生まれ来る庭園
久しぶりに訪れたクーズランド城塞は、ちょっと前の印象からすると見違えるくらい賑やかになっていた。
目を引くのは夏の盛りほどの鮮やかさはないにしろ立派に蘇った庭園だ。色とりどりの花が咲き誇る中で泥に汚れたエプロンを纏い、満足そうな笑みを浮かべてアノーラが佇んでいる。デネリムで会った居丈高で感じの悪い女とは別人みたいに穏やかな顔をしていた。
「悠々自適だな」
「ええ。羨ましいでしょう?」
嫌味というより本心からの喜びのようだった。だから俺も腹を立て損ねて黙り込む。
半年前、彼女は玉座を欲していた。俺はその玉座を疎んで自由を求めたが、お互い欲していたものは手に入らず、俺が王冠を被って彼女は身を退くこととなった。
しかし意に反して王となったはずの俺の手には念願だった愛する家族というものが転がり込み、敗北を喫したはずのアノーラは未熟な王夫妻の良き義姉として諸侯に強く信頼を寄せられている。
こうしてみると、自分が欲するものを本当に得る方法ってのは分からないものだよな。時には一度諦めて何もかも失ったような気にならなければ、至上の幸せは見つからないようになっているのかもしれない。
アノーラが育てた庭はとても居心地のいい暖かな雰囲気があって、クーズランド家によく似合っていた。この庭の在りし日の姿を俺は知らないが、さっき見た義兄の満足そうな表情から考えてもアノーラの仕事ぶりは完璧なものだったに違いない。
「なんか意外な気がするよ」
「私が花を育てていることが、ですか?」
「こういう育て方をすることが、だ」
あのロゲインの娘……というのは置いといても野心家で論理的で冷静で気が強くて、顔と口と心をバラバラに動かすのが得意な根っからの政治家であるアノーラが造り上げた庭なんてきっと、あまりにも整然としすぎて冷たい感じがすると思ってた。
たとえば花と花の間隔や色のバランス、互いに与える影響まで計算し尽くした戦略的な配置。それに植える花の値段や流行、薬草としての需要まで考え抜いて効率よく並べ立て、一分の隙もなく統治の行き届いた庭。
遊びや楽しみの欠片も見当たらない、つまらない風景を想像していた。だが実際に彼女の庭を見てまわれば、予想だにしなかった景色が現れる。
単にその時の気分で植えたいものを植えているらしい。見映えなんて気にせずとにかく好きな花を一生懸命育てたという感じの、ある意味では雑然とした全貌とは裏腹に、ひとつひとつの花を見れば手入れが行き届いてて枯れてるものなんてまったく無い。自由気儘でありながら毅然とした美しさがあった。
「玉座に腰かけて白い指先で人を殺せるような女は泥に塗れるのを嫌がるもんだと思ってたよ」
「くだらない偏見ですね」
「どうやらそうらしい」
理路整然を地で行く女がなぜこんな自由と混沌の象徴みたいな庭を生み出せるのか、すごく不思議だ。
とりとめなく植わる多種多様な植物の中で一種類だけやたらと多いものがある。秋の寒気にもめげず艶やかな緑の葉を広げ、ところどころで青い花を咲かせているのはローズマリーだ。
エリッサの亡き母上、エレノア・クーズランド公爵夫人が好んだ花だと聞いたことがある。なんでも花の香りが幼かったエリッサの癇癪を抑えるのに役立ったとかで、エレノア夫人は娘の周りをこの青い雫のような花でいつも飾り立てていたらしい。
母の思い出は花の香りだとレリアナも言っていた。ふわりと鼻腔をくすぐるその芳香が眠っていたささやかな記憶を蘇らせてくれる。
他の花を守るように庭園のいたるところに顔を覗かせるこの花はもしかすると、兄が植えてほしいと頼んだのだろうか。だけどアノーラ自身も亡き公爵夫人と個人的に仲が良かったとエリッサが言っていた。
誰の望みで植えたにせよ、この花はエレノア夫人の思い出を象徴しているんだ。
我が根城であるデネリム王宮の庭はこことは違い、こじんまりとして酷く荒れていた。ダークスポーンの襲撃による被害のせいでもあるが、そもそも以前からあまり手をかけられていなかったようだ。
一世紀前にヴェネドリン王が殺されて以来、その場所を気にかける余裕のある者などいなかった。今や花の一輪も咲いていない。
そろそろ庭園の世話人を探してもいいだろう。指先まで血に染まり泥を被りながら多くの命を屠ってきた俺の奥さんは自称“デイジーさえうまく咲かせられない粗忽者”らしいから、いっそのこと俺がもらおうか。
アノーラの庭を見たから対抗心が芽生えたというわけじゃないが、自宅の庭が荒れ放題なのも気分が悪い。薬草園なら修道院時代に世話していたし、なんだったらこの“義姉上”に助言をもらうこともできる。花でも野菜でも好きなものを育てるのはきっといい息抜きになるはずだ。
それにしてもデネリムに住んでいた頃のアノーラは国政にかかりきりだったので彼女が女王の庭園を手入れする機会はなかっただろう。庭仕事なんかどこで学んだのかと疑問だったが、不意に思い出してしまった。そういえばロゲインは元農民だ。
「グワーレンの屋敷にも、あんたの庭があったのか?」
俺の問いかけにアノーラはいくらなんでも大袈裟じゃないかと思うくらい顔をしかめた。……まあ、無理もない。俺の聞くべきことじゃなかったな。
この失言癖はどうにかしなければと思ってはいるんだが、考えるより先に言葉が出てしまう。幸いにもハイエヴァーで安らいだ時を過ごしている彼女は、俺の無神経な発言を視線で咎めるに留めてくれた。
「グワーレン公爵の邸宅には今も美しいバラ園がありますよ。亡き公爵夫人が存命中に信頼の置ける庭師にあとを託しましたので。邸宅の新たな主人が庭を取り壊さない限り、彼が真心を籠めて丹精し続けるはずです」
さりげなく釘を刺された。ひとまず国に返還されている、つまり俺の所領となっているグワーレン公爵領をどうするか、まだ決めていない。慎重な判断が要される。適当な領主を送り込んだり領地を解体したりなんてことしたら手痛い報復が待っているだろう。
亡きグワーレン公爵夫人、名前は知らないが、アノーラの母親が家具職人の娘だったとかなんとか教えてくれたのはイーモン伯爵だ。
きっと庭仕事については母親に教わったんだろう。ロゲインに花を愛でる趣味があったとも思えないし、あの父とこの娘が血の通った“家族らしい会話”を交わしていたなんて想像もできない。
だが俺の知る由もない人の、アノーラの母であった人のことを考えると、かつて存在していたひとつの幸せな家庭が朧気ながら見えてしまう。
「母は驚くほど花の世話が得意でした。よせばいいのに自分でも庭を世話したくなったお父様が枯らしてしまったバラの花を、母は触れただけで魔法のように蘇らせて……」
「……」
「……」
続きを待っていたんだが、アノーラはそれっきり口を閉ざした。
俺を嫌ってるどころか憎んでいるはずの彼女がわざわざ家族の思い出話を聞かせてくれる理由はない。両親の記憶に綻んでいた彼女の表情は、俺の視線に気づいた瞬間に音もなく凍りついた。
アノーラの父親を殺したのは俺だ。
命辛々オスタガーを逃げ出した時からずっとロゲインへの報復を望んでいたけれど、諸侯会議でようやく真正面から宿敵と相対した俺の心が激情に燃え立つことはなかった。その名前は確かに裏切りの象徴だった。しかし彼自身には、何も感じていなかった。
討ち果たすべき仇とは彼ではなくダークスポーンであり、俺はあの男に然るべき罰がくだされるならそれでいいと思っていたんだ。
ロゲインを殺しても意味はなかった。些細な自己満足さえ得られなかった。諸侯会議の勝利者となった俺に求められたのは、個人的な復讐ではなく王としての公正な裁きだった。
だけど俺が奴を許してしまったら、誰があいつを糾弾してくれるのか……。
処罰ではなく欲求からロゲインを殺したんだ。俺の振るった刃が正義の鞘におさまることはない。俺はロゲインに贖罪を許さなかった。罪を許さず罰を与えず、ただ感情に任せて殺した。
俺がロゲインを殺した時、なぜエリッサがああまで深く嘆き悲しんだのか、今は分かる。……それが彼女の責任のもとで行われたからだ。俺は自分の我儘でやつを殺したつもりでいた。だが彼女は真実を知っていた。俺に剣を託したのはエリッサだ。誰がどんな理由で振るったとしてもその刃は彼女のものだ。
あの時、俺はなんにも分かっちゃいなかった。彼女の意志を代行している自覚もなく罪を犯したんだ。
両親の思い出話に花を咲かせることもなく、アノーラは燃え立つような目で俺を睨みつけた。
「公爵とのお話は終わったのでしょう。口実を作ってアマランシンに寄るなり、分別をもってさっさとデネリムに帰るなり、お好きになさってくださいな」
思わず舌打ちしかけて寸前で思い止まった。確かにエリッサのいるアマランシンに行きたいと思ってるが、それはできない。ダークスポーンの問題が片づくまで近寄るなと厳命されている。
ただ……そのアマランシンで暴動があったと聞いたから。
ここへ来たのは男爵領北部で起きていた諸問題の件でファーガスに力を借りようと思ったからだ。そして、あくまでも“ついでに”、エリッサの状況について義兄と話をして安堵感を得たかった。
暴動のことを聞いてすぐエリッサに連絡した。身を案じる俺の手紙に対して彼女の返事は『私が農民に負けると思いますか』という勇ましいものだった。動揺が走り、続きを読まずに手紙を伏せた。
俺は当たり前みたいに彼女が民衆を説き伏せて家に帰したと思い込んでいた。冷静に考えればそんなことは不可能に近い。武器を持って立ち上がった人間を言葉だけで止めるなんて無理だ。彼女は戦ったんだ。貧困に喘ぎ助けを求めてきたであろう民衆を剣で追い返した。
もちろんエリッサが負けるわけがない。俺の女神様は傷の一つも負っていないだろう。だが相手はどうだったのか。彼女に刃向かった農民が無事だったとは思えない。
枯れ枝や病気の枝を剪定し、害虫を駆除するように彼女は敵を排除した。管理を怠れば庭は荒れる。見捨てるべきものを捨てなければ結局は健康な枝まで生長を阻害されることになる。命の選別は庭園の主の仕事なんだ。
だからエリッサがやったのは正しいことだ。そうしなければ彼女を喪っていたかもしれないと思えば反乱した農民に怒りさえ感じる。でも……。
より多くを得るためだとして、それが正義の行いであったとしても、目の前の弱き人々を犠牲にすることに耐えられない。俺はやっぱり人の上に立つのは向いてないんだ。
いつも正義の在処を探す職務を彼女に任せてきた。綺麗事に縋っていられるのは誰のお陰か考えなくてはいけない。俺にエリッサの冷酷さを咎める権利はない。
無分別な幼子なら我儘でも許される。家長となれば家族全員に責任を負わねばならない。同様に村長はすべての家に責任を負っているし、領主はすべての村に責任を負うものだ。そして国王である俺はそのすべてに責任を負っている。
今は分かっていた。エリッサは俺の名のもとに行動している。彼女が降した決断も、彼女が奪った命も、この手で為したも同じことなのだと。
アノーラの、父親によく似た、しかし全く同じではない冷ややかな青い目が俺を見ている。彼女は命の扱い方を母親に教わった。それがロゲインとの違いだろう。
人を支配するのは冷酷な女性の方が向いている。この国は女王を愛する。その気持ちが俺にはよく分かる。
「……もう帰る。ところで、あそこのローズマリーを挿し木で譲ってくれないか。馬車に積んで持って帰るから」
あの優しげな花を王宮の庭で増やすんだ。おふくろさんが好んだ花というだけじゃなく、精油が美容にいいとかでエリッサ本人もあの花が好きだと言ってたから。
「俺じゃなくて可愛い義妹へのギフトってことなら構わないだろ? 頼むよ、お義姉さん」
皮肉混じりの言葉を無視して思案げに俯いたアノーラが次に顔を上げた時には、唇の端を吊り上げて笑っていた。
「いいでしょう。彼女が王宮に戻ってから、“可愛い義妹へ、義姉より”と添えてデネリムに送って差し上げます」
「あーそう、ほんっと、いけ好かない女だな」
「誉め言葉だわ、アリスター。どうもありがとう」
摘み取らねばならなかった命の分だけ強く美しく、手を汚して帰ってくるエリッサを優しく包み込んで癒せるような庭を育てよう。そして憎しみで断ち切られていた俺とアノーラの関係も、これから何かが変わるかもしれない。
いや、自分の意思で、変えることができるんだ。