斜に列べる裸態



 不落のドラコン砦に一人で……いや一人と一匹で侵入している。確かに無謀だ。自分で選んだこととはいえ早まった決断だとも思う。
 呑気そうな犬の顔を見てると多少は緊張がほぐれるが、俺の提案に驚愕を通り越して茫然としたイーモン伯爵の顔やアノーラの呆れ顔を思い出すとこれがどんなに無謀な計画かを考えずにいられない。
 イーモン伯爵には他の仲間に任せろと言われた。確かにそうするべきだったんだろう。
 俺が王位継承者候補として担ぎ出されているのを抜きにしても、根本的にこういう仕事に向いてない自覚はあるからな。
 たぶん、レリアナやゼブランに任せた方がよかったんだ。彼らは隠密行動も、ハッタリかまして敵を欺くのも手慣れてて、それはエリッサも同じだから手早く静かに彼女と合流して三人で脱出して……俺がやるよりずっとうまくいったに違いない。
 でもダメだった。エリッサが誰かに救出されるまで座して待っているなんて不可能だ。

「さて、お前のご主人様はどこかな?」
 ワンと一声鳴いて悠々と歩き出す。まるで凱旋パレードだな。焦って走り出せば怪しまれると分かってるのか、俺たちが何をしに来たのかちゃんと理解しているようだ。
 犬の鼻ならだだっ広い砦の中からエリッサの居場所を嗅ぎ当てられる。彼らの絆は疑うべくもない。彼女を探すのに最良のパートナーと言える。
 結局どうしたってこの行為が無謀なことには変わりなく、それなら非常識ではあっても俺の選択は間違ってないはずだ。実際、砦の精鋭兵たちを相手にするにもマバリは心強い相棒だ。
 エリッサを目指して歩みを進めた。苦難に慣れすぎたせいか、妙な順調さが怖くなる。妨げるものがないのは得るものもないせいじゃないかと疑ってしまいそうだ。

 俺が内心に抱える不安が反響するかのように、地下牢では悲鳴が飛び交っている。そこで犬がふと足を止めた。
 囚人が拷問されているらしい。痛めつけている相手がフェレルデン人だとロゲインは分かってるのか? こんなことをしたって何にもならないだろうに。
 苦痛に泣き叫ぶ声が耳障りだ。この中にエリッサがいるかと思うと嫌な汗が背筋を伝う。
「あいつは……お、おいどこ行くんだ?」
 壁のそばで吠えたてている犬のもとに駆け寄ると、意味ありげに置かれた箱にエリッサの着けていた武具が押し込まれているのを見つけた。
 月桂樹の葉の紋章。あいつが肌身離さず持ち歩いていたハイエヴァーの盾と、クーズランド一族の剣がある。なぜこんなところに? どうして、まるでもう用を為さないかのように無頓着に放り出されて……。
 息が止まりそうだった。エリッサがこれを手放すはずがない。彼女は死ぬまでこれを手放さない。……死ぬまでは。まさか、いや、有り得ない。
 絶望に目が眩みかけた瞬間、犬に突き飛ばされて壁で頭をぶつけた。
「いっ、てぇ!! お、お前、小突くにしたってもうちょっと優し、く」
 甲高い鳴き声が激しく俺を呼ぶ。犬の背中を目で追いかけ、やがて追い越して、足が勝手に走り出していた。あいつの向かう先に彼女がいた。
「エリッサ!!」

「……アリスター、普通は鍵を持って来るんじゃないか?」
「そ、それは仕方ないだろ? 看守の懐に手を突っ込んでる余裕がなかったんだよ、誰かさんが敵に投降なんかしたせいで焦ってたからな!」
「ごめん」
「えっ……い、いや、謝るなよ。俺が悪かった」
 殊勝な態度をとられると困る。エリッサが捕まったということで頭がいっぱいで、牢をどうやって開けるかなんて考えもしなかった。いざとなれば力任せにぶち破ってしまえばいいかと……いや、本当に何も考えてなかったのは事実だ。
 彼女が自力で解錠できたからよかったものの、俺の頭はやっぱり肝心な時に職務放棄してくれやがる。
「とにかく、無事でよかった……怪我もなさそうだな」
「拷問部屋が定員数に達してたんだろう。私はまだ順番待ちだった」
「それだけ口が回るなら大丈夫か」
 こびりついていた一瞬の恐怖が、普段と変わりない彼女の声を聞いて掻き消されていった。離れて再確認した。俺はエリッサがいないとダメだ。彼女を失うのは俺が死ぬのと同じなんだ。

 牢のすぐそば、階段を降りたところにある拷問部屋から異様な匂いが立ち上る。それをわざと感じさせ、囚人に恐怖を与える目的なんだろう。
 はしゃぎ回る犬がじゃれつくのもお構いなしに、鎧をつけ直しながらエリッサは死体の山をぼんやり眺めている。彼女があそこに加わらなかったことを感謝しなくちゃいけない。
「あなたが助けにくるとは思わなかったな」
「え? お、おいおい。信用ないなあ、俺って」
「そういう意味じゃない。ただ、誰かが来るなんて思わなかったんだ……私は……」
「大丈夫か、なんかぼーっとして……、ああ! そうだ、こいつも返しとくよ」
 ハイエヴァーの剣と盾を差し出すとエリッサはようやくこっちを向いた。そして虚ろな瞳のままそれを眺め、顔を上げる。憔悴してるわけじゃないが、やけに不安を掻き立てられる表情だ。
「受け取らない、のか? あっ、重いなら砦を出るまで俺が預かっておくけど」
「あなたが持っててくれないか。預かるんじゃなく、この先も」
「えっ? で、でも……いいのか?」
「私には使う資格がない」
「なぜそんなことを……」
 クーズランドは彼女のすべてだ。それがエリッサの世界だ。手放そうとするなんて、おかしいじゃないか。

 困惑する俺から顔を背け、エリッサは再び積み上げられた死体を見つめる。拷問されたわけじゃないらしいし、騎士カウスリエンに捕らえられた時も無抵抗だったと聞いた。
 なのに今の彼女は、まるで致命傷を負ってるみたいに見えた。
「そこにハイエヴァーの人間がいる」
「ん、……えっ?」
 反射的に「それなら一緒に脱出を」と考えたが、エリッサはどう見ても物言わぬ死体を見据えたまま言っている。彼女の言う“ハイエヴァーの人間”は生きてるものを指してるんじゃないだろう。
「マロルはオスタガーに発つ兵士のために夜更けまで祈っていた。私が母さんと駆け込んだ時、礼拝堂にはいなかった。もう捕まっていたのかもしれない」
 誰の……“どれ”のことを言っているのかは分からなかった。だが、エリッサは襲撃の時の話をしている。そう理解した瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。彼女がこれまで俺にその話をしたことはない。
 落ち着きたくて犬の姿を探すと、あいつはエリッサの足元に蹲っていた。

「もし私が逃げなければ、マロルはここにいなかったかもしれない」
「それは……言うな」
 一人で何ができる。逃げなければエリッサも一緒に死んでいた、それだけだ。俺がオスタガーでダンカンの隣にいたとして、事態が何も変わらなかったであろうことと同様に。
「ハウ伯爵と交渉する選択肢もあった。私が人質となってハイエヴァーを明け渡し、彼らを救うこともできた」
「残ったとしても、きっとそんなことは望まなかっただろ? お前は……生きて、伯爵に復讐した。正義を果たしたんだ」
「では私を逃がすために死んだ彼らに正義はなかったと?」
「そういうわけじゃ……」
「我々はハウに完敗していた。降伏していれば彼はさほどの血を流さず公爵領を手に入れられた。私がいなかったから、皆殺しにして無理やり奪うしかなかった」
 あの死体は既に腐敗が始まっているようだ。彼女が牢に入れられる前に死んでいたのだろう。一体、いつ気づいたのか。どれくらいの時間あれを眺めていたのか。
「……これが正義? 私がここにいるのは運命か?」

 彼女は冷たく笑っていた。オスタガーで出会った頃のような微笑みだ。キャンプで見せる不機嫌で無愛想な顔の方がよっぽど親しみやすく感じた。
 エリッサは好意じゃなく憎悪を圧し殺すために、綺麗に笑うんだ。……そんなことを知りたくはなかったが。
 彼女は徐に右腕をあげ、積まれた死体のひとつを指さした。体格のいい男だ。生きていた時は立派な戦士だっただろう。
「ギルモアはオスタガーに行くはずだった」
「え?」
「私ではなく彼が、グレイ・ウォーデンの入団試験を受ける予定だった」
 ダンカンはエリッサを勧誘しにハイエヴァーへ行ったんじゃないのか? いや、そうだ。忘れていたが、彼はハイエヴァーの騎士に会ってくると言ったんだ。公爵の推薦があるから穏便に勧誘できるはずだと。
 ハイエヴァーの戦士は誇り高く勇猛だ。死の瞬間まで戦いをやめることはない。あそこで死んでいる男が……本当は、最後の新兵になるはずだったのか?
 居候人と呼ばれることはなくなっても、フェレルデンにおいてグレイ・ウォーデンは未だに弱者だ。貴族のご令嬢を、本人の意に背いてまで連れていくことなんかできない。ましてや他にも候補者がいたのなら。
「あの男が私を城から引きずり出した時、まだギルモアは生きていた。彼を連れて行くこともできたはずだ。私ではなく」
 心臓が早鐘を打つ。彼女の声は氷柱よりも鋭く冷たかった。あの男と、嫌悪も露に呼ばれる人が、俺の大事な人の面影と重ならない。重ねられない。

 ダンカンは感情で新兵を選んだりしない。その騎士が新兵候補に選ばれたのなら、エリッサのことは別にしても彼の資質に満足していたはずだ。
 でもエリッサの方がより優れていた。ダンカンはきっと、本当なら最初からエリッサを連れて行きたかっただろう。徴兵を阻んでいたのはクーズランドの名だ。
 ……ああ、否定できない。彼女の家族に降りかかった不幸はグレイ・ウォーデンにとって好都合だった。エリッサの大切な人たちの破滅は、運命にとって好都合だった。
「で、でも……望んだことじゃない。ダンカンだって喜んでお前を連れていったわけじゃないはずだ」
「だから何だ? 彼の悲しみにどれほどの価値が? 私に同情しろとでも言うのか?」
「違う! 俺は……、俺は……」
 続く言葉が何もない。否定したいのに、エリッサの憎しみはどう考えても……まったく正当なものだった。

 グレイ・ウォーデンはブライトに立ち向かうためなら何でもする。言葉では知っていた。非道なこともする集団だと、正義だけの存在ではないと分かっていた。
 だが彼らが、俺の一番大事な女を傷つけたとなれば、ウォーデンが彼女を壊したのだとしたら、俺は一体どうしたらいいんだ? かつての仲間を憎めというのか。でなければ、彼女を愛することをやめろと?
「……すまない、アリスター。傷つく必要はない。あなたを責めてるわけじゃないんだから」
「傷つくよ。お前に関しては、俺に無関係なことなんてない」
 少なくとも、俺にとっては。
 彼女に出会えた運命に感謝したいのに、それは彼女の心を壊した礫でもあるんだ。
「私は皆の死体の上に立っている。この命を決して無駄にはしない」
 お前は両親を破滅させたかと問う精霊に彼女は答えなかった。その胸のうちが知りたいなんて、考えるまでもなかったのに。彼女の運命は最も大切な人たちの犠牲のうえに成り立っている。
 俺は、彼女がいなければここまで来られなかった。彼女がいなければ為し遂げられなかった。俺にはエリッサが必要だ。でも彼女は、この運命を憎んでいる。

「私はウォーデンじゃない。ウォーデンになどならない。私は、故郷を守るためなら何でもする。そのためにしか生きるつもりはない」
「でもそれは同じことだろう? ブライトはこの国の脅威だ」
「違うな。ウォーデンの目的は国を守ることじゃない。ブライトを退けても、そこに愛するものが残っていなければ意味がないんだ」
 エリッサがグレイ・ウォーデンを憎むとしても、俺がどんなに彼女を愛してるとしても、それでもダンカンが大切だ。エリッサにとって彼が何者であっても、俺にとっては家族なんだ。
 なのに、その想いさえも辛かった。彼女が憎しみに囚われているのと同じく、俺はこの悲しみを手放すことができない。
「……出よう。立ち止まりすぎた」
「あ、ああ……」
 何の未練もなく立ち去る彼女の背中をすぐには追いかけられなかった。立ち尽くす俺の手を犬がぺろりと舐め、急かすように一声鳴いた。
 よく考えたら彼女は「助けにきてくれてありがとう」なんて言わなかったな。ずっとそうだったんだろう。イシャルの塔にフレメスが飛んできた時だって、ダンカンが城塞で彼女の手をとった時だって、助けなど望んでいなかった。
 俺に救いの手を伸べた運命は、彼女から奪われたものだった。



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