時には甘えるのも



 情けないことにどうしたらいいのか途方に暮れてしまって、俺は宛もなく天鵞絨町を歩いていた。
 そしてちょうど図書館の前にさしかかった時、ヤトに会ったんだ。

 こちらに気づいたヤトが軽く手を挙げて近づいてくる。
「臣もなんか借りに来たのか」
「いや……」
 にこやかに尋ねる彼に、返事をしようとして咳き込んだ。
 ああ、しまったな。まず最初にマスクを買うべきだった。それすら思いつかないとは、やっぱり頭がボーッとしている。
 外へ出てきたのは悪手だっかもしれない。しかし寮にもいられなかったんだ。

 俺の様子を見てヤトはすぐに察した。
「なんだ、顔赤いな。風邪か? だったらフラフラしてないで部屋で休めよ」
「いや、他のやつらに伝染したらまずいと思って出てきたんだが」
「はあ? ……あー、まあ、臣らしいっちゃらしいな」
 幸い秋組は公演中でも稽古中でもない。夕飯も皆でなんとかするだろうし、誰かに伝染す前に俺はとりあえず寮を出た方がいいと思ったんだ。

 医者に診てもらうほど酷くない。安静にしておけばすぐ治るだろう。
 ただ、どこに行くか迷っている。ホテルに泊まるのも金がもったいないしなあ。
 ヤトは少しの間、どことも知れないところを見つめて考えていた。そして言う。
「俺の部屋に来なさい。病人は大人しくしてろ」
 確か彼はビロードウェイから少し離れたマンションに一人で暮らしているんだったか。
 俺はありがたく、彼の申し出を受けることにした。

 ヤトの部屋は質素だった。装飾品なんかの類いは見当たらず、ぎっしり本が詰まった棚とそこから溢れ出した本やDVDがあちこちに置かれている。
「薬飲んだ?」
「ああ。寮で飲んできた」
「じゃあもう横になっとけ」
 言うなり彼は布団を引っ張り出して俺をそこに押しやった。
 寝床を奪うのは申し訳ないので、夜までに良くなるといいんだが。

 横になってもなかなか眠気が来ない。
 ヤトは図書館で借りたのであろう本を鞄から出していた。
「何を借りてきたんだ?」
「一昨年“百花”がやった公演の原作と現代戯曲を四冊、小説二冊、あとミュージカルのDVDを二本」
 もしかすると彼は自宅にいる時間をすべて演劇の勉強に費やしているんだろうか、と思う。
「ミュージカルもやるのか」
「ああ。MANKAIカンパニーでもそのうちやりたいな」
「うーん」
 それについては返事に困る。俺は音痴だからできれば歌は遠慮したい。

 ヤトが座って小説を一冊、手に取った。知らないタイトルだが恋愛モノのようだ。
 その時、短い着信音が鳴る。ヤトが俺の方へ目を向けて言った。
「『聞くなよ、ダンカン。あれは弔いの鐘。お前を呼んでいるのだ、天国へ。あるいは地獄へ?』」
 どこかで聞いたことがある。有名な台詞だ。なんだったか。俺が思い出せないでいるのを見抜いてヤトは苦笑した。
「“マクベス”だよ。まあ、咄嗟に出てこなかったのは風邪でぼんやりしてるせいってことにしといてやる」
 シェイクスピアか。芝居の基礎中の基礎だ。もし雄三さんだったら「それくらいすぐ出てこないで演劇なんかやるな!」って雷が落ちてたな。

 ヤトはスマホを見てまたすぐポケットにしまった。
「俺じゃない、臣のだ。LIMEの通知だろ」
「すまん、代わりに見てくれ」
 自分のスマホを出してヤトに渡す。目が痛くて画面を見る気になれない。
「太一から。『晩ごはん、監督先生がはりきってるッス! 臣クン何時に帰る?』……確か昨日と一昨日もカレーだったよな」
 どうも遠回しな救援信号らしいぞとヤトは笑った。
「今日は綴も晩まで出かけるって言ってたからなあ」
 太一には悪いが、晩飯を作りに帰るのは無理そうだ。三日連続のカレーライスで耐えてもらうしかない。

 風邪を引いているとは、なんとなく言いにくかった。だから俺は「野暮用がある」と言って出てきた。
「ちょっと飲むついでに俺んちに泊まることにした、って伝言しとくよ。監督にも俺から送っといた」
「面倒かけて悪い」
「べつに面倒じゃないって」
 たぶん、寮に帰れば皆が気を遣ってあれやこれや世話を焼いてくれるだろうとは思う。しかしそういうのには慣れていない。
 世話を焼くのは好きだが、他人に面倒見られるのは……反応に困ってしまう。

 眠気を待ちながら、小説を読んでいるヤトをボーッと眺める。レッスンルームで見るのとは違った顔に見えた。
 よく考えると俺はヤトのプライベートを全然知らない。
 普段はだから何ってこともないが、風邪で気が弱っているんだろうか、やけにそのことが淋しく感じられた。

「ヤトはどうして役者になったんだ?」
 話しかけてしまってから後悔した。彼は今、邪魔されたくないんじゃないか。
 だがヤトは気にする様子もなく答えた。
「身も蓋もないことを言うと“すっとやってたから”だな」
「本当に身も蓋もないな……」
「ガキの頃から親父は俺がこっちの道に進むものと決めてたし、俺もべつに嫌じゃなかったし」
 そうして舞台に立つようになり、休むことなく立ち続け、今のヤトができあがった。

 雄三さんが強すぎるというのもあるんだろうが、そもそもヤト自身に「反抗」って言葉が似合わない。
 役者になれと言われてそうしたように、MANKAIカンパニーを手伝えと言われてそうしたように。
 彼が「嫌だ」と言うのを聞いたことがないし、想像もできない。
 何事もすっぽりと自分の中に受け入れてしまう。度量の広いやつだとずっと思っていた。
 きっとヤトには不得意な役ってものがないんじゃないか。

 だがヤトは、そんな自分をあまり良く思っていないらしい。
「どうして役者になったのか。その理由がないようなもんだ」
 俺には、ヤトはなるべくして役者になったように見えるんだがな。
「秋組のポートレイトを見てちょっと羨ましかったよ。俺は万里みたいに何でもできるわけじゃないけど、波風のない人生を送ってきたから」
「まあ……秋組は波瀾万丈なやつらが揃ってるもんなあ」
「臣も含めてな」
 役者として自分にはそれが物足りないとヤトは笑う。どこか苦さのある笑顔だった。

「『人生はただ彷徨きまわる影法師、哀れな役者……』」
 今度は聞いたことがない台詞だ。これもマクベスだろうか。
 シェイクスピアは誉さんが揃えてたから、今度借りて読んでみようか。いつか秋組もシェイクスピアをやるかもしれない……。
 そんなことを考えながら、いつの間にか眠っていた。

 目が覚めて一番に感じたのは甘い香りだった。
「おはよう、臣。夜だけど」
「ああ、おはよう……」
 見ればヤトがプリンを食べていた。彼は甘いものがそんなに好きじゃなかったと思うんだが。
 以前聞いたことを思い出していたら、ヤトがニヤリとして言う。
「プリンだけは好きなんだよ。俺が唯一手作りできるデザートだしな」
 俺が言うのもなんだが、デザートを手作りしているヤトってのはどうにも似合わないな。

 時計は21時半を指している。うとうとしただけのつもりが、結構な時間眠っていたようだ。
「おかゆ食べる?」
「いただくよ。何から何まで悪いな」
「人の世話する楽しさは臣も知ってるだろ」
 そう言われると弱い。確かに俺も、劇団の誰かが風邪でも引いたら嫌がられるくらいに世話をしたくなるだろう。
 それで自分の世話をされるのは気恥ずかしいってのも勝手な話だ。

 ヤトが粥を温めるうちにいい匂いがして食欲が湧いてきた。一眠りしたお陰で風邪もかなり良くなったようだ。
「病気になんてならないのが一番だけど、今度があったらちゃんと太一なり監督なりに言えよ。きっと皆、よってたかって世話を焼いてくれるから」
「そうだな……そうするよ」
 むず痒いような居心地の悪さはあるが、たまには人に甘えるのもいいものだと思えた。
 この風邪のお陰でヤトの知らない一面にも触れられたことだしな。



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