正しい思い出



 頭の中に鐘の音が響いている。精神を蝕むその音楽は今も初めて聞いた時と変わらず静かに私を侵していた。決して煩わしい騒音とはなり得ない、むしろ他の何事も考えられなくなるほど甘く、心地好いその音色は永遠に聞いていたくなるものだった。
 心を封じている間は惑わされずにいられた。それが酷く惹かれるものだとは理解していたが障壁のお陰で感じ入らずに済んでいた。思考と感情を捨てた動く死体のままでいれば何も問題はなかったんだ。しかしアリスターと再会して引きずり出された“私”は障壁を破壊し、封印となっていた名もなき脆弱な精霊の存在を掻き消してしまった。
 一つの肉体に二つの魂が宿ることはできない。私はまた、自らの精神力のみで汚れの侵食を堪え忍ばなければならなくなった。
 正気を保つのに有効な方法は二つある。一つは何かに集中すること。それ自体が別種の狂気ともいえるほどの執着心を持てば汚れの影響を一時的ながら遠ざけられる。昔アストリアン提督がエルフの王女を甦らせるという妄想に取り憑かれたのも本来そのためだったのではないか。物でも人でもいい、生きてゆく理由を確固たるものに定め、それにしがみついて呼び声から耳を塞ぐのだ。
 もう一つの方法は、肉体なり精神なりに痛みを与えることだ。眠気を覚ます時に頬を張るように痛みで狂気を追い払う。単純なりになかなかの効果がある。ただ、即時的な効果しか望めないという難点もある。
 アリスターはその両方を使って、呼び声に対して無防備となった私の精神を保護した。数年ぶりに抱かれた私の体は痛みに悲鳴をあげた。
 そう、痛かった。死ぬほど痛かった。泣きそうだった。むしろちょっと泣いた。二十年も前の初々しき少女時代を思い返してもここまで痛くはなかった。私もアリスターも互いの体に慣れすぎ知りすぎていたから、こんな事態は予想もしていなかった。何の躊躇もなくベッドに倒れ込んだことをすぐさま後悔した。

「三十過ぎて処女喪失の痛みを味わうとは思わなかった……」
「ううっ……ごめん……」
 目尻に涙を滲ませて悶える私の横でなぜか私の脱いだ服を抱き締めてうんうん唸っているアリスターも別の意味で悶絶していた。
「なんていうか、久々だし、ご無沙汰だし、嬉しくてキレたというか、舞い上がっちゃったというか」
「私が痛いと言った瞬間ヒートアップしたのは単にあなたの性癖じゃないのか」
「……えへ」
「可愛くない!」
 怒りに任せてアリスターの背中に蹴りを入れるが頑健な筋肉に阻まれダメージはすべて私の腰回りに返ってきた。どうでもいいけど私の服に顔を押しつけて乙女のように恥じらうのはやめてほしい。すごく気持ち悪い。
 この二年程は特にアリスターのもとへ帰り彼の腕に抱かれることばかり夢見ていたというのに、実際こうして叶ってみると激痛に気を取られて彼に触れる喜びなんて吹っ飛んでしまった。ついでに呼び声も吹っ飛んだのはありがたいけれど。ひとまず平静を取り戻した今、例の音楽は下腹部のじくじくとした痛みと拮抗している。
 アリスターは私の身体の強張りを貞淑の証として受け止めたらしく支配欲が満たされて悦に入ってるようだが、この痛みは私が他の男に手を出してなかったから数年ぶりの性交に体が驚いてるとかそういうことではない気がした。おそらく旅立ちの際アヴァナスにかけさせた防御と再生の魔法の影響や強力すぎる薬品を使いまくったせいだ。汚れによる肉体の損傷を抑えるための試みが私の内部を冗談抜きで生娘同然に作り替えていたらしい。
 じっくり解して慣らすべきだった。でも飢えすぎてそんな余裕はなかった。勝手知ったるはずの互いの体に夢中で飛びついてしまった。数年前なら多少の無茶も平気だったのだろうけれども。
 恐る恐るといった様子で振り向いたアリスターは私と目が合った瞬間にへらっとだらしなく笑った。ムカつく。この馬鹿は最中まさかの痛みに涙ぐんだ私を見て盛大に興奮しやがったのだ。

 結婚してからも彼は私の昔の恋人たちに嫉妬するようなことはなかったが、奔放だった過去に対してそれなりに思うところはあったらしい。未通も同然の私の体を自分が押し開いたという事実に男としての満足感を覚えているのがありありと分かる。
「お前には悪いけど、俺はちょっと得した気分だな」
「アリスター、ぶん殴ってもいい?」
「どうぞ」
 八つ当たりも満面の笑みで受け入れられるとやる気をなくす。殴る代わりに彼の肩に頭を乗せたら、待ってましたとばかりに彼の両腕が腰に回され抱き寄せられた。
 まるで劇薬だ。理屈も正論も抜きに圧倒的な力で以て脳を痺れさせる。遠くにあって想うよりも強く、彼の笑顔ひとつで瞬く間に私の心が占められる。思考も感情も彼が支配していた。アリスターの体温に包まれて恐怖も焦燥も呆気なく融解していった。
 私はこの人がいないと駄目なんだ。生きてゆく理由さえ彼に預けてしまったから、離れて過ごすのは命を手放すに等しい。アリスターの一声でどんな無理でも通す勇気が湧いてくるのに彼のそばを離れた途端すべてを諦めて弱気になってしまう自分に気がついた。
 永遠に、一緒にいたい。彼の言葉が私を縛っている。彼に従うことこそが生きる喜びだった。

 私を抱き締める腕に体を預けてもたれかかると胸に彼のペンダントがぶつかった。それは結婚の贈り物だった。二つに別れた双子石、歪に欠けたその石は私の持つ片割れとぴったり嵌まるようになっている。アリスターはずっと身につけていたのだろうか。私の石はカバンの底に仕舞い込んでいた。常に約束を思い出すため首から提げておきたかったが、混乱の果てになくしてしまうのが恐ろしかったから。
 じっと石を見つめる私に気づいてアリスターは切なく目を細めた。
「俺はたぶん、お前がいなくなってもやっていけると思う。それが望みだったんだろ? でも、俺を満たしてくれたのはお前だ。いつかまた笑ったり泣いたりして、新しく幸せを感じて生きていけるとしても、欠けたものは埋めようがない。お前を忘れるのは無理だ」
「……私は、一生かけて愛する相手は一人だけじゃなくてもいいと思うよ。私に出会ったようにまた誰かに出会えるだろう」
「そうかもな。でもそれで何かが取り戻されるわけじゃない。今の俺を作り上げたのはお前だ。お前は俺の一部なんだ。だから、俺からエリッサ・クーズランドを奪わないでくれ」
 忘れるのは無理、か。私の死をひた隠して新たな幸せを押しつけたとしても、彼が愛する人を喪う事実をなかったことにできるわけじゃない。
 左手の薬指に嵌まる二つの光を見つめた。彼がくれた魔を避けるハイエヴァーの銀。その結婚指輪を外させないための封印のように嵌まったモリガンの指輪。約束など気にせず外して捨てることもできた。そうすれば遺してゆく悔いもなく身勝手に死を選べただろう。だけどモリガンの瞳に似た金色が私の裏切りを許さなかった。

「……モリガンはアーバー荒野に?」
 私の質問にアリスターの腕がビクリと震えた。心なしか抱き締める力が強くなり少し苦しい。
「まだあいつを殺すつもりなのか?」
「指輪を返したかったんだ。本当に殺そうとしてたわけじゃない。拒まれたらどうなるかは分からなかったけど」
 狂気に呑まれてゆく、この有り様をアリスターに伝えられるのが怖かった。私が如何にして傷つき、苦しみ、絶望し、諦め、そして死んでいったのかを知られ、輝かしくあるべき彼の未来に汚れとなって染み着くのが嫌だった。だから死ぬ前に指輪をモリガンに返さなければいけなかった。でも……。
「あなたの言う通り……忘れてほしいと願うのは無理がある。だからもう監視は必要ない。……久しぶりに会いたいと思っただけだ」
「ふぅん、残念だがモリガンは審問官と一緒にコリーフィウスを追ってるし、奴が戻ってくるより先にお前はデネリムに帰るから会うのは無理だぜ」
 相変わらず相容れない仲であるらしい二人に呆れつつ少し気になった。てっきりソルジャーズ・ピークに行くものと思っていたのだ。あそこにはアヴァナスの塔がある。肉体と精神の汚染を食い止めウォーデンの力を最大限に活用するためにあらゆることを試みた魔道士の、強大な魔法が滞っている塔が。

 正直、神経を磨り減らしながら正気を保って生きてゆくのはかなり厳しい。女王としてデネリムに戻るのは無理がある。障壁の中からアリスターが確保した人員と連携し、じっくりと汚れを断ち切る方法を探すしかないのじゃないかと思う。しかしアリスターは首を振った。
「とにかく一度デネリムに戻ってもらわないと困る。早く国民にお前の帰還を知らせておかなきゃ計算が合わなくなるだろ」
「……」
 計算? と首を傾げしばらくして思い出した。数時間前に飲んだ、チェイスンドの魔女が作る呪い薬だ。効果のほどは分からないけれど、もし本当に妊娠しているとしたら私が戻っていることを先に知らせておかなければ。旅をしていたはずの私が帰ってくるなり子供を生んではあらぬ疑いをかけられてしまう。
「でも王宮で暮らすのは心配だ。今は落ち着いてるが、急に不安定になるんだ。支離滅裂な考えに囚われ、しかも自分ではそれを論理的な意見だと思い込んでる。そういうことが多々ある」
「ああ、そんな奴はよくいるだろ? 傲慢で独善的な貴族の連中とかさ。窘めて暴走を抑える奴がいれば平気だ、俺のことだが」
「……錯乱して、何もかも忘れてしまう瞬間があるかもしれない。あなたのことも分からなくなるかも」
「長生きの年寄りによく見られる症状だな。混乱と部分的な記憶喪失。五回も六回も続けて同じ話を聞かされたかと思えば会話中にいきなり『お前は誰だ、馴れ馴れしい!』って怒鳴り散らされたり。教会にいた時分によく相手したよ」
「……」
 なんだか静寂の儀式について調べてまで精神を守ろうとしていた私が馬鹿みたいじゃないか。まるで呼び声による汚染なんて人間すべてにいつか訪れる不可避の現象と同じようなものだとでも言いたげだ。それを俗に“老化”と呼ぶ。馬鹿馬鹿しい、汚れというのはそんなものじゃない。髪が抜け皮膚は枯れ、幻聴や記憶の混濁、不安定な精神状態に悩まされ、死を間近に感じるようになり恐怖する。そう、自然な老化とはまったく……まったく……同じだな。じゃあ私はデネリムでちょっと早い老後の隠居生活を楽しめばいいだけなのでは?
 いや、いや、いやいやいやちょっと待て、根本的に間違ってる。グレイ・ウォーデンを蝕む汚れは人としての老化とは異なるものだ。そもそも洗礼の儀とは我々の食欲を増進させ肉体の急激な増強をはかり作為的に人生の絶頂期へと押し上げるもの、そして使い潰された体は成長と同じ速度で枯れ始め、死を通常よりも早めるのだ。要は老化だ。……。

 血の汚れが“老化を早めるだけ”なんてまさか、そんな、そ……そうじゃないだろう! これに卑劣な魔法が関わっているのは確かなことだ。汚れが肉体の老化を早めるとしてもそれは結果的にそうなっただけ、老化現象が汚れのすべてではないんだ。
「おいおい、落ち着けって。何かの邪悪な魔法がグレイ・ウォーデンを無理やり死に引っ張ってるのは分かってる。これに対処しようとしてるお前は正しいよ、俺が保証する」
 混乱に喘ぐ私に苦笑し、アリスターは幼子をあやすように私の背中を撫で擦った。この焦りが呼び声の影響なのかどうかよく分からない。でも彼に「正しいことをしてる」と言われてようやく安堵を得られた。
「苦しみに耐えても生きろと言ったのは俺だから、呼び声の影響を軽減するためにできることはすべてやるつもりだ。そのうえで、お前がどれほど変になってもどんな馬鹿なことをやらかしても、俺は受け入れる。耐えきれなかった時の心配なんてするな」
「……すごい自信だな」
「自分を貶めるのは止めたんだ。俺を信じてくれる人を傷つけるような真似は、もうしない。俺はお前が命運を託すに足る男だろ?」

 自分に価値を見出だせず強いて刹那的に生きようとしていた頃のアリスターを思い出し、なんだか唖然としてしまった。少なくとも今の彼は自分が私にとってどれほどの価値を持つ存在かをちゃんと知っている。だから自信に満ち溢れている。愛されていることに確信を抱いた彼はあまりに眩く、直視できなくなって彼の肩に顔を埋めた。
「……なんか初めて恋を知った時の気分を思い出すよ……」
「そう考えると一度記憶をなくしたのも悪いばかりじゃないな?」
 アリスターと出会った頃の私は既に一通りの恋愛を経験し感情のままに誰かと結ばれたいと望むこともなくなっていたけれど、今の私はまるで初恋に振り回されていた少女の頃のように、感情に囚われ周りが見えなくなっていた。
 それが必要なことではなくても、それが仮に許されざることだとしても、無分別にアリスターを求めてしまいそうなくらい。彼を守るためでもその望みを叶えるためでもなくただ自分の欲求だけで恋を貪り尽くそうとする。この狂おしいほどの想いは呼び声に惹かれるのによく似ている。
 恐怖に身を竦ませかけた一瞬、何を察したのか突然アリスターに顎を掴まれて口づけられた。絡みつく舌の感触に我を忘れ、同時に呼び声のことも頭から消えた。
 旅をしながら、私が呼び声を癒す手段を探している間にアリスターにもその時が訪れるのではないかという不安があった。幸いにも彼は未だ呼び声を聞いてはいないようだ。やはりユーサミエルを殺す場から彼を遠ざけたのがよかったのだろうか。だけどその代わりにというか、この音楽に掻き乱された私の心の揺らぎまで把握しているかのような絶妙のタイミングで触れてくるのが不思議だ。私を介して呼び声が聞こえているのじゃないかと疑いそうになる。

 身体の芯に欲情の火が灯りかけたけれどあの痛みを思い出せばまたすぐ抱かれる気にもなれず、なけなしの理性を総動員してアリスターを引き剥がすと一人でベッドに倒れ込んだ。途端に埃が舞って咳き込む。この汚い寝台で暴れまわったのだから当然だが、気づけば私もアリスターも汗と埃で薄汚れていた。……どうせシーツも始末しなければならないし、デネリムに帰る前にこの部屋を掃除していこう。
 埃を警戒したのかアリスターは私の服を防塵マスク代わりにしてそっと隣に寝そべった。見た目が変態染みているので自分のシャツでも使ってほしいと思いつつ、にっこり笑って手なんか繋がれると問答無用で口を噤んでしまう。このままではいろいろとまずい気がした。少しは主導権を取り戻さなければ。
「以前はどうやってあなたに接していたのか忘れてしまった」
「感情が戻ったのに、全部ちゃんと思い出したわけじゃないのか?」
「……全体的にはあやふやなところも多いかな」
 思い出すもなにも静寂の儀式を行う前に失ったものもある。汚れの侵食が進むと記憶が虫食い状態になるのだ。自分ではハッキリと覚えていると思っている記憶だって実は間違っていたりする。突発的に爆発した感情が精神を揺さぶり正しい判断をくだせなくなる。楽しかったはずの思い出に憤りを感じたり、自分の失敗を他人のせいだと思い込んでしまったり、あらぬ妄想に取り憑かれ、事実が歪曲してゆく。自分ではそれに気づかない。
 例えば、グレイ・ウォーデンになった私とハイエヴァー公爵になった兄を比較し、『ファーガスの生存を知った私は自分が得るはずだった地位を奪われ兄を憎み、彼の死を望んだ』という記憶ができあがる。もしかしたら無意識下ではそんな風に考えたことも確かにあるのかもしれない。だが、それがすべてではなかった。ファーガスの生存を知った時、私はこの上ない喜びに満たされたはずのに、汚れは私の感情を掌握してその記憶を塗り替えてしまう。
 私の生きてきた過去が根底から覆されてしまうよりは、ただ忘れてしまう方がマシだと思った。

「……静者のようになっていた時のことは覚えてる。その期間は記憶の欠如もない。感情に一切左右されなかったから、呼び声による混乱とも無縁だったんだ」
「もう一度感情を封じてしまいたいと思うか?」
 怒りも喜びも、何も感じなければ自分の記憶を他人事のように見つめることができる。客観的でいられるからこそ自分自身を失わずに済む。静寂がもたらすのは比類なき冷静さだ。昔ジャスティスが言っていたことの意味がなんとなく分かる。呼び声の影響を受けずにいられるなら感情を切り離しておくべきなのか……。
 でもこれはアヴァナスが行っていたことと同じ、最後の時をできるだけ先延ばしにして耐えているだけだから、“グレイ・ウォーデンを汚れから救うことが可能になった”とは言い難い。影響がなくとも呼び声は聞こえていた。それ自体を遮断する方法は未だ見つからない。
「私は作り替えられてしまうことを恐れて感情を封じた。だけど、残される時間が限りなく縮められたとしても、私自身の感情で苦痛に耐えて生きてゆこうと思う。あなたがそれを望むなら」
「俺はそれを望む。だがお前一人を苦しませはしない。お前が味わう痛みは俺も一緒に味わって生きる」
「じゃあとりあえず、あなたも男に抱かれる経験をすべきだな」
 胸に込み上げた想いに居ても立ってもいられず、つい茶化してしまう。皮肉や軽口で誤魔化したくなる気持ちも今は理解できた。誰かを好きで堪らないのを自覚するのはなんて気恥ずかしいんだろう。なのにアリスターは真顔で「お前が男になったら抱かれてやってもいいぜ」なんて言うのだからどこまで本気か分からない。
 ああもう、失うことを恐れなくていいんだ。記憶が塗り替えられても私は消えてなくなったりしない。ここに私の主がいる。アリスターが“私”を所有している。過ちを正して真実の私に戻してくれる。例え死んでも、彼が生きている。私はそこにいる。彼が愛したはずの気高さをなくしてさえ、アリスターは私を求めてくれる。
「何が起きてもいい。俺と一緒に生きよう」
「……お望みのままに、陛下。私のすべてはあなたのものです」
 鐘の音は今も響いている。私の精神はゆるやかに狂い始めていた。しかし気に病むことはない。私は彼の目で物事を見つめ、彼の感情をもとに考える。私が如何に壊れようとも彼が正しさを守ってくれる。私はアリスターの意思に沿って生きることにした。



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