んできただけだから」

寝室まで運ぶのは相当骨が折れそうだったし、未だ目を覚まさないままだったので下手に動かすのは怖かったのだ。
昨晩は二人揃って廊下で眠るというちょっとしたカオスになっていた。そんなに廊下が好きなんですか。違います。

「あー、ちょっと痛ぇわ」
「ごめん、運ぶの色んな意味で無理だったから……」
「いや、んな事はどうでもいいけどよ」

薄らと赤く染まった掛け布団のカバーを剥がしていると、背後からぽんと肩に手を置かれた。目を瞬いて振り返る。

「……坂田さん?」
「なあ。お前、この事誰にも言うなよ」

まだそこまで考えていなかったので、のろのろと頭を働かせた。
……確かに、その方がいいかもしれない。
奇異の目で見られたり、良いように利用されたりする可能性が無きにしも非ず。実験動物?見世物小屋?恐ろしい響きです。

「……分かった。内緒にしとく」
「おう。……怪我した奴がいても、絶対助けようとすんじゃねーぞ」

ぎくりと嫌な心地になって、少しだけ目を見開いた。
目の前に死にかけている人がいても、見なかった事にしなければならないのか。
私のほんの少しの怪我で助けられるかもしれないのに。

「……そ、っか……そういう事に、なるね」
「勿論、救急車なんかは呼んでやりゃいいけどよ。後は見なかった事にしろ。……どんなに、苦しんでる奴がいてもだ」

若干胸が痛むが頷いた。
確かにそうするのが最善だろう。今まで通り、平穏な暮らしを続けたいなら。
悪意ある視線に晒されるのはもう、沢山だ。

「……朝御飯食べる?」
「……おう」



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