透き通らなくてもいい
立ち去り際、モリガンは『エリッサに頼りなさい』と言った。私がそれを求めるなら彼女は私を助けてくれるだろう、と。審問官ではなく私自身のために動いてくれる人などあまりいない。でもなぜフェレルデンの救世主がそうしてくれるのか、よく分からなかった。彼女には彼女の進むべき道があると言っていたのに。
コリーフィウスが倒れて数ヶ月、頭がぼんやりして毎日をどう過ごしたのか今はもう思い出せない。いつものように目を覚まして、ジョゼフィーヌに今日の予定を聞いて、謁見の間で列をなす貴族たちと話して、それから私は……デネリムに手紙を書いた。どうすればいいのか分からなくて当たり障りない季節の挨拶なんかを書いた気がする。三日後くらい、彼女が来た。その二日後には二人で真冬のヒンターランド地方を歩いていた。
どこへ行くんですかと尋ねたら、どこまで行きたいかによると女王は答えた。
「すぐレリアナに見つかってしまうんじゃないかな……」
「レリアナはあなたが私といることを知ってるよ」
「えっ?」
驚いて思わず足が止まった。私は、完全に逃げ出してしまうつもりだった。彼女がそれを助けてくれるのだと思っていたんだけれど。
「じゃあ追手がいるのか?」
「いない。レリアナは私を信頼してるからな。それに、あなたに息抜きが必要なのは彼らも理解しているはずだ。私は癇癪を起こしそうな子供のちょっとした家出の手伝いをしてるだけ。と、彼らが安心している間にあなたは誰も足取りを追えないところまで逃げられる」
ずっと前に聞いたレリアナの言葉を思い出した。確かに彼女はエリッサ女王を『信頼できる親友』と言っていた。この人のもとにいると分かっているからこそ私は追われないのだ。
「……つまり、レリアナを裏切らせてしまったのか?」
「気にするな。あなたのためでなくても私はいずれ彼女の信頼を利用した。あるいは向こうの裏切りが先だったかもしれない。二度目はないが、友情のためにはその方がいい」
でもレリアナは傷つくだろう。そして次からは、この人の言葉も心からは信じられなくなる。私のせいでと思うと気が沈んだ。それでもまた歩き出す。逃げたいという気持ちに変わりはなかった。
「逃げるとして、どこへ行きたい? 家に帰るか?」
トレベリアン家はもう審問会の支援者のひとつに過ぎない。あそこは帰るべき場所ではなかった。戦っている間はオストウィックの塔に帰りたかった。ヴィヴィエンヌがサークルを再建した今ならそれも叶うだろう。ただ、かの地も既に私が私でいられる場所とは違ってしまった。どこにいても私は審問官だ。どこにいても……。
「許されるなら、誰も私を知らないところへ行きたいな」
「誰が許さないと言うんだ。いや、誰かが許さないとしても私が許す」
間を置かず与えられた言葉に息を吐く。私は笑っているようだった。彼女の他人を突き放したような態度が心地好かった。エリッサ女王は、私に対して何も求めない。心に重荷を背負わず話すことができる相手だ。
「きっと、情けないやつだと思われてるんでしょうね」
「べつに。まあ使徒が審問会を見捨てたと責める者はいるだろう。誰にもそんな権利はないのに。気に病むな、あなたに人間であることを許さないものには、人間を導けと求める資格もないのだから」
でも、人間であることを許されなかったわけじゃない。私が弱すぎて両立できなかっただけなんだ。求められ続けることに耐えられなかった。価値を証明し続けることに耐えられなかった。いつか終わると思っていたから戦ってこられたけど、勝利のあとにさえ涯がないと知って白紙の未来に絶望したんだ。
審問会がこれからセダスの手本になってゆくのなら、私はいない方がいい。きっといつか期待を裏切る。すべてを台無しにする。本当はコリーフィウスを倒すと同時に死ぬべきだった。そうすれば私は解放され、皆はアンドラステの使徒を永遠に敬うことができたのに。
そんな愚痴を私がこぼすと、彼女に鼻で笑い飛ばされた。
「手本だって? 思い上がりも甚だしいな」
「それは……ひどいだろう。審問会が世界を救ったのは事実だと思うけど」
「審問会など所詮は一般人の寄せ集めに過ぎない。彼らが唯一無二の希望でいられたのは使徒の存在あればこそだ」
「コリーフィウスを倒したのは私一人じゃない、皆の力だ」
「それを集め、動かしたのは使徒の名だ。アンドラステの使徒が加わるまで彼らは何者でもなかったはずだ」
「私が加わる前から、もう彼らは秩序を回復しようと戦っていた。私は……確かに審問会から逃げたけど、皆が物事を正そうとしたのは本当だよ」
「そんなの誰でも同じだ。物事を正す? コリーフィウスでさえそう言うだろう」
「……そういえば、確かに言ってたな」
でも、と反論しようとして口をつぐむ。混沌に立ち向かおうとしていたのは審問会だけじゃなかった。一番声が大きくて、一番権力を持っていたから先頭に立っただけ。そして他との差異を生み出したのは使徒の存在だった。この手の印がなければあれほどの影響力を得られなかった。天の亀裂を見上げてもがく、単なるひとつの勢力でしかなかっただろう。
「そちらの大使はうまくやったよ。審問会は、まるで己だけが正義たり得るかのように振る舞っていた。オーレイ臭くて反吐が出る」
尊ぶべきは勝利したという事実であって政治手腕ではない。……エリッサ女王はフェレルデンの権力者だ。忘れてはならない。彼女が審問会を快く思っているはずがないんだから。でも、それじゃあ私自身はどうなんだろう? 彼らが掲げた正義の中心に身を置いているのが嫌になり、逃げ出してしまった私は審問会をどうしたいのか。
「見誤るなよ、イヴリン。世界が審問会を必要としてるのではなく、審問会が存続してゆくためにあなたが必要なんだ。それで、果たしてあなたにとって審問会は必要なのか?」
英雄が英雄でいられるのは敵が存在してこそだ。アンドラステの使徒の役目は終わったと思う。本当の意味では、使徒じゃなければできないことなんてもうない。皆いずれ気づく。使徒がいないのなら、何も審問会でなければならない理由はない、ということに。
多くの伝説に倣い、コリーフィウスの死と共に私たちは人々の記憶の中で風化していくだろう。遅くとも数十年の後には。
「……皆にいなくなってほしいわけじゃないんだ」
「私はいなくなってほしいけどな」
「審問会を嫌ってる?」
嫌ってはいないと言って彼女は冷たい笑みを見せた。
「あの者たちは王の許可なくフェレルデンにその旗を立てている。私が正式に帰還したら侵略者は追い払う。たぶん、そうするまでもないと思うが。あなたがいなければどうせ彼らは立ち行かない」
だから私を助けてくれたのか? 私がいる限り審問会は強大であり続ける、その鉄壁を崩すために基盤から抜き取りたかったんだ。彼らを瓦解させるため私に手を差し伸べた。きっとそれもあるんだろう。彼女はフェレルデンの守護者なのだから。でも……彼女は、私を審問官と呼ばない。アンドラステの使徒という称号を翳して私を扱わない。だから私はここへ逃げ込んだ。私自身が選んだことだ。
空に近いあの城で皆は私が帰ってくると信じている。そう考えると死んでしまいたくなる。戻りたくない。でも、私が逃げることで彼らが崩れてしまうのがつらかった。
俯いて爪先を睨みつけていたら、不意に頭を撫でられた。驚いて見上げると彼女は優しげな微笑を私に向けていた。「あいつは常に嫌味ったらしくて威圧的だからな。ちょっと優しく笑いかけられただけで骨抜きにされちまうんだよ」アリスター王のそんな言葉を思い出した。
自力では道を切り開けない私のようなものにとって、彼女みたいに果断な人の赦しを得ることは、何にも増して心が満たされる。自分のことは信じられなくてもあなたの言葉なら信じられる。その笑顔を向けられるなら私にもなにがしか価値があるのだと思えた。
「スカイホールドで会ったとき、あなたは水に溶けてしまいそうなほど、何者でもなかった。いたいけな者の心を磨り潰して全うした正義では誰の心も守れないと思っているんだ。私はね」
どうしたい、と彼女は聞いた。何を望むのか。世界のため、審問会を唯一の希望とするならば私はどこへも逃げられなくなる。でも彼女は「審問会などなくても世界は存続する」と言った。
「……あそこにいたら、私は皆の理想であり続けなければならないんだ」
過ちは許されない。苦悩も怯えも抱いてはならない。創造主の代弁者でなければいけない。そんなこと、人の身にできるわけがなかった。コリーフィウスという目に見える敵がいたから私は使徒でいられただけだ。この印をなくしたイヴリン・トレベリアンには誰も見向きもしないと分かっている。
弱い、情けないやつだと呆れられ、詰られ、蔑まれても構わない。見下されても平気だ。そうあることを許されない方が苦しかった。弱さも私の真実なんだ。隠し通せはしても捨てることはできなかった。……死んでしまわない限りは。
「私は、頼りなくて弱くて世界の役になんか立たなくていい……ただの人でいたい。それを許してくれる場所に……帰りたい」
なんだか足が動かない。後ろからたくさんの手が伸びているのを感じていた。でも彼らは最早、私の助けを必要としていないことも知っている。もう自分の足で歩いていける。ずっとそうしてきたんだ。手本なんて、導きなんて、なくても生きていける。私にそれを求めないで。私を……殺さないで……。
雪に足をとられて躓いた私を軽く抱き留め、エリッサはそのまま手を繋いで歩いてくれた。彼女は体温が高かった。フェレルデン人は皆そうなんだろうか。カレンの手も……温かかった。
「残された者に分別があれば審問会は旗を降ろすだろう」
「……うん」
「ともかく、あなたはのんびりするべきだ。一年でも二年でも、彼らがどうなるのか見てみればいい。気が変わって審問会に戻る気になれば送ってやるから、その時は遠慮せず言うように。変わっていなければ、どこへでも逃がしてあげよう」
レリアナは旗を降ろすことに賛同するかもしれない。カサンドラはそれを受け入れるまで時間がかかるだろう。そして……、カレンがどうなってしまうのか、私には分からなかった。
カレンは審問会を必要としている。彼にとっては悔やむべき過去をやり直せる唯一の機会だった。私はそれを裏切った。我が身を惜しんで彼の信頼を踏みにじり、課せられた使命から逃げ出した。きっと二度と会ってもらえないだろうけどそれならそれで平気だった。でも、その行く末は不安だ。
もう失望させても構わない、逃げると決めてしまった、足は止められない。歩みを妨げるのはあの人を失う恐怖だ。私の裏切りに耐えられず、カレンが壊れてしまうことだけが怖かった。