07
数日前、水族館から最後の“従業員”がいなくなった。詳しくは知らねぇが館長が金と権力に物を言わせて穏便に立ち去らせたらしい。人間の世界ってのは見た目で分からん力がいろいろと存在するようだ。
引き継ぎと称した乗っ取りが済むまでの間は休館して、何も知らない職員をどこへやるだのなんたら水協から抜けるだの、館長とリオがてんてこ舞いになっていた。特におおっぴらに人前に出られるリオは一時期マジで死ぬんじゃないかってくらいに働きまくっていた。
館長に魔力を注がれて人間もどきになっているとはいえ、俺達は所詮サカナだ。一応でも人間の、あの二人にしかできない仕事は多い。
次いで選り抜かれた脳味噌の働く奴らが、いなくなった人間どもの代わりにその仕事を叩き込まれて悲鳴をあげている。頭の働かねぇ雑魚はとにかく掃除、でもって交代制で互いに給餌。あとはもう、客の目に耐えられるよう健康でいるというアホでもできる仕事が割り振られている。
館長の実家とやらと、リオが捕まえてきたスポンサーとかいう人間、そいつらから金は出てくるがそれだけでは駄目らしい。ここは海を切り取って見世物にし、客を満足させて金を取る場所だ。ここをもり立てなければ館長の呪いは解けず、俺達も縛られたまま。
経営。その得体の知れない二文字がのしかかってくるようだった。
じきにまた客を入れるんだろう。それまでに全員が自分のやるべきことをさっさと理解してやり遂げなきゃならんわけだ。……できなかった時どうなるのかは、館長だけが知っている。
水槽の外でカサカサと紙をめくる音がする。あとは静かなものだ。本来ここに入ってた雑魚どもは現在、館長室で教育を受けている。一体何匹が戻って来るやら。
自分が今なにをやってんのか自覚したくねぇから、ぼんやりとリオのやることを見て気を紛らわせていた。
「……誤字はっけーん」
「またか」
「シャチもまだまだねー」
俺達も呪いの影響で人間の言葉は分かる。正直自分でもどうやってんのか分からんが同じように話すこともできる。文字も読めるし書けるが、知識まで受け取ったわけじゃないのが厄介なところだ。
聞き齧ったことすらない言葉だらけの書類に埋もれて苦戦しているだろうアイツを想像したら、胸がすく。まあ、ともすれば俺に回ってきかねない仕事だから笑ってられねぇんだがな。
シャチが必死でこしらえた各機関への提出書類に目を通し、めくった枚数が増えるごとにリオの目も虚ろになってきた。
「仕事仕事仕事……ここに来れば食べ放題って言ったくせに。言ったくせに。死体が出たって食べてる暇もないじゃない嘘つきクジラめ許さない許さない許さない許さない……」
「不気味だから黙れよ」
にしても食べ放題って何の話なのか、あんまり聞きたくねぇ。無償でご奉仕なんてするタマじゃないとは思ってたが、死骸漁りを目当てにここへ来たのか、こいつ?
ふと手を止めたリオが水槽越しに俺を見つめた。食い物の話をすると生気が戻ってくるらしく薄暗い室内で目だけ爛々と輝いている。
「……“不要品”の処理は今のところ、あんたが担当してんのよね」
「ああ。教えられた通りにな」
「捨ててるんだ! ひどい! 食べればいいのに!!」
んな血を吐くように叫ばんでもいいと思うが、まあ俺も同感だ。勝手に捕まえて売り買いして、水槽に投げ込んで見せびらかした挙げ句に死んだら食うわけでもなく殺菌処理してまとめて廃棄。もったいねぇっつうか、俺もサカナとして虚しい。
館長に「もう働けない」と判断された連中を片づけるのは俺の仕事だった。
俺は展示動物にはなれねぇしリオのように外交の仕事もできねぇ。もちろんそれは願ったりなことなんだが、そんな中で残された役目と言えば、清掃消毒に勤務後の巡回点検とここに住まう動物の記録、管理だ。言うなれば雑用だった。
情けないと思いたくはない。どっちにしろ館長のために働きたいわけじゃねぇしな。無惨に死んで捨てられる奴らよりはマシだとも思う。でもなぁ。だからどうしたいのかっていうとよく分からんが、でもなぁ、とだけ思う。
「くそーくそー、幹部どもが使えるようになったらガンガン仕事押しつけてあたしが処理担当してやるううぅ!」
食べ放題! と妙な意気込みに燃えるコイツが羨ましいって気持ちもあるんだよなぁ。
不意に、館内に叫び声が響き渡った。脳を揺さぶるような女の声に思わず体がびくつくとリオが薄ら笑いを浮かべて俺を見る。ムカついたのでとりあえずガラスを蹴りつけて威嚇してやった。クソッ、驚きもしやがらねぇ。
「あれは……、鉄火マキかな」
やる気なさそうに弄っていた書類をついに投げ出したリオは、壁や天井越しに駆け巡る声を目で追いかける。その名前に少し首を傾げたが、すぐにああそうだと思い出した。マグロの奴だな、鉄火マキ。
「何を騒いでんだ、あの女」
よくよく聞けば奇声の合間に「ドーラク」とかって言葉も聞こえる。タカアシガニのことだっけか? また喧嘩でもしてじゃれあってんのか、仲良い奴らだな。というか暢気だ。このクソ忙しいのに遊んでたら館長に何をされるか分からねぇだろうが。
「んー。定着しちゃったなぁ」
「はあ? 何が」
「あの名前」
鉄火マキだとかドーラクだとか、その呼称がつくきっかけを作ったのはリオだった。俺はその場に居なかったが、マグロ女を見ながら「鉄火巻たべたい」とか何とか呟いたらしい。あれだ、人間の食う寿司とかいうモン。んでそれを聞いてたタカアシの野郎が、どこで仕入れた知識だか「マキって女の名前だろ」ってアイツを鉄火マキと呼ぶようになった。
丁度個体を識別できる呼び名がいるんじゃないかと思い始めていた時期だったから、馴れ合いつつある上層部の奴らもその名前を使いだした。
「そういやあドーラクってのはどっから来たんだ?」
そっちもいつの間にか鉄火マキが呼んでいた名前だ。どうせ食い物関係の由来があるんだろうとは思うが。
俺の問いにリオは丸めてズボンに突っ込んでいた雑誌を引っ張り出して、水槽に押し付けてきた。ガラスに張りついた紙面をじっと見つめる。……なんだこれ、どでかいカニの写真が載ってるな。でも作りものか。
「鉄火巻にさぁ、アイツにも変な名前つけよーよ! って言われてこれ見せた」
「あー……まあ似てるよな」
原形に。でもなんでこんな雑誌を持ち歩いてんだ? 全国食べ歩きマップ……逃走の下調べか?
疑わしげな視線を察したのか、半笑いで雑誌を手元に戻したリオが言うには「妄想のなかで食い道楽してんの」だそうだ。なんか悲しくなった。
「ああ、どーらく。道楽か」
「うん。カニ道楽ってのがあんのよ」
やっぱり食いモンなんだなぁ。
サメの一言で誰を指すのかちゃんと分かる俺なんかはともかく、複数の個体がいるような水族はタカアシとかマダコとか呼んでも誰のことか分からない。有用だとは思う。普通の名前なら、な。
「あんたならやっぱ、フカヒレよね」
「なんでヒレだけ取り上げんだよ」
「美味しいから」
「お前そればっかだな」
人間の食欲は果てがねぇらしい。コイツだけなのかもしれないが。なぜこんなにいつも空腹なんだ。これも呪いの一環なのか。はっきり言って迷惑だ。
「サメも食うのかよ節操なし」
「たまーに。高いからねー、あんま手が出せないし。フカを見てるとお腹すくね」
え、今の一瞬で俺の名前決まっちまったらしい。普通に呼びやがった。本当に食い物関係で統一する気なのか? 勘弁してほしいぜ。
というか、言ったそばから俺を見て腹鳴らすのやめてくれ。窮屈で欝陶しいだけのものだと思ってたが、今ばかりはこの分厚いガラスがありがてぇ。
海の中なら。水中なら、この俺様に殺意を向ける身の程知らずはいねぇのに。陸地に来て嫌な感情を覚えてしまった。……怖い。
「あぁ食べたいなーサメー。でも自力で捕るのも人目があるしー」
空腹と残る仕事の多さにへこたれ弱っているリオを見ているとなんかこう、殺られる前に殺っといた方がよくないかと本能が訴えかけてくる。が、それはともかく「捕る」って言葉が引っ掛かった。
「……ちょっと待て、そりゃサメの話かよ?」
「そー。買えないなら倒すしかないもん。強い相手と戦って勝ってそいつを食べるのが理想よねー」
そりゃ随分と野性的なことで。とても人間とは思えないな。っつーか人間のメスごときが、今ここでってんならまだしも海の中でホホジロザメに勝とうなんざ片腹痛ぇ。バカじゃないのか。
「お前がエサになるのがオチだろーな」
「プランクトンなめんなよ。あんたらなんて変身して鰓孔に詰まってやれば簡単に殺せるわ」
「リアルに怖ぇよ!!」
ってかやったことあるんだなそれ!? やけに実感篭ってたぞ今の言葉。やっぱ用済みになったら真っ先に殺しとこうかなこいつ。
「家族以上ペット未満」
「んあ?」
「感情移入しすぎるのもどうかと思うけど、まあ呼び名くらいあってもいいかもね」
「……」
しすぎるってほどしてないと思うが。それでも、種族ではない名で呼ぼうとするところにリオの感情が見える気はした。
そういえば俺もだ。人間と、そう呼ばずに、名前なんてものを覚えてリオを呼んでいる。思えばそもそも……この女に対して“人間である”と意識したことがあっただろうか。
なにがしかの答えに辿り着きそうだった。意外に悪くない気分だったんだが、俺の思考を打ち止めたのもまたリオだった。
「館長の名前はやっぱ、オーロラ煮?」
「それはやめとこうぜ、頼むから」
つーかイサナには既に名前があるだろ。