05
人の気配がなくなるたび物陰に潜んで地図を確かめ、人間観察のついでに地理も頭に入れながら水族館を歩き回った。リオは背後をついてくるので案内してはくれない。
ここ最近、今まで生きて使っていたものとは異なる知識ばかり詰め込んで、少し疲れが溜まっている。それを察してかは分からないが立ち止まったリオが「休憩しよう」と提案した時だった。
「いや、誰かこちらに来るようだ」
「あー。会話しなくていいから絶対黙ってて」
無言で頷き、背後より迫る者を振り返る。動きの鈍そうな人間だ。あれは我々が追い出すべき従業員か。
朗らかな声でリオを労うと、その従業員は私を顧みることなく彼女と他愛のない話をはじめた。
帽子に遮られて姿は見えないが、間近から伝わってくる体温や筋肉の動く音でリオの感情はよく解った。しかし、探り当てたそれと彼女の言動が一致していないことに内心で首を傾げる。笑い声を発しても実際には喜んでいないし、寂しげな声を出しながら心は平然としている。相手はすっかり騙され、表面に見える彼女の態度を信じているようだ。
リオ、その応対は不誠実ではないか? と口を出したかったのだが「絶対にしゃべるな」と念を押されていたので我慢しよう。後で尋ねればいいことだ。
「ところで、ねぇ。その人は……」
途切れた会話から、新たに誰か来たのだろうかと周囲を探るが相変わらず私達しかいない。“その人”とは私のことなのか? 今まで無視しておきながらなぜ急に触れたのだ。疑問には思うが、待っていても従業員は続きを語らない。その人、の後は何なのだ!
口を出せない私に代わり、答えたリオの言葉もまた従業員のものと同じほど曖昧だった。
「あー、彼はあのー、私の知り合いで、ちょっと……、ですね」
「あらぁ、まあ、そうなの」
これが会話と言えるのか謎だが、従業員はなぜか気の毒そうに私を見遣り、納得した。何事もなかったかのように彼女に向き直る。
不思議なやりとりだ。どうして最後まで語らない? それでいてなぜ会話が成り立つ? 話は通じているようだが理解し合えているとは到底思えなかった。会話とは理解を深めるためのものではないのか。伝えるべきことを濁して何が得られる。
先の会話が気まずいものであったかのごとく、従業員は殊更に明るい声を出した。
「館長が急に居なくなってどうなるかと思ったけど、リオさんが居てくれて本当によかったよ」
「いえそんな。……できるなら私も水族館を続けたかったんですが」
「うん、仕方ないね。もう駄目なとこまできてたんだよ」
館長の目的は水族館の人気を高めること。だが今の、人間の領域たる丑三ッ時水族館は邪魔だ。いずれ追い出すべき相手にリオは誠意を取り払って接している。上辺は優しさに見えるそれは、裏側から目を凝らせばただの壁でしかない。お前たちに話すべき真実はないと言外に含めているのだ。
ならばやはり私達の方が彼女と近しい立場にある。人間は言葉でなければ通じ合えないのにそれを偽ってどうして信頼が築けようか。
私が彼らとの決別の意を改めて固めているなか、無為で不愉快な会話は続く。
「でもどうしてここまでしてくれるの? 館長の代わりにあれこれ駆け回って処理して、私らの次の職まで探してくれるなんて」
悪意のない従業員の言葉にリオが一歩退いた。その拍子に私の肩にぶつかり、彼女の全身に緊張が漲っているのを感じた。
ここまでは図太い対応を続けてきたのに何が彼女を強張らせたのだろうと思いながら、僅かに体の向きを変えて彼女の肩を支える。後押しされたように言葉が継がれた。
「動物が、好きですから。……できることに限界はあるけど、皆さんの面倒くらい私が見なきゃ館長に申し訳なくて」
またしても本心を殺して消沈したふりをするリオに、従業員も嘆息して目を逸らした。何かが起きたことは分かっているだろうに、何もしないのだ。そのような不確かな信念のもとに集った群れならやはり我々に乗っ取られてしまった方がいい。
「館長、本当にどうしたんだろうねえ。いくら経営がまずいからって途中でほうりだして逃げる人じゃないのに」
「きっと何か事情があるんです。戻られるまで、なんとか持たせたかったけど」
「ああもういいって、君が気にしちゃ駄目よ。私達はできる範囲で最後まで頑張ろ。人が変わっても丑三ッ時水族館がなくなるわけじゃないんだから」
形骸が残されたところで己がいなくなっては無意味なんじゃあないのか。器だけの縄張りなどあっても仕方ない。
内容のある会話だとは思えなかった。何も尋ねてはいないし何も答えていない。それでも当人なりの満足感を得たらしい従業員は「頑張って」とリオではなく私の肩を叩いて去って行った。
「何を頑張ればいいのだろう?」
「気にしなくていい。ひとさまに言えない暗い事情があると思われてんのよ」
驚いた。私はあの従業員と一言も言葉を交わしていないのに、いつの間にそういう事情が生まれていたのだろう。
「なぜだ?」
「見かけない奴だから。顔隠してるから。あたしが言葉を濁したから」
そこまで真顔で並べ立てると急にしゃがみ込んだリオに、驚いて後退った。視界を遮られて過敏になっているのだから唐突な動きは控えてもらえまいか。
「はあああ、あたしも面の皮が厚いわ」
言われて思わず手袋をとり、私もしゃがんで目線を合わせる。ヒレの名残が消えない指でリオの頬をつまんだ。有り得ないほどに柔らかく、よく伸びる頬肉だった。これでは気温の変化にだって耐えられまいよ。あの従業員程度に肉がついていればまだしも。
「薄いくらいだと思うぞ」
「ほういういみひゃないんにょ」
ふてぶてしく演じながらも緊張していたのだろう。私を連れていることでより多くの嘘をつかねばならなかったリオは、他人が去ってようやく気が抜けたらしい。私の手を払いのけ、その手で帽子を取り上げると、珍しく緩い笑顔を見せた。
先程彼女がこぼした言葉を反復して気づいたことがある。
「なぜさっきまでは『私』と?」
「ああ、なんていうか……制服着るのと同じよ」
「なるほど」
偽りの善意によって彼らを追い出すのが私。我ら動物に接する素顔のあたし。人間なだけあって、リオが着込む制服は相当な数になっているらしい。
やはり従って正解だった。正否を並べて見比べなければその違いは分からない。私の知る人間とは、リオと、ろくに顔を合わせてもいない館長だけだが、こうしていくらかの従業員を観察してみれば私が真似るべき人間像も見えてくる。
「君から人間らしさを学ぶことは不可能だな」
「……なんかそれ、似たようなこと館長にも言われたけど。あたしって何なんだ」
「改めて、同僚としてよろしく頼むよ!」
「せめて先輩と言え。いやあたしも人間なんですけど、って。ねえ聞けよ」
まずは分不相応にこの地を占拠している彼等を追い出すのだ。館長がどこへ向かうのかも、呪いとやらも、どうでもいい。長が確固たる意思を持って進む限り私はただ与えられた役目を誠実にこなすだけだ。そしてそれは、リオとともに。