ろうたがりて瑪瑙
自惚れて気を抜いてはいけないと分かっているのだけれど、一人に戻ってみるとやはり凡人が束になるよりは私の方が強いと思う。仲間のいない多勢に無勢の戦闘でも、大した困難ではなかった。
喉を掻き切って素早く殺し、返り血で手が滑らないようやつらの衣服で拭う。単純作業の繰り返しだ。近づいてくるのはすべて敵なのだから何を考える必要もない。私自身がクーズランドの剣となり、あらゆるものを切り伏せてゆくだけだ。なんと簡単なことか。
ただひたすら前を見据えて突き進む。衛兵が何人いようと問題ではなかった。身を隠すことも、息を潜めることも、敵の隙を狙うことさえしない、やつらの真ん中に躍り出して無心に剣を振るうのだ。
私に暗殺術を、人殺しの方法を教えてくれた人が見た境地に達しつつある。戦時下で彼も同じ状況に陥ったという話を聞いた。雪の降り頻る川沿いで敵に囲まれ孤立無援で戦った時、恐怖が去った後に訪れた静寂は彼の思考を遮断して“作業”に没頭させた。
ただ人を殺すためだけに動く。金のため、恋人のため、正義のため、理由があって戦う者など純粋な殺意の塊である私の敵ではなかった。もう“これ”は人間じゃない。生きる意味も理由も求めない獣だ。体が勝手に殺戮を繰り広げてゆく。
変装を解いて地下牢に入った当初は相棒がいないのを不安に感じたが、そんな感情もすぐに消え失せた。新任の衛兵がマバリを連れているのも不自然だし、彼を置いてきたからには邸宅の皆が私の不在に気づくのも遅くなるはずだ。
一人はいい。一人がいい。失敗するかもしれない? それがどうした。望むところじゃないか。本当は、押しつけられた偽の使命になど振り回されてさえいなければ、私はずっと前にこうしているはずだったのだから。
だけど扉を開けて彼の姿を目にした瞬間、心を止めていられるのもここまでだと思い知った。時計の針が動き出すように心臓がことりと脈を打つ。彼は私を見て皮肉っぽく笑った。
「見ろ。チビで癇癪持ちのブライスの娘が、未だに玩具の鎧で大人の真似事をしている」
彼の声、彼の視線が私に感情を取り戻してくれる。怒りも憎しみも、私を生かそうとする力のすべては彼から与えられたものだった。ある意味でハウ伯爵がいなければ今の私は存在し得なかっただろう。彼の中に真実を求めるためだけに生き足掻いてきたんだ。
ハウの周囲には剣士と魔道士が二人ずつ控えている。ちょっと厄介かもしれない。ここまでは魔道士がいても敵の戦士を盾にして魔法をかわし、強引に突破してきたけれど、二人の魔道士に各々離れたところから挟み撃ちされたら避けきれない可能性がある。
まあいい、なんとかなるだろう。失敗すれば死ぬかもしれないが、死んでも構わないんだ。私には怖いものなど一つもない。
私の肩越しに部屋の外を見つめ、あとに続く仲間がいないのを確認するとハウは呆れたような顔で呟いた。
「この馬鹿娘。一人で来たのか」
「あなたが集めた人垣も身を守る役には立たなかったみたいだね、おじさま」
「殺されるために戻ってきたようなものだ。いつからそうも無謀になった?」
あなたに未来を奪われた夜から。あなただけが生きる理由になった朝から。聞くまでもないだろうに、彼が本当に分かっていないのだとしたら悲しいことだ。私はそれに答えず黙って剣を抜き、ハイエヴァーの盾を構えた。
ハウは前面に描かれたクーズランドの紋章を見つめ、無感動に私の目へと視線を移した。
「お前は両親にそっくりだな。その瞳、立ち居振舞い、美しく気高い心。昔を思い出すよ。彼らが私の友人であった頃を」
「友人だと思っていたのに、どうしてあんなことを? ハイエヴァーが欲しかったなら他に方法もあったはずだ」
「他の方法などない」
「でも……」
私はトーマスと結婚してもいいと思っていた。伯爵の娘になっても構わないと、言ってあったはずだ。どうせハイエヴァーは私のものだった。婚姻があれば殺戮など必要なかった。彼がそれを求めるなら私たちは一つになれたのに。
クーズランドとハウが結ばれて、誰しもが望む未来が待っているはずだった。だが彼は拒んだ。
「殺し合うしかなかったのか。今まで手を取り合ってきたのに。これからもそうすることは……できなかったの?」
「請い願って差し出した手にお情けで与えられた栄光など私のものとはいえない。本当に欲しければ自らの力で奪うしかないんだよ」
そんなのは人を信じていなさすぎる。だって家族なら、友人だったら、喜びを以て与えられたものを受け取るはずだ。自分を信じて託されたなら責任と誇りを持って、生涯かけてそれを守り抜こうとするものだ。
ハウを詰る言葉は飲み込んでしまった。だってきっと、彼はクーズランドのことなど家族とも友人とも思っていなかっただけだと言われてしまうだろうから。
私は彼が好きだった。あれほどまでに心を開ききっていたのに、交わした友情のすべてが嘘だったというのなら、私が手にした真実など塵芥にも劣る。二度と何も信じられない。
「それでどうする。抜いた剣を私に突き刺さないのか。あるいは、ハイエヴァーで行われるはずだった取引を始めてみようか?」
「取引……」
わざとらしいほどの賎しさを露にした彼の表情を見ていて、そういえばアノーラを救いに来たのだったと思い出した。女王の支援なくしてイーモン伯爵は諸侯会議を降せないだろう。取引か……。
「あなたは本気で女王を殺すつもりなのか?」
もし彼女が“グレイ・ウォーデン”を誘い出すための餌に過ぎないのであれば、アノーラは殺されずに済むだろう。ならば無理をして逃がす必要もないんじゃないか。会議には一人の勝者がいればいい。それがどっちだって私は気にしない。
ハウは煩わしげな溜め息を吐いた。彼はなぜ私を誘き出したのだろう。
「この期に及んでロゲイン公はアノーラを捨てようとなさらない」
「女王は捨てるには大きすぎる駒でしょう」
「アノーラは不要品だ。あの女は失敗したのだ。ケイランを戦場へ行かせた時点でな。あれの支持など得たところで、後ろに下がっていることを善しとしないに決まっている。昔からそうだ。主人を立てて影に控えるのを拒み、自分を見てもらいたがるのだ」
まるで奥方の話をする時みたいな顔ですねと皮肉っても彼は鼻で笑うだけだった。
ハウが本当に女王を殺そうとしているなら問題だ。私はなんとしても彼女を逃がさなければならなくなる。つまり、簡単に死んではいけないということだ。
「アノーラを殺してどうするつもりなんだ。ロゲインを王にするとでも? それともあなたが……」
「新たな王なら、お前の後ろにいるじゃないか」
思わず振り向いたが、もちろん私の後ろには誰もいない。なぜだろう、アリスターが追いかけてきたのかと思って肝が冷えた。開け放たれたままの扉の向こうに誰もいなくて安堵する。
彼が私を追ってくるはずないじゃないか。きっと今頃はイーモン伯爵らに宥められて大人しく待っているだろう。
……待っている、だろうか。私が戻ってくるのを。帰るべきなのか。彼のもとに。私を必要とする人が、まだ一人いる。その事実に青褪めた。
ハウはアリスターを王にしようとしている。そう疑ったこともあるけれど、それが事実だと知らされた今やはり衝撃は大きかった。
「そう、アノーラを殺せばロゲイン公は担ぐものをなくす。そしてフェレルデンは一つになる。マリクの息子が玉座につき、ロゲイン公が治める。閣下はあの青年と和解すべきだ」
「できると思うのか? グレイ・ウォーデンはアリスターにとって家族も同然だった。彼はロゲインを憎んでる。……親の仇みたいに」
ロゲインがアリスターに膝をつくなら最も善い形で内乱は終わる。フェレルデンは一丸となってブライトに立ち向かえるだろう。でも彼がロゲインの手を取るとは思えなかった。そうするに足る理由がないじゃないか。
どこまでもアリスターは私と違う。自分の心に嘘をつかずにいられるんだ。大義のためだからといって、彼自身が望まないのなら仇敵を許すことはしないに決まってる。
「だが彼にとってグレイ・ウォーデンは、お前以上の存在だったのか?」
「え……」
ハウの言葉は冷ややかに私の心臓を握った。
一緒にいたいと言った彼の言葉を思い出す。彼を王にするのなら、ただそれっぽっちの望みさえ踏みにじることになるのだと自覚してしまう。
だけど私はアリスターを知らない。アリスターは私を知らない。よくよく理解していると思っていた友人でさえ私を裏切ったのに、私は彼の愛を……信じられない。
アリスターは確かに私を唯一無二の存在のように感じているだろうけれど、それはグレイ・ウォーデンの喪失が前提にあるからこそだ。なくしたものを忘れないため私に縋っているだけだ。
私のためにロゲインを許してと言っても彼は果たして従うだろうか。ダンカンのためにロゲインを殺さねばと思うなら、彼はきっとそうするだろう。彼にとってグレイ・ウォーデンは、私以上の存在だ。
「お前にアサシンを差し向けたのは間違いだった。殺すのではなく捕らえるべきだった。そう思っていたが……私の手から逃れ、結局お前はアリスターに首輪をつけた。目的地へ辿り着くには時に回り道も必要ということだな」
剣を握ったままの私にハウの手が伸ばされた。私が歩み寄らない限りは決して届かぬ遠く離れたところから。ハウには私の手を取る意思がないのだ。
「戻っておいで。功績に報いてやる。アリスターが王位に就けばお前は彼の権力を手にすることになる」
「合法的に?」
「お前は彼の心を掴んだ。それを存分に使うがいい。彼はロゲイン公を許そうとしないかもしれない。だが、お前の命が懸かっているとしたら?」
私がここでハウに囚われれば、アリスターは和解に承諾するだろうか。私の命を楯にしたら、王冠を受け取ってロゲインと共にフェレルデンを守ってくれるだろうか。
グレイ・ウォーデンの使命はどうなる? 私が動けなくなればアリスターは死に物狂いでアーチデーモンに向かうはずじゃないか。だけど、今はリオーダンがいる。彼がブライトに立ち向かうとしたらアリスターはそこを離れても構わないはずだ。
お仕着せの使命に殉じなくてもいいのなら、彼は……いつか終わるその日まで、私と一緒にいるためだけに、本当に何でもしてくれるだろうか?
なんてこと。ハウの謀略は、まるで暗闇に射した一筋の光明だった。
私が拒まなかったというだけで至福を感じていた。ひたすらに純粋な彼の笑顔を思い出した。今まで誰にも報われず、自分のすべてを諦めて投げやりに生きてきた人のことを。彼がたった一つ望んだものが、よりにもよって私だということを。
私の存在は、泥塗れの人生で彼がやっと見つけた希望なのだということを。
「……できない。私は、私を信じる人を、裏切りたくない。そんなことはできない」
絞り出した弱音をハウは笑った。嘲笑ではなかった。昔のように優しげな微笑でもなかった。それは諦めと共に吐き出された小さな息だった。
「ほら見ろ。私がなぜあんなことをしたのか理解できるだろう? お前とは、違うからだ。本当に欲しければ奪うのだ。望ましい栄光は勝ち取るしかない。それだけが真実なのだ。戦いを避ける道などありはしないのさ。お前が私を許そうと、許すまいと」
時間を遡ることができたなら、私は彼を許せただろうか。ダンカンの手を振り払い、あの夜ハウと対峙したら、今と同じ気持ちにはならなかったんじゃないか。道が別たれたからこそ、ここへ到った。今さら何も変えられない。
「私は私らしく生きているだけだ。しかしクーズランドの気高さが私の存在を否定する。お前たちは私の生き方を罪だと責める。だから殺すんだよ、エリッサ」
私が私であるようにこれまでの人生を歩んできた。彼は彼であるように、私たちを裏切ったんだ。自分を偽ることなんてできない。道は始めから別れていた。なるべくしてそこへ辿り着いただけなんだ。
「さて、まだ無駄話を続けるか? 両親の死に様でも聞きたいかね?」
ハウが剣を抜く。二人ともこれ以上話すつもりなどなかった。
「いいえ、聞きたくありません。あなたが口を噤んでくだされば私は愚か者でいられるんだ」
「ならば黙っていてやろう。私の悪辣さに救われるがいい」
そうだろうとも。彼はきっと私を思いのままに支配するため、人質として私の両親を生かしているに違いない。父さんも母さんも、みんな、どこかで生かされているに違いない。ハウを黙らせればそんな悪夢に身を委ねることもできる。
悪夢であっても生きてゆくための何かが必要だ。私は帰らなければいけない。アリスターが、私を信じて待っているのだから。
「では始めようか、お嬢さん」
ただひたすら前を見据えて突き進む。じきに彼もそうして喪ったものの一つになる。憤るのも悲しむのも事が終わってからにしよう。