そもそも不似合いなのだ、暁にカンタービレは
俺が小袋から取り出した丸薬を手渡すと、エリッサはそれをすぐ口に入れて飲み込んだ。渡した俺の方がビックリするほど躊躇いも何もあったもんじゃない。幼児並みの無用心だ。
「もうちょっと疑いを持てよ。ハイって渡されて食ったのが毒だったらどうするんだ」
「毒なのか?」
「いや、違うけどさ」
「じゃあ問題ない」
俺が相手ならいい。でも知らないやつにまで易々と従ってしまうとしたら危険すぎる。今の彼女には判断力などないも同然だった。他人はすべて疑ってかかってもいいくらいだ。そう言ったら彼女は、“誰も信じてはいけない”ということは繰り返し記憶してきたと真顔で答えた。無条件に従うのは俺だけなんだと。そんな風に言われたらちょっと嬉しくなっちゃうじゃないか。
「他にも覚えておきたいことはたくさんあったけど、無理だった。思考が分散するほど記憶は薄れる。ひとつのことを強く刻みつける必要があった」
「それが俺? こう言うのもなんだが、正直意外だな」
「あなたはある種の呪いだ。記憶がすっかり消え去ってしまったあとに元の自分へと辿り着くための道標として、私の中に刻まれている」
もし俺が狂気に飲み込まれていく最中、それでも生きていかなければならない理由があって、今までの記憶をほとんどなくしても自分を繋ぎ止めるものがあるとしたら。……それはやっぱり彼女の存在だろう。俺が自分の意志ってやつを考えるようになったのはエリッサのお陰だ。そしてつまり彼女自身も、俺のことを同じように思ってくれてるわけだ。
そういうのはもっと積極的に言葉として伝えていくべきだと俺は思うんだけどな。
エリッサは呼び声を無視するために静寂の儀式を真似た。そこのところがちょっと不思議だった。どうやって儀式のやり方を知ったのかはともかく、それは魔道士じゃなきゃ行えないはずだ。彼女が持つ日誌を兼ねた覚書にも具体的に何をしたのかは書かれていない。
「それを解くには知らなきゃならない。お前は魔法なしでどうやったんだ」
「……魔法を使った」
「でもお前は魔道士じゃな、いっ!?」
おもむろに服を脱ぎ始めたエリッサから慌てて目を逸らし、いや待てよ見たっていいだろ俺は夫なんだからとまた視線を戻す。苛酷な旅を続けたらしく痩せたなとは思っていたが、久しぶりに彼女の素肌を見て絶句した。肉が削げ落ちているだけでなく、テヴィンターの奴隷かと思うくらいに傷だらけだ。
例えば四肢を縛り上げて餓えた狼の群れにでも放り込むだとか、無抵抗で敵に身を晒さなければこうはなるまい。地底回廊に転がるグレイ・ウォーデンの遺体だってここまで酷い有り様ではないだろう。まるで一度バラバラに切り刻んでまた無理矢理くっつけたかのように傷痕が全身を走っている。
旅立ちの前、エリッサはアヴァナスが調合したポーションをいくつも持ち出した。真っ当な癒し手が作るような自身の回復力を引き出して傷を癒すものではなく、分断された肉を魔法で強引に繋ぎあわせる強力な薬だ。傷が癒えるに際して相当な痛みが伴う代わりに折れた骨さえ元に戻せる。老魔道士の謳い文句を信じるなら、腹を裂いて内臓を引きずり出してもこの薬を塗るなり飲むなりすれば死なないという。
言うまでもなく、それはあの男がグレイ・ウォーデンを実験材料にしていた時に使ったものだった。死ななければそれでいい、他のことを一切鑑みない、薬と呼ぶのもおぞましいブラッドマジック由来の代物。……彼女はそれを使ったんだ。使うような目に遭ったんだ。即ち、死の際から一度、深淵へと落ちたのだ。
無感情な緑の双眸が俺を見つめている。エメラルドの瞳を持つ人形でも相手にしてる気分だった。
静寂の儀式というのは、基本的にはサークルの見習いに課される試練と同じものだ。リリウムを用いてフェイドに入り悪魔と対峙する。通常の試練であればそいつと戦って終わりだが、そうできない未熟な魔道士は自身の魔力、夢、つまり精神のすべてを犠牲にして悪魔を静寂に閉じ込める。この瞬間、魔道士の心は失われる。悪魔を封じるためフェイドに取り残され、肉体に戻ってくることはない。
エリッサは何度かフェイドで覚醒した経験がある。しかし魔道士と違って例えリリウムを用いても己の意志でヴェイルを越えることはできない。だから……彼女はちょっと死んでみることにしたわけだ。何を言うべきかも分からず頭を抱えた俺に、一応は罪悪感があるらしい彼女は言い訳がましく呟いた。
「勝算はあった。本当に死ぬわけじゃないと分かっていた。助けてくれる者を探したから」
「助け?」
「これまで精霊や悪魔に取り憑かれた死体はたくさん見てきたが、すべてが魔道士というわけじゃなかった。意思を手放しさえすれば精霊は誰の肉体でも支配できる。相手を選び、きちんと契約を交わせば共存も可能だ」
頭痛がしてきた。呪術師も真っ青な言い種じゃないか。フェイドの生物と契約を交わそうなんてその時点でまともじゃない。ああでもこのバカは、精霊だろうが悪魔だろうがゴーレムだろうがダークスポーンだろうが会話さえ成り立てば普通に交流してしまうんだった。
「死の寸前まで自分を追い込んでみた。そして慈悲深い精霊に出会った。それが自分の領域に私の精神を保護し、私が意志せずとも肉体が生きていけるように魔法をかけ、静寂の儀式を行った」
「じゃあ、お前は悪鬼だってことになるのか?」
「そうとも言える。実際、あなたが目にしているのは私の記憶を共有する精霊なのかもしれない。だけどそれはもう私の一部だ」
彼女をエリッサ・クーズランドと呼べるかどうか。それはもう“精霊とは何か?”って話にまで及んで俺の手には負えない。彼女の肉体を持ち彼女の魂を持つ存在、生命を維持する力の源が何であれやはり俺の眼前にいるのはエリッサ本人だ。
悪戯をして叱られる犬みたいに悄気た顔で、彼女は上目遣いに俺を窺った。
「私が勝手に諦めたから、あなたは気を悪くするかと思っていた」
「おいおい、随分と控え目な表現をするんだな」
ぼろぼろの身体を前にすると怒りも萎みがちだが、胸中を覗いてみれば俺は確かに激怒していた。無茶するにも限度がある。自分の死を俺に悟られたくなかったと彼女は言うが、俺の知らないところで死なれる方がずっと堪えるに決まってる。モリガンに預けた秘密を奪い返すよりもまず真っ先に俺のところへ帰ってくるべきだろう。
もし本当にダメだったら、彼女がもう生きていけないのなら、それを受け入れる覚悟はしていた。だがせめて俺の腕の中で息絶えるべきだ。彼女の灯火が燃え尽きる時に自分が何も知らずのほほんと暮らしてたなんて、それこそ一生悔やんで、彼女の死をずっと引きずるはめになる。
青白い腕を掴んで引き寄せると筋力の落ちた体は信じられないほど軽かった。ハーロックをちぎっては投げ、タックルでオーガをブッ飛ばしてたのが嘘みたいだ。でも抱き締めて背中に手を回せば以前と変わらず温かい。少々頼りなくなっても抱き心地よく俺の体に密着する。その熱を感じて体の芯に火が灯る。彼女がここに在るのだと実感した。
魔法の仕組みが分かっていれば術を解くこともできる。どちらにしろ彼女を救った精霊が力尽きれば感情は戻るのかもしれないが、それまで待ってたら肉体の方が持たない可能性があった。俺は彼女の核心に触れなければいけない。閉ざした心を抉じ開けるんだ。
「久しぶりに会って、俺を見て、声を聞いて、抱き締められて、どう思う? 何か思い出すか?」
「は……はっ、くしゅん!」
「なるほど。アリスターってやっぱりハンサム、とっても惚れ直しちゃった、と」
「言ってない」
鼻を赤くしながらも無表情で律儀に否定したエリッサに苦笑する。服を脱いでるのはちょうどよかったな。彼女の血が流れ心臓が脈打つ音を感じ、俺もそろそろ限界だ。
「……温かくなることしようか?」
どっちにしろ、その予定だった。
俺に抱かれたまま困惑した表情を浮かべていたエリッサは、やがて我に返ったように首を振る。
「精霊の力を借りてもそれほど寿命が延びるわけじゃない。モリガンの件を片づけたら、私はまた出ていくつもりだ」
「それは駄目だな。お前はそんなことできないよ」
背中に腹に傷痕を這わせて指で触れると彼女はくすぐったそうに身を捩った。滑らかな肌に微かな凹凸がある。妙にそそられる。
「覚えてるか、お前がモリガンに俺を差し出した、邪悪な闇の儀式のこと」
「うん……?」
「グレイ・ウォーデンは男女を問わず子供を作ることが困難になる。だけどあいつには妊娠の確信があった」
「それは魔法の効果では?」
「儀式の魔法は年若いウォーデンから穢れを抜き取って胎児に移すためのものだ。ただの一回でモリガンが妊娠したのは別の理由があったからさ」
正直、思い出したくもない記憶だが、重要なことだ。モリガンを問い質して確認もとった。あの儀式が実際どんな仕組みだったのかを。
そもそもモリガンに古代の魔法知識を伝授したのは悪名高い伝説の魔女フレメスだった。彼女は遠い昔を生きた人物だが、チェイスンド人の男を惑わせて娘を作ってはその肉体を奪い恐ろしいほどの年数を生き永らえてきた。そう、儀式が関わるのは肉体を支配する部分だけ。つまり、ただの一度きりで過たずウォーデンの子を宿すことができたのは、穢れを奪う魔法とは無関係な知識の賜物だ。
「さっきお前が飲んだのはモリガンにもらった薬だ。知ってるか? 野蛮人の魔女ってのは呪いを使って何でもやってのける。人を殺したり、動植物の姿を変えたり、……娘を妊娠させたりな。あと一時間もすれば効いてくるだろう。今夜ここで、俺と一晩一緒に過ごすんだ。その結果、お前は子供を身籠ることになる」
「……えっ?」
今一つ頭が追いつかないらしい彼女を無視してベッドに押し倒す。盛大に埃が舞った。ほんと、もっとマシな部屋はなかったのか。
俺は望み得る最上の人生を歩んでいると思う。エリッサを喪ったとしても彼女が与えてくれたすべてのものが俺を不幸にはしないだろう。だが、我儘になってもいい、不相応に求めてもいい、人ってのは欲深いもんだと教えてくれたのはほかならぬエリッサだ。
なんだかんだいって彼女は俺に助けを求めた。俺に選択を任せた。だから俺はもう一度、彼女を自分のものにする。俺の子を……フェレルデンの王子を腹に宿して死ぬことなんてできないだろう。例え気が狂ってさえ。
「なあ、お前はあんなに俺にベタ惚れで、一目惚れからやっと想いを遂げて結婚できたのに、その大好きな俺との思い出を忘れられるのか? 本当に?」
「……アリスター、私が忘れてるからって過去を捏造するな」
「やっぱり分かるか」
「記憶を封じているだけだ、馬鹿になったわけじゃない」
「そりゃあ良かった」
心なしか怒ったような顔してそっぽを向く。そんな仕種が懐かしい。感情ではなくただの条件反射でやってるだけなのかもしれないが、それこそ肉体がエリッサという存在を記憶している証だ。
穢れによる肉体の劣化を防ぐ術はアヴァナスが数多の魔法とポーションで作り出した。ソルジャーズ・ピークに引き込もって魔法の塔で暮らせば半永久的に生きられる。だが、彼でさえ呼び声を消し去ることはできなかった。精神を侵し、心を食い潰してゆく狂気には、ひたすら耐える以外の対処法がない。
かつてダンカンもそれを聞いた。それでも生きていた。生きて笑っていた。死ねないなら生きるしかないのだと彼は言った。生きてゆく理由さえあれば狂気の中でも生きられるのだと。……エリッサは死ねない。俺がいるのだから。
「エリッサ、死ぬなよ。俺が好きなら生きろ。死ぬほど苦しみながらでも、俺の望むようにしてくれないか?」
「……そうしたいと……思うけど……私は……」
「お前が何もかも忘れちまっても俺が覚えておいて教えてやる。だからそばにいてくれ。それだけでいい。ただそれだけで」
縺れた糸がほどけていくように表情が変わる。見開かれた彼女の瞳から祝福の音色が聞こえた気がした。
「私、は……あなたのそばにいたい。あなたのために生きていたいんだ。なのに、あの、鐘の音が! 音楽が邪魔をするんだ! あなたへの愛を掻き乱して、私の中からあなたを消してしまう!」
エリッサは溺れ死にそうな人のように必死で俺にしがみついた。焦燥と、恐怖と、哀願が溢れ出す。全身から感情を滲ませていた。……えぇ? つまり……何がどうなった? 俺がなんかしたのか?
静寂の儀式を解除するには魔道士が悪魔と交わした契約を破棄しなきゃならないはずだ。例えば何かの呪文で、あるいは行動で、もしくは力ずくで。俺はただ自分の望みを言っただけだ。一方的に、彼女のことを少しも顧みず、自分本位に欲を訴えただけだ。……それが……俺の望みを叶えたいって欲求こそが彼女の根幹を成してるって、ことか?
「参った。お前は俺のことが好きで堪らないらしいな」
「そんなの今更だ、ばか」
ただでさえプライドが高いのに、いい歳して泣き顔を見られるのは耐え難いに違いない。涙声で唸りながらエリッサは俺の肩に顔を埋めて抱きついてくる。
「呼び声は大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。頭が割れそう。でも、……なんとかする。一人は嫌だ。あなたのそばにいないと負けそうになるんだ。あの邪竜に呼ばれ、応えそうになる。あなたの方が大切だということを、私が私だってことを、忘れそうに」
もう何年も会えなくて、彼女のことばかり考えていた。他の何も頭に入ってこなかった。ただ彼女の無事だけを祈っていたんだ。きっとエリッサも、俺を好きだって気持ちで頭をいっぱいにすればそんなもの聞こえなくなるさ。ずっとそばにいて、朝に目が覚めてから夜に瞼を閉じるまで俺の顔を見続けていればいい。心が塗り潰されそうになるたびに俺が上から新しく塗りたくってやる。
「まあ、安心しろ。そんな音楽なんか掻き消すくらい俺の愛はでっかいんだから。沈黙をぶち壊すのは得意なんだよ」
「……それはよく知ってる」
離れてるから不安になる。不安だから弱くなる。そして無茶をして失敗する。ろくなことがないのは分かりきってたじゃないか。
今までそうしてきたんだ、これからも二人でやっていく方がいい。あの日の誓いの通りに、この命の続く限り……何が起きてもずっと一緒だ。