春を待つ街
明日エリッサがデネリムに帰ってくる。アマランシン伯爵の地位は彼女のものとして、ひとまず伯爵領の統治については新任の家宰に任せるらしい。彼は率直で軍人気質で政治向きじゃないからアマランシンの独立心を削ぐにはちょうどいいと手紙に書いてあった。
なんというか、人がたくさんいるってのはすごいことだなと改めて思う。アマランシンは豊かだ。付きっきりで面倒見なくても離れたところからちょっと手助けしてやれば自力でやっていけるんだ。彼女に言わせれば、だからこそしっかり掌握しておかなければならないそうだが。
まあそんなことはどうでもいい、とにかく明日エリッサがようやく帰ってくる。朝からそのことで頭が一杯だった。会うやつ皆にだらしない顔するなと笑われ呆れられ叱られて忙しかったけどべつにいいさ。何て言っても明日はエリッサが帰ってくるんだからな、と開き直ってニタニタしながら寝室の扉を開ける。
エリッサがいた。誰もいない部屋に立ち尽くして虚ろな目でじっと壁を見つめていた。
「……えっ!?」
なんでここに、明日じゃなかったのか、何やってんだ、せっかくなら城門まで迎えに行きたかった、いやもちろん再会の予定が早まったのは嬉しいけど。ちょっと待てどうも混乱してるな。
「えっ、と、とりあえず、おかえり。大変な仕事だったな、お疲れさん」
無事で嬉しいとか寂しかったとか言おうと思ってた言葉はいろいろあるんだが、急すぎて頭が追いつかなかった。俺に気づいた彼女は仏頂面でつかつかと歩み寄ってくる。な、何? なんか怒ってるのか? 心当たりは、結構たくさんあるなぁ……。
俺の真正面までやって来たエリッサはくにゃりと眉を下げて情けない顔で俺を見た。彼女らしくもない弱々しい声で俺の名を呼ぶ。何があったのやら分からないが、かなり重症だ。本当に本気で参っていてしかもそれを隠す余裕がないらしい。動揺で心臓が激しく脈打った。
「アマランシンで何かあったのか?」
「……違う」
彼女の瞳がじわりと潤む。表情が泣きそうに歪んで、もう耐えられないとでも言うような顔をしたエリッサに抱きつかれた。
「ええっ!? 本当にどうしたんだお前、変だぞ!」
妻に抱きつかれて変だぞってのも自分で言って悲しいものがあるけど、プライドの高い彼女が弱って俺に縋るなんて普段なら絶対あり得ないことだ。
俺の首に両腕を回して必死にしがみつき、エリッサはすんすんと泣きじゃくる子供みたいに鼻を鳴らした。彼女の腰を抱いて震える背中をあやすように撫でる。正直、二ヶ月近くも禁欲状態だったところへ不意打ちでこう柔らかい体に密着されると俺もいろいろと耐えられないんだけど。それにしてもこいつ、ちょっと痩せたな。ダークスポーンが関わると一刻も早く事態を終わらせようと躍起になって何日も飲まず食わずで仕事に没頭しちゃうから心配で仕方ない。
そんな俺の煩悶もどこ吹く風、エリッサは俺の耳元で小さく囁いた。
「犬を飼いたい」
ちょっとの間、呆けていた気がする。
「え、あ、ああ。犬?」
「犬……」
なおも俺に抱きついたままエリッサは鼻を鳴らして体を擦り寄せてくる。に、匂いを嗅ぐな、匂いを!
エリッサは、生まれて以来、家族を失った時にさえずっと一緒だった犬と離れて心身が不安定になっている。王宮にいればそれでも犬舎のマバリたちに心を慰めてもらうことができたが、ダークスポーンの襲撃を受けていたアマランシンではそうもいかなかった。つまり彼女が参ってる理由も俺と同じく二ヶ月の禁欲生活のせいってわけだ。
まったくエリッサの犬好きっぷりときたらフェレルデン人であることを差っ引いても度を越してるというか、俺に会いたかったとかよりまず真っ先に犬が恋しいって何なんだ、……とは思いつつ。
しがみつく腕を緩め、キスしそうな至近距離で俺を見つめる彼女は、頬を赤らめうっとりしている。もはや恍惚と言ってもいい表情を浮かべたまま。
「アリスター、いい匂いがする……」
その、そ、そんな顔で言われたらドキドキしちゃうだろ。でも夜も更けてきたし、一日の職務も終わりだし、何だったら今夜はちゃんと体を洗ってからベッドに入るけどそうするとエリッサはこんなに懐かないと気づいて落ち込んだ。
旅の間は無遠慮な仲間たちに犬臭い犬臭いと言われたし、エリッサにも言われた俺だが、彼女だけは紛うことなき誉め言葉のつもりで言ってたようだ。
最近になって知ったことだがエリッサはどうやら俺が犬に育てられたって話を信じてたらしい。イーモン伯爵に引き取られてからはレッドクリフ城のマバリ犬舎で育ったと思っていたことがふとした会話の中から判明した。そんなわけないだろ。どうして犬のこととなるとそんなに盲目的で非常識なんだ。
何が悲しくて犬と張り合わなきゃならないのか、俺は犬の代わりかよ、と思えば人として虚しいところもなくはないが、あなたの匂いが好きだの安心するだの言われて悪い気がしないのも事実ではある。風呂に入ると不機嫌になるのはやめてほしいけど。
「犬がほしい。犬を飼いたい」
「あー、でもまあ、犬ならなんでもいいってわけじゃないんだよなぁ?」
「……」
ぐずぐずと言葉にならない呻き声を漏らしながらエリッサはまたぎゅっと俺にしがみついてきた。犬を飼わない限り悶々とした彼女に懐いてもらえるなら俺としては大歓迎だけどな。それでも、彼女にとってあいつがどんなに大切な相棒かはよく分かってるつもりだし……。
俺たちの仲間だった勇敢なマバリは随分と前にデネリムを去っていた。エリッサの犬だし王宮に残るのかと思ってたんだが、ファーガスの提案で子供を残すため故郷のハイエヴァーに帰ったのだ。
あの勇猛さは確かに次代に残すべきものだろう。幾度となくダークスポーンの血を浴びたがまだまだ元気だし、たぶん汚れへの耐性も強い貴重なマバリだ。特にブライトの被害が大きかった西方丘陵や南方地方で引く手あまた、ご主人様を差し置いてもう何頭の妻と子がいるやら。十年後にはフェレルデン中のマバリにあいつの血が流れてるんじゃないかという有り様だった。
「よし、じゃあ帰還のお祝いと、伯爵領を救った褒美だ。一緒にハイエヴァーに行って仔犬を探すとしよう」
俺がそう言うとエリッサは遠慮がちに、でも期待に満ちた瞳で見上げてきた。自分で何でも手に入れられるだけにおねだりってのをしない彼女がそれを覚えたら俺は不味いことになるなと思う。いや、むしろそれこそが幸せか? 少しくらい彼女からのお願いに煩わされてみたい気持ちもあった。
また冬がくる。アマランシンでの騒動も片づいたし、寒さが厳しくなる前にちょっとしたお楽しみがあってもいいだろう。もちろん、俺にとっても。自分の贈り物で彼女の綻ぶような笑顔がみれたら、そんなに幸せなことはないだろう。