欲しいもの、ぜんぶぜんぶ。
朝起きて、寝惚けた頭のまま隣を見る。エリッサが身支度をしている。夢との境界にいるようなこの時間がすごく好きだ。微睡みながらただ彼女を眺めていられる。俺がいつまでも寝そべってぼーっと顔を見てても彼女は怒らない。支度せずにぐだぐだやってて困るのは彼女じゃなく俺自身だから。仕方なく、俺も起き上がって着替えることにした。
彼女が俯くと磨いた黒曜石のような漆黒の髪が肩を流れた。もう何度となく感じてきたことだが、やっぱり彼女は綺麗だ。目覚めて一番に見る朝陽のように、雨の滴に濡れたバラの花のように、滑らかに光る上質なシルクのように、研ぎ澄まされた刃のように。様々な美しさに心を打たれる衝撃がいっぺんに沸き立った。
初めて会ったときから美人だとは思ってたけど、彼女を知るにつれ、その内面に触れるごとに光り輝いていくようだった。きっと俺がエリッサを好きになったせいなんだろう。彼女の存在が世界中の何よりも強く俺の心を揺さぶる。
「なあ、今でも俺のことハンサムだと思う?」
何の気なしに俺が尋ねたらエリッサは手を止めず振り向きもせずに頷いた。
「思うよ。顔は変わってないし」
「いやそういう意味じゃなくてさ」
出会ったばかりの頃、よりにもよって美形にもほどがあるエリッサにハンサムだなんて言われた時は面食らったものだ。彼女が意味もなく男の容姿を褒めるとは思えないが、俺をおだてても意味なんか無かったわけだからあれは単なるお世辞でもないんだよな? 信じ難いことだが。
「自分で言うのもなんだけど、俺ってべつに美形じゃないし、仮にそうだとしてもお前はそういうの見慣れてるだろ」
彼女の家族を含め、優れた内面に裏打ちされた魅力的な外見を持つ人々に囲まれて生きてきたはずだ。いい王になれるなんて言われたときも思ったがエリッサが俺の何を評価してくれてるのかよく分からなかった。これまでの人生どっちかって言えば人に嫌われることの方が多かったし、もちろん女に好意を寄せられたこともない。与えられた言葉が嬉しいのを別として一体どこ見てハンサムとか言ったんだと疑う気持ちもなくはなかった。
そんな愚痴っぽいことをぽつぽつ漏らすと、エリッサは体ごと俺に向き直ってじっくり顔を見つめてきた。あからさまに観察する無遠慮な目にたじろぐ。彼女はたぶん自分が俺を見るのなんて当たり前の行為だと思ってて、夫婦なんだからそれは確かにそうなんだろうけど、彼女を見るたび新しく恋に落ちてる俺からしたらそんな真っ直ぐな視線はすごく……その……困る。
どんな誤魔化しも通用しない。俺の欠点、人から嫌われる要因、運命に対して無気力で逃げ腰で問題から目を背けて曖昧にしたがる卑怯さをしっかりと見られて、ふとした瞬間に彼女は自分が俺を好きじゃないことを思い出してしまうんじゃないかと怖くなる。見透かすような眼差しが不意に柔らかくなり、また興味なさそうな顔に戻ってエリッサは言った。
「輝かんばかりの美形だとは言わないけど人の魅力を作り上げるのはそれだけじゃない。あなたは他人に対して自分を都合よく見せる方法を知ってる。他人の心を操作できる。誰からも好かれにくかったのは人と深く関わらなかったからだ。あなた自身が知られることを避けていた。現に、あなたをきちんと知っている人はあなたを好いてるじゃないか。女に慣れればモテると思った。今もそう思う。あなたはハンサムだよ、アリスター」
それってつまりへらへら笑って人に媚びるのがうまいという話だろう。役に立つ能力だとは自負してるが、褒められたものだとは思えない。第一、妻以外の女に慣れるつもりなんてないぞ。今さらモテても仕方ない。彼女の心を掴めなければ意味がないんだ。
エリッサは美しい。生まれ持っての美貌はもちろん、それをさらに磨き上げて存分に利用しているし、類い稀な機知と勇気が彼女の輝きを強めている。彼女が一目でいろんなやつを惹きつけるのは分かる。カリスマってやつだ。でも、だからこそ、なぜ俺の隣にいるんだろうなんてバカな考えが浮かぶこともある。俺たちが一緒にいるのは様々な事由が絡んでるせいだと分かってるけど。
彼女は俺を好きだと言ってくれる。でもそれは親しみでしかないと半ば以上確信していた。俺と結婚したことを後悔はしてないかもしれないが、単純に惚れた相手と添い遂げたいと思うならエリッサが選ぶのは俺じゃなかった。冷静に考えてしまうとすごい勢いで心が落ち込む。
「俺がハンサムだとしても、俺と出会ってお前が恋に落ちることはないんだろうな」
一目でハッとするような美貌はない。蕩けるような口説き文句も知らない。俺が培ってきたユーモアは他人の干渉から逃げるためのもので、彼女を夢中にさせることはできない。エリッサが俺への恋心で胸を痛めることはないんだと思うと悔しくて堪らない。彼女は気まずそうな顔で目を逸らした。
「私が恋するのは決して敵わないと感じた相手だけだ。愛するのは、そうではない人々だ」
「いいよべつに。外見にしろ何にしろ俺がお前の好みじゃないのは分かってるさ」
内面でカバーすりゃいいだけだ、ケッ。……でもカバーできてるのか? 疑問だ。彼女の困ったような顔は「あなたは大勢と同じく愛すべき人だが私の唯一の人ではない」と告げているようだ。
偉大なる義兄上から見るとエリッサは俺に恋をしているらしい。彼の洞察力に対して疑念を抱くわけじゃないが、その件についてはどうも信じられない。ファーガスの言い分では、エリッサは昔から素直じゃなくて恋心を誰かに明かすタイプじゃなかったということだ。プライドが高くて負けず嫌いな彼女は恋情を悟られると負けたような気になるんだそうだ。それは分かる。納得できる。だが俺への態度は素直になれないせいじゃないだろう。単に、恋でも何でもないだけだ。
好きな女に、この冷淡なまでに平静さを保つ理性的な女に、俺を理由にバカなことやらかしてほしいと思うんだ。俺が好きだというだけで心を乱してほしい。年老いた熟年夫婦じゃないんだ、俺は彼女への初恋を自覚したばかりの若者なんだ。……老熟した愛もいいけど、その前にもっと熱い段階を経験したいじゃないか。
もし本当にエリッサが俺に恋してるならどうしてもそれを暴きたい。見せてほしい。そう言ったら賢明なる義兄上は、「そりゃよっぽどの極限状態にならなきゃ厳しいな」と笑った。俺の妻の意地っ張りはどうやら筋金入りらしい。
「お前が俺に心ときめかせることってあるのか?」
即答で「ない」ってのだけはやめてほしい、せめて考えるそぶりくらい見せてくれ、そんな俺のいじましい願いが通じたのかエリッサは腕を組んで真剣に考え込んだ。その唇がどう動くのか固唾を飲んで見守る。
「私好みじゃないってのはむしろあなたの美点の表れだと思うけど。それ以外となると? ……そうだな。肌の感触はとても好きだ」
「………………はっ?」
一瞬なにを言われたのかよく分からなかったが、勘違いでなければとんでもなく際どい発言があった。跳び跳ねた俺の心臓を容赦なく握り潰すみたいにエリッサは続けた。
「あなたに抱かれているとそれだけで腰が抜けたような感じになる。今までにそんな経験はない。たぶん、よっぽど体の相性がいいんじゃないかな?」
今までにってどれくらいの実例を参照してるのか知りたいような死んでも知りたくないような、いやいや騙されるな女は相手を喜ばせるために何にでも「こんなの初めて!」って言うんだって誰かが言ってたぞ。そうだオグレンから聞いたんだ。この助言は信用しなくていいな。
体の相性がいいってそれはつまり、つまり、そ、それは……。
確かに、女って触ってるだけでこんなに感じるもんなのかと驚いたことはあるし実際それについて聞いて殴られそうになったりもしたが、きっと彼女なりの優しさというか俺を気遣っての演技も込みでというか、はっきり言って俺にはテクニックなんてもんないし彼女が初めての相手だし他に経験するつもりもないし、つまり、言うと殺されそうだから言わないが、エリッサが特別に敏感なんだろうと思ってた。
でも考えてみれば俺の方にも言えることだ。彼女の言葉の意味が何となく理解できる。エリッサを抱き締めているとそれだけで溶け出しそうなほど気持ちがいい。充足感に満たされつつ渇望してもいる。抱き合えば恰かも同一の存在に戻ったかのように違和感がない。彼女に触れるのは自分を取り戻す行為に感じられた。まるでそのために生まれてきたみたいな気分になる。
最初こそ何がなんだか分からなかった行為も数をこなすたびに少しずつ慣れてきてた。刺激に鈍感になるってわけじゃなく、その行為がどういうものか分かってきたんだ。たぶん、他の女を抱いてもあれほどには感じないと思う。彼女を抱けば抱くほど興奮するというか、何度でもやれそうというか、俺の心と体がエリッサを求める欲には本当に果てがなかった。
がむしゃらに求め合う内に二人ともメロメロになっている。俺に大した技巧がなくてもエリッサを悦ばせられてるならとんでもなくラッキーではあるが、何なの、体? 体なのか? 俺の取り柄ってそれだけ? まあ何もないよりずっといいけど。いや、充分じゃないか。
「つまり、お前は俺の体に欲求を覚えるってことだよな?」
「朝っぱらからなんだけど、あなたは女に対して強力な武器を持ってると思うよ。もっと大勢に行使して磨くべきだな」
うん、その客観的な評価はべつに要らないけどね。
人と人との間では心の繋がりだけが尊くて、肉体関係なんてものは軽薄で空虚なものだと教えられて生きてきた。それを知らなかったからだ。誰かと繋がることの喜びを、燃え上がるような、生きてる証の実感を。エリッサに触れて以来それまでの価値観は引っくり返された。心だけでいいなんてどうして言える? 肉体だって彼女を構成する重大な要素だ。
「もうちょっと突っ込んで言うと、お前は俺に抱かれるのが好きってこと?」
「あなたは経験がないからもっと優位に立てると思ってた」
こんな翻弄されるなんて予定外だと素っ気なく言うエリッサの耳がほんのりと赤い。ああ、もっと夜更けに聞けばよかった。これから謁見だってのに頭の中だけ夜になっちまった。着替えだけは済んでるが、まだ二人ともベッドの上だし。
「……よし、謁見は遅らせよう。王は多忙だからな。そういうこともある」
両手でエリッサの腰を掴んで抱き寄せると一瞬だけ緊張が走り、それを誤魔化すように彼女は目を細めて薄く笑った。左手で俺の胸を押し退けながら右手は誘うように太股を撫でる。流されまいと身構えてるのを必死に隠すため妖艶に振る舞って見せてるんだ。その意地が可愛くてますます興奮する。
「夜まで我慢すれば後がもっと楽しくなる」
「あ〜〜、ほんと誘惑が上手だな?」
でも一理ある。お楽しみを取っておけば公務もさほど憂鬱なものではなくなるだろう。気もそぞろになりそうって欠点はあるが。揺れる心を勘案しながら、ふと思い出した。
「ちょっと待てよ、お前今日の昼から何日か西方丘陵に出かけるんじゃなかったっけ」
「残念、覚えてた?」
「おい!」
ここまで来て数日ほったらかしってそれはもう焦らしとかお預けを通り越してるだろう。危うく騙されるところだった。
彼女の背中に腕を回して全身を密着させる。エリッサはなんとかして俺から逃れようと身を捩ったが大した抵抗じゃなかった。本気で嫌ならどうとでもできるだろうに、内心は流されたがっているのを肌で感じた。
「仕事に集中できないから、駄目だって、」
「そいつはいいね。お前もたまには俺のことで頭一杯になれよ」
「アリスター!」
だんだん焦り始める声に笑いながら口づける。それだけで彼女の抵抗が弱まっていく。本当のところ抱き締めているだけでも心は充分に満たされた。俺の腕の中に彼女がいる。それだけでいい。だが理性的な満足じゃ興奮を鎮めきれないのが恋ってもんだ。
他の女なんかいらない。他の女なんていないんだ。俺にはこいつだけ。俺が欲しいのは、味わい尽くしたいのは彼女だけだ。死んでも他の誰かを求めはしない。もう何度その確信を抱いてきただろうか。そしてエリッサにとっても俺だけであるべきだ。