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握ったモップが床にガンガンぶつけられる。折れそうなぐらいにしなって、全身から苛々が立ちのぼるのが見て取れた。
リオは気が立っている。危険だ。さっき普通の食事を済ませたところなのに、奴は怒ると空腹になる。周囲に俺しかいない現状、俺の命がキケンだ。
「寒い。お腹すいた。水槽の掃除はあたしの仕事じゃねーぞ。寒い! さっさと飯食わせろ横暴クジラ!」
「やややめろ」
悪態つくなら俺のいないところでやれ。巻き添え喰らいそうで怖い。飯食わせろって意味分かって言ってるのか。嫌がらせか。
「ささっき食ったくせに……もう腹ら減っててんのかよ」
「寒いとお腹すく。生存本能だわ」
絶対に違う。単に食い意地張ってるだけだろ……。てめーが腹空かすのが俺達にとってどういうことだか理解して自重しろ、って言っても無駄だな。
「モップでもく食ってろ」
口寂しくなられたら俺の身が危ない。適当に距離を取って清掃を続けてたら、隣でガチッと硬い音がした。おいおい……、いや確かに食ってろとは言ったがな。
「かひゃい」
「ほ本気で食ううなッ!」
「やっぱり木製の方がマシね」
木製なら食ったことあるのか!? ここの用具がプラスチック製でよかった。じゃない、こいつ形あるものなら何でも食べるってのは本気かもしれない。そう考えて戦慄した。
危険な兆候が見えたので、いざって時のために唾液と墨の準備をしつつリオからモップを取り上げる。と同時に、奴の体が後ろへ傾いだ。
「ええエネルギー源?」
思わずじっとモップを見る。んなわけねえだろ。
ツッコミを入れる余力すらないリオはそのまま床へ倒れて行きそうで、咄嗟に腕を伸ばしてしまった。ぎりぎり襟元を掴んで頭から叩きつけられるのは阻止。しかし床で足が滑って宙吊り状態だ。奴は腕をだらりと垂らしてぐったりしている。
そろそろ奴の服が胸からびりっと破れそうだ。むしろ破れろ。違った。……支えにくい。
「おいリオ、自力でた立てよ」
「…………」
「?? おい」
返事がない。まるで屍のようだ。いつもの溌剌さも陰って生気がなく、のけ反った喉元の白さが強調される。呼吸とともに微かに動くとそこにかぶりつきたくなった。報復が怖いからやらないが。
ともかく腕が伸びきる前に奴の体を離す。わりかし痛そうな音で床に頭をぶつけたがリオは何も言わなかった。
「おい……?」
力無く寝そべる横にしゃがんで顔を覗き込む。手袋を外して、やけに赤い頬に触腕をあてがうと……熱いよおいッ!
「おお前ねつ熱があんじゃねーか!」
風邪か? 人間の病気のことはよく分からないな。というか、普段から体温の高い女だがこんな熱くなってたことはない。今までよく平気な顔してたな。
「タコ、冷たいな……きもちい」
「ふ服の中にに突っ込んでやろうか?」
「いらん」
「……」
体が動かないだけで思考は正常らしいな。残念。
掃除なんかほとんど終わってるようなもんだから放っといてもいいだろうが、こいつをこのまま放置するのはまずいか。日頃の仕打ちに復讐するならチャンスなんだがな……。
「よ、っと」
投げ出された腕を拾いあげてリオの体を担ぐ。……バランスが取れなくてちょっとよろけた。
「タコ?」
「たタコ言うな」
「……マダコ。何やってんの」
どうあってもそう呼ぶのか。ふと気づいたがリオはデビルフィッシュとは呼ばない。あの名前の何が気に入らないのか分からない。べつに名前にこだわりもないしどうだっていいが。
改めて全身に力を込めると、やっとの思いでリオを持ち上げた。手元がふらつく。しっかり骨もあるくせにどうしてこうぐにゃぐにゃなんだこいつ。
「ぐへ……お前おも重すぎ」
「なんだとぉ」
「くく首絞めんな!」
「あんたが非力なだけよあたしは重くないわボケ!」
違う。明らかに食い過ぎ。どこもかしこもぷにぷにしてんじゃねーか。
「ままあ固いよりは柔らわらかい方がいってぇ!?」
「タコ刺しうまい」
「か勝手にちぎんな!!」
「ちぎってない。切ったのよ」
尚更悪い。包丁なんか持ち歩くな。ってかどっから出しやがった?
後ろで身動きする感触から、咀嚼の瞬間まではっきりと伝わってくる。あー俺の腕が……。
「ごち!」
「ハ……元気出ててんじゃねえか」
「んー。やっぱ美味しそうなタコが目の前にあると」
「落とすぞ」
極力いつも通りにしながらも奴の四肢には力が入っていない。背負った体の熱は高まるばかりだ。思う以上に具合悪いのかもしれない。
「ね、どこ行くの?」
「きゃく客用トイレ」
「……よりにもよって」
化け物クジラの目の届かないところなんかたかが知れてるんだから仕方ない。この水族館に休息できる場所なんかないんだ。
しかし歩きにくいな。やっぱり骨のせいか? 支えになるものがないせいでリオの重みに引きずられる。天井にでも張り付いて持ち上げるならこれぐらいの重さは平気なのに。背負って歩くのは面倒臭え。
「……もういいって、放っときなよ。寝てれば治るわ」
治るわけねーだろ。人間の治癒能力なんか信用できるか。回復のために「精をつけなきゃ」とか言い出したらその方が怖い。
「まー館長だって人間まで見殺しにゃしないでしょ。いやあたし人間に見られてないか? あはは」
同族として見ていたところであの化け物が救いなんか差し延べるもんかよ。この女もいれば便利だがいなけりゃそれでも構わないってぐらいだろ。弱って倒れてたって、放っといて死んだら捨てるだけだ。悪けりゃその手で……。
「でも最悪、食べられたら無駄にならなくていいよねえ。あたしが死んだらあんたも食べる?」
「……む胸糞わる悪い」
「そう言わないでよ。このまま死ねばタコにだって食べられんむむむ」
「ししゃべりすぎ。黙ってろ馬鹿」
欝陶しい。お前じゃあるまいし見境なく食べるか。第一、生きてた方が楽しめるだろ……。
そもそも、死ぬとかなんとか大袈裟な。ちょっと体調崩しただけだ。珍しくはあってもたいしたことじゃない。こんなとこで働き詰めで今までが健康すぎたんだろ。ひ弱な人間のくせに。
「……役立たずは死ぬ」
「おお前まだ役立つだろ」
俺につかまるリオの腕が強張った。ここの魚の行く末を誰より多く見届けてきたのはこの女だ。怖いのか。がらにもなく。怖くて当たり前か?
それとも単純に、申し訳なさでいっぱいなのか。
「だってさ。働けない魚はゴミだもの」
「お前はさか魚じゃない」
「あたしも魚でいなきゃなんないって話よ」
やっと客用のトイレについた。本当なら着替えて客に紛れてるのがいいんだがそんな余裕もない。
とにかく館長にさえ見つからなきゃいいだろう。どうせ開館中の清掃はこいつの仕事だ。気力がわくまで用具置場にでも篭ってればいいんだ。
「あたしの仕事は?」
「俺がややっとく」
「餌は?」
「何とかする」
「……ここのルールは?」
「し知らない。いいから寝ねてろ」
床に座り込んで壁に頭を預けながらリオが俺を見つめていた。んな魚みたいな目するな。
動けないのは今だけだ。この女はまだ死ぬほどのミスなんかしてない。館長室に連れて行く必要はない。こいつが食ってきた他の奴らと同じ末路、まだ辿らなくていいはずだ。
「デビ」
「……なん、」
「餌の時間には起こしにきてね」
風邪っ引きの餌なんか食わせたら雑魚どもまで体調崩すから、聞こえなかったことにしてさっさと持ち場に戻ることにした。
呪いのかかった人間って死ぬ時はどっちの姿なんだ。リオが死ねばあの化け物、喜んで食うんだろうな。それともいつものように水槽に流し込んで終わりか。それらはリオに戻らず魚の腹におさまってそれでもう永遠に終わりか。
「くくだらねえ……ハハ……」
仕事しよ。完全復帰したらあの女こき使ってやる。