06-背後から


あれから特に何も起こらず、特に新しい何かを思い出す事もなく、平凡な時間が流れていった。
あの時何があったのか尋ねてみると、チンピラ同士の派閥争いに巻き込まれただなんて言っていた。
最初は全く違う名目で呼び出されて、知らない内に頭数に加えられていたので巻き込まれる直前まで気付かなかったらしい。詐欺だ。
チンピラといっても、こんな時代だし、その人達は刀を持っていたんじゃなかろうか。何て物騒なんだ。ナイフでも十分恐ろしいのに、刀だなんてもう相手を殺す満々だよ。刃渡り長すぎ。野菜切れないじゃないか。刀で野菜を切る奴がいるか。

今日もまた、坂田さんは依頼で出かけていて暇だ。ぶらぶらと町中を散歩しているが、やはりこちらの方が少しばかり自然が多いし景色もいい。
大きな屋敷や橋なんかを見ると、時代もののドラマみたいでテンションが上がる。あまり遠出をしない性質だった分、余計に。

「ふぁ……ん、ん……、きゃ!」

人がいないので伸びと欠伸をしていたら、背筋をつつっと何かが這った。反射的に甲高い声が漏れる。
飛び退って距離を取りながら振り返ると、変質者ではなくあのお兄さんが立っていた。……いや、やっぱり変質者でいいや。

「クク」
「な、な、何するんですか……」
「発情期の雌猫みてェな声出してっからよ、誘ってんのかと思ってな」

この人歩く十八禁だ。間違いない。アダルトコーナーに帰って下さい。本屋とかレンタルビデオ店とかの。

「ちょ、ちょっと何言ってるかよく分かんないんで……」
「顔赤ぇなァ」

視線を逸らしながらぱたぱたと手で顔を煽いだ。熱い。地球温暖化かな。
この人の全く自重しない発言にどう返せばいいのか、私にはよく分からない。今まで周りにいなかったタイプだから。いたらおかしいね。

「あ、そうだ……お兄さん、名前はなんていうんですか」
「……名前、か」

お兄さんは口を噤んで黙り込んでしまった。目だけは依然としてこちらをじっと見据えているが。
何故こんな空気になってしまったのかさっぱり分からないので、小首を傾げながらじっと見つめ返す。別段愉しくもなさそうな表情でお兄さんが口を開いた。

「先ずはお前さんから名乗りな」
「え……あ、言ってませんでしたっけ」
「言ってねェよ」
「……雪です」

本当はもう親にもらった名前を思い出していたけれど、私は坂田さんにもらった方の名を名乗った。
きっと、思い出したくなかったからだろう。本来の名前に付随する疎ましい思い出の数々を押し込めておきたかったから。

「お兄さんは?」
「まだ秘密だ」
「はい?」

意味不明な回答に、私はあからさまに困った顔をした。どういう事なの。
名乗らないなんて、そんな……あ、私も正確には名乗っていなかった。え?じゃあ、もしかしてこの人も記憶喪失で名前が?
……いや、逆立ちしてもそういう風には見えない。落ち着きすぎている。この人が記憶喪失なら世界中の人が記憶喪失。何を言ってるんだ。

「どうして?」
「もっと仲良くなったら教えてやるよ」

ふっと煙を顔に向かって吹きかけられ、煙たさにけほけほ咳き込みながらじわりと涙を浮かべた。
……うわ、楽しそうな顔。まさか、これが世に言うサディストってやつ?怖い。悪霊退散。

「……ケチ」
「そう拗ねんなよ。こないだみたく、素直にしてな」

カッと頬が熱くなった。自分が死んでいる筈だった事を思い出して混乱状態だったとはいえ、いきなり訳の分からない事を言いながら縋ってしまった事を指摘されて恥ずかしくない筈がない。私はもう一度記憶喪失になりたい。

「お……お、覚えてないです」
「じゃあ、なんでんな顔してんだ」
「風邪引いたんですすごい勢いで」
「そりゃ気の毒になァ」

小馬鹿にするように言われ、この人に口で勝つのは難しいと思い知る。
さっさと話題を変えようと考えていたら、先にお兄さんの方が口を開いた。

「今から暇はあるかい」
「え?ええ……特に予定もないので散歩してたんです、けど……」

言い終わらない内に素早く手首を掴まれた。目を見開いて固まっている内に、ぐいぐいと何処かへ引き摺られていく。涼しい顔して何なのこの馬鹿力。
「お兄さん」「何処行くの」と何度呼びかけても、「あァ」と生返事しか返ってこない。何てこった。




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