12
このたび誘拐されました私は只今こちらの丑三ッ時水族館にて水槽の掃除をお手伝いさせられております。誰も彼もが疲れた顔で手や鰭や前肢やそれに類するものだけを動かし、一言も発することなく働き続ける中。いつの間にか私の隣に見慣れない女性が立っていました。
年の頃は分かりませんが、私の知るレディよりも幾分か大人びて見える、おそらくは人間の女性です。会議室で見たマグロの方や他の魚達とは明らかに違い、動物らしい名残がどこにもありません。彼女は疲れた様子もなく、この場にあっては異彩を放つ生命力を溢れさせつつ楽しそうに水槽を磨いていました。
時折私と目が合えばにこりと微笑まれるので、つい私も笑顔を返してしまいます。ふむ。ここには人間は存在しないと聞き及びましたが。それがあの館長への皮肉だとしても、彼女は一体何者なのか──。
戸惑いから作業の手が止まった瞬間、視界の端を白黒の物体が駆け抜けました。考えるより先にそれがシャチであると感じ取り、慌てて水槽磨きを再開します。
しかし彼はどうやら私を咎めにきたわけではないらしく、瞬く間に彼女の側まで行き……手にしたモップを彼女の頭に減り込ませました。錯覚……いや、確かに減り込んだ……あれは死ぬのでは?
「痛いな。いきなり何よ」
「何と聞きたいのは俺の方だ。ここで何をしている」
「掃除を手伝ってあげてんの。見て分かるでしょ」
ツンとそっぽを向いた彼女に対し、シャチは無言のままにもう一度モップの柄で殴りつけました。見たところ全く堪えていないとはいえ、女性にその所業は如何なものかと。しかし怖いので口に出せません。私は不甲斐ないアザラシです……。
「自分の持ち場はどうした?」
「客ならほとんどショーに移った。だから雑魚に任せてこっちに来たんですぅ」
「……匂いを嗅ぎつけて来たのか」
怒りも露だったシャチの声音が少し柔らかくなった気がします。単に疲労しただけかもしれませんが、彼女に向けられる視線は少し他とは違うような。
ひそかに観察している私を見留め、彼女がまた微笑みました。間に立つシャチを押し退け私の眼前にやって来ると、膝立ちになって視線を合わせ、軽く一礼をされます。
近くで見るとやけに色の白い人です。日がな水族館に篭ってでもいるのでしょうか? それともやはり彼女も何かの動物なのか?
「ご挨拶が遅れました、アザラシさん。あたしはリオ、ここで餌をやっている者です」
「あ、これはご丁寧に……、私はイガラシと申します」
なぜ和んでいるのでしょうか。私は囚われて働かされている身なのです。いや彼女に殺伐とした空気が一切ないものだから、つい。
餌をやるということはやはり彼女も飼育員なのでしょう。なぜか妙な違和感が付き纏いますが。膝をついたままじっと私を見ていたリオさんが、ふと首を傾げ呟きました。
「イガラシさんは、お客さんですか。それとも新入り?」
「新入りだ。ただし展示はしない。元に戻せないらしいからな」
問い掛けに答えたのは私ではなくシャチの方で、不満そうなリオさんが眉を寄せて彼を見上げます。……私はここで働く気などないのですが。
「戻せないってなんで。館長がやったんじゃないの?」
「聞いていなかったのか? こいつは例の動物園から連れてきたアザラシだ」
「あー動物園……うん。何の話かさっぱり」
肩を竦めた彼女を見遣り、シャチがあからさまに溜め息をつきます。どうやら彼女は事情を何も知らないようですね。私のことも、こちらの館長に変化させられた動物だと思ったみたいです。
「よそのひとか。なら働かなくていいのに……イガラシさん、あたしと安全なところに行きましょうか」
「は……えっ! よ、よろしいんですか?」
願ってもない申し出に期待が膨らみました。人間であっても、この水族館に属するのなら一応、彼女も敵。決して信頼してはならないのですが、私をかどわかした張本人のシャチよりも彼女のそばにいる方が少しは心安らげるというものです。
ですが物事はそう簡単に好転するものではなく、リオさんの手を取りかけた私をシャチが制しました。
「騙されるな。こいつはこの水族館で一二を争う、でら危険な生き物だぞ」
「え……?」
「失敬な。自分なんか野生時代にアザラシ食いまくってたくせに」
「俺はアザラシは好かん」
「この偏食め。好き嫌いしてちゃ大きくなれないぞ」
それ以上大きくなって一体何を捕食すると言うのでしょうか。充分です。もう充分です。しかしアザラシは嫌いというのは本当でしょうか? それが事実なら私も多少安心できるのですが……。
いやそうではなかった。リオさんが危険とは一体? 動物園にも肉食の獣は多々いましたが、ここの方がよほど切迫して身の危険を感じます。そんな中で人間女性である彼女が危険?
「お前はどうなんだ。何が目的でこいつを連れて行く」
「……身内になったならともかく、客に滅多なことしないわよ」
ええー、今の間は何を意味しているのでしょうか。身内であったら彼女の態度は変わるとでも。何やら背中の辺りに悪寒が走り始めました。
「どうだかな。どうせもう味は知っているんだろう」
「うん。わりと好き」
何がですか!? アザラシですか!! 普通の人間女性はアザラシを食さないと思っておりましたが! もちろん私とて魚を食べる立場ですから彼女の食への欲求について何か言う権利はないのですが、そうとなれば彼女のそばにいるのも遠慮したくなります。
うう、まさかこちらの方が捕食者として警戒すべき相手だったとは……。
「失礼ですがレディ、私はここでの仕事があるようなので貴女とともには行けません!」
ほら見ろとやや得意げな空気を醸し出しているシャチがなんとも憎らしかった。人間って怖い。
「……お客様は食べませんって」
「じきに客でなくなるがな」
「じゃあ早くヘマしてくださいねアザラシさん! その辺りあなたは期待できそうです!」
どういう意味でしょうか。なぜ突然イガラシからアザラシへと呼び方が変わったのでしょうか! この数秒間でリオさんへの警戒心が急速に育ち始めました。園長、園長、早く助けに来てえええ!!
「あー、まあそう慌てなくても。あたしが食べるのは使い物にならなくなった奴だけだから」
「は、はぁ……」
ではもしも、有り得ないことながらもし万が一、私が動物園に帰れなかったら。そこまで考えてはたと気づきました。
使い物にならなくなった奴は食べるということは、使える内は食べないということ。やけに生々しさを感じる言い方です。使える“奴”は今も使い続け、使えなくなった“奴”は彼女の胃の中に。
それは一体、誰を指しているのか。
「ま、まさか……」
これだけ騒いでいるにもかかわらず周囲の魚達は手を休めない。こちらに気を払っていないのでしょう。海にいる限り、私はシャチが恐ろしい。しかし直接狩られるのでなければ、我々にとって、人間も立派な捕食者だ。
「たっ、食べるんですか……」
「うん?」
「ここの魚を」
「ああ、はい。魚以外もだけど」
あっさりと頷く彼女に眩暈がした。何等戸惑うことなく、彼女は答えた。使い物にならなくなった魚は食べるのだと。それは、違うだろう。死して肉となり自然に還るのとは、違うだろう。シャチがアザラシを狩るのとは──。
「だって、仲間でしょう!?」
「……そっちの動物園に慰霊碑はあるの? 丑三ッ時には無いわ。使い道のないものは捨てるだけ。ゴミをただ捨てるよりは食べた方がマシじゃない?」
今まで隣で共に働いていたものが、同じ立場であったものが、そうなることがマシだと言うのか。ああ、彼女は違う。飼育員ではない。私の知るレディとは、違う。
「そんな、そんなのはあまりにも」
「酷すぎるか?」
答えたのは彼女ではなくシャチの方だった。表情の読み取れない彼は言う。
「血肉になるだけマシだろうよ」
「しかし……」
「それに、ゴミのように捨てられるのはこいつも同じだからな」
「でも、貴女は食べられはしない」
呆然と呟いた私に、リオさんはキョトンと首を傾げた。あまりにも無邪気で、それが恐ろしい。優しげな顔のままに魚を食してきたのだろうか。あの館長がサメの処理を命じたように、何の感慨もなく。
しかし彼女はやがて首を振り、何食わぬ顔で歩きだした。近くにあったバケツを手に私の前へ戻ってくると、袖が捲り上げられた生白い腕を差し出してみせる。
「食べるのも食べられるのもたいしたことじゃないでしょ。あたしは毎日繰り返してるもの」
途端に剥き出しの腕が溶けだして形を失い、バケツの中へ落ちてべしゃりと音を立てた。ただの水にしてはやけに濃い。そこからは海の匂いが漂ってきた。
消えてしまった彼女の腕は、私が唖然とする間にまた再生される。……人間、ではない? しかし……。
「貴女は、」
「うん、言ったじゃん。餌をやってますって」
「…………」
餌、餌を、やって……餌をあげている? 餌をやっている……餌をしている? 餌に……なっている。
「貴女が餌に!?」
「そ。これプランクトンね。変身してるとなんだか訳分かんなくなってるから、実際どんな生き物なのかあたしも知らないんだけど」
園長と同じ奇怪な体験をした人間が他にもいるとは思いもしませんでした。この世には不思議なことがあるものです。そしてまた、二人いるなら他にもいるかもしれないと思うようにもなりました。そう、あの館長を見た時から。まさかここでもう一人見つかるとは思いませんでしたが。
「貴女も呪われて……」
いや、待っていただきたい。我らが園長は確か幼い頃にウサギを虐めたせいであの姿になられ、こちらの館長はおそらくクジラの恨みを買ったのでしょうが。
「プランクトンなんて……あまりに多様な、何をしたのですか貴女は」
「さあ? 物心ついた時にはこうだったしー、要は生物すべてに恨まれてるってことでは」
「気軽に壮大すぎるー!!」
極度の混乱に陥った私の傍らで、シャチの方が「だから危険だと言っただろう」などと宣っておられました。
分かりません。理解できません。先程の腕を見る限り、例えその身を食われても彼女は体を再生できるのでしょう。おそらく、生きている限りは。
彼女が毎日、あらゆる生命の素が詰まった体を差し出し、それを食らい魚達が生かされ、そうして働き疲れて循環に加われなくなった者は彼女の餌となる。なるほど。分かりません! 正気の沙汰ではない!
なぜそんなことが平気で行われているのか、なぜそんな事態に陥ったのか。だって彼女は、人間なのに!
「植物プランクトン、動物プランクトン、より取り見取り。危険と言いつつあたしがピラミッドの底辺にいるわけよ」
なぜそんなにも、屈託のない笑顔を浮かべられるのか。
異状をそれと認識しなければ、ありのままでいられるのでしょうか。園長が私達を仲間として扱うように、形は違えど彼女もまた魚達を認めている。あの暗い目をした館長との違いはここにあるのかもしれません。
未だに動揺をおさめられない私をよそに、ハッと何やら思い至った顔のリオさんがシャチを見上げます。
「シャチが頂点とか言ってるけど死んだらあたし達にも食われるわけだし実はプランクトン最強説」
「……死んでからのことなど知るか」
「でもシャチって人間のときにはマズイんだよね」
「人間のときにも食ったのか?」
「一度だけ」
さすがに苦々しい思いを隠し切れず、シャチの方が視線を逸らしました。彼女の無邪気さは愛情のあらわれなのでしょうか。自分の体を差し出せるほどに大切だから、死をも無駄にしたくないのかもしれません。
消費されるだけの命ではないと、彼女を見れば安堵できることでしょう。それでも私は……体を張って自分を受け止めてくれる者があろうとも、仲間内にさえ存在し続けるこの食物連鎖の中に入りたくないのです。
私はイガラシです。その名とともに命を差し出せる相手は、それを与えてくれた方だけなのですから。