冬の朝



 ソファーにぐったりと寝そべる彼女の姿を見た瞬間、背筋がヒヤリとした。天使……ミカエルの死が脳裏を過ったせいだ。役に入り込みすぎる癖が出た。
 冷静になってよくよく見れば彼女、松川リオは妙な姿勢で眠っているだけのようだった。
 息を整える。
 これを目撃した誰かがまた見間違いをするかもしれない。となれば第一発見者である俺に彼女を起こす義務があるだろう。

「おい、リオ」
 早朝であることを考慮して低く小さく彼女を呼ぶ。反応はなかった。
 まさか本当に死んでいるんじゃないだろうなと冷や汗が伝ったが、微かに呼吸の動きを確認してホッとする。

 俺は、幼馴染みである紬を除くカンパニーの面々を苗字で呼んでいた。しかし彼女は自分を名前で呼ぶよう求めた。
 松川と呼ばれては自分のことか支配人のことか分からないからだと。
 別段、苗字で呼ぶことに拘っていたわけではないので要望に応えてリオのことはリオと呼んでいる。
 しかし考えてみると、俺はこの劇場の支配人、松川伊助を「松川」とは呼ばず「支配人」と呼ぶのだ。勘違いの起こしようもないのではないだろうか。

 目覚める様子のないリオの肩を掴んで揺すり、もう一度その名前を呼ぶ。
「リオ」
 すると彼女の唇がきゅっと結ばれ、次の瞬間には小さく噴き出していた。
「……なんで寝たふりしてるんだ。まったく……」
 ゆっくりと体を起こし、リオは照れくさそうに笑った。
「ごめんなさい。でも丞さんが近づいてくるまでは本当に寝てましたよ」
 それはつまり俺が声をかける以前に目が覚めていたということでもある。

 あくびを噛み殺し、リオが尋ねてくる。
「丞さん、これから走りに行くんですか」
「ああ」
 続く言葉を失って少々気まずい思いをする。彼女と、どんな会話をすればいいのか未だに分からない。

 正直なところ、週に何度かここに来て雑用を手伝っている彼女の第一印象は、あまり良くなかった。
 無給で働いてるので無給なりの仕事しかやりません、という言葉が俺の性分とは合わなかったのだ。
 支配人の遠い親戚、詳しくは聞いていないがおそらく姪か何かだろう、おじに似て、いい加減かつ適当な娘だと思っていた。

 それでも、眠っているところを俺が起こしたんだ。このまま立ち去るのは気が引けた。
 苦労して話題を絞り出す。
 今日は土曜日。リオは朝から“出勤”する日だ。しかしそれにしても早い気がする。まだ五時になっていなかった。
「……今朝は、やけに早いんだな」
「早起きしたので、散歩がてらここまで来ちゃいました」
 自転車を飛ばしてやって来るのは散歩と言えるのだろうか。

 出かけるタイミングを逸し、リオの手にある本に目を留めた。それに気づいてリオが表紙を見せてくれる。
「誉さんの詩集です。面白いですよ」
「……そうか?」
 俺と同じ冬組のメンバーである有栖川誉とリオは、言われてみると似ているような気もした。
 どちらも俺には理解不可能な感性を持っている。そして両人とも周囲を振り回すマイペースな人間だ。
 もっとも、リオは有栖川ほど極端に芸術的な言動をするわけではないが。
 彼女の場合は……有栖川と違って女で、ここの劇団員ではない。扱いにくさの大部分はその事実が原因だろう。

 詩集をパラパラとめくり、リオは楽しそうに微笑んだ。
「不思議ですよね。誉さんって、あんなに情熱的なのに恋の詩がないんですよ」
 まだ買ってない他の本にはあるのかもしれないけれど、と彼女が続けたところで思わず目を瞠った。
「有栖川の著書を買ったのか」
「え? はい。私物ですよ、これ」
 誉さんがくれるって言ったけど欲しかったから自分で買いました、と。
 しばらく開いた口が塞がらなかった。呆れではない、単純な驚きだ。
「……本当に読者がいたんだな」

 あの奇天烈な言葉の数々を耳にすると集中が掻き乱される。文章であれば印象が違うとでもいうのだろうか。
 それともリオは毎日ここに来ているわけではないから、俺ほど有栖川の詩に辟易していないのか。
 あるいは、やはりリオと有栖川の感性が似ているのだろうか。
 何にせよ謎だ。あの詩に金を出す人間が実在しているということが。

 渋面で黙り込んだ俺を見上げ、リオは不思議そうにしている。
「丞さんは誉さんの詩、嫌いなんですか」
「嫌いというか、理解できない」
「え〜。そんなの当たり前ですよ」
 てっきり有栖川のフォローをするものと思っていたら、リオは意外にもバッサリと切って捨てた。
「他人のことを理解できる人なんて、いませんよ」
 間延びした口調のわりには辛辣な言葉が意外だった。

「理解できないのに読んでいるのか?」
「理解できないから読んでるんです〜」
 リオは何を馬鹿なことを言っているのかとばかりに唇を尖らせる。その態度は心外だった。
 理解できもしないものをどうやって楽しむのか。
 自分と同じような人が書いたものなんて先が分かって面白くないと彼女は言った。
「誉さんは、すごいですよ。私には思いもつかない言葉を組み合わせて奇想天外な世界を作るんです。それが面白くて。誉さんの見てる世界ってどんな風なんだろう」
 それはもう目に痛い原色が溢れかえる華美で豪奢な世界に違いない。たとえば、そう、GOD座が作り出す世界のような。

 唐突に、有栖川のどこが苦手なのかを理解した。
 大袈裟な身振り手振り、きらびやかに飾り立てた言葉。あの言動がGOD座での嫌な思い出をつついてくるのだ。
 しかしそれはもちろん有栖川の責任ではない。
 有栖川は自称するように紳士的な男だ。たとえ趣味嗜好は似ていたとしても、神木坂さんのように卑劣な真似をすることはないだろう。
 俺は有栖川誉を嫌っているわけではない。ただ理解が及ばないから、どうしていいか分からないのだ。

 再び詩集へと視線を移して、リオが言う。
「この世が理解できる人ばっかりなら、お芝居なんて成り立たないですよねえ」
「……そうかもしれない」
 芝居作りは役や時代背景への理解から始まる。つまるところホンを受け取った段階では未知、何も理解していない状態なのだ。
 役者にせよ観客にせよ、その芝居を理解していく過程を楽しんでいる。

「あっ」
 リオが小さく声をあげた。
「出かけるところだったのに、引き留めちゃってすみません」
「いや……」
 気づけば五時をまわっていた。コースを変えていつもよりペースを上げればいい。それもいい鍛練だ。
「朝ごはん作っときます。行ってらっしゃい」
「……行ってくる」
 にっこりと笑って手を振る彼女には、もうミカエルの面影はない。
 だが、どこかで見たような気がした。ミカエルが恋をした人間の娘だったかもしれない。

 玄関を出ると冷たい風が頬を突き刺す。
 なんとなく、俺が帰る時間を見計らってリオがコーヒーを淹れてくれるような予感がした。前にそういうことがあったんだ。
 リオに対する苦手意識が少し薄れたのを感じていた。



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