新しいもののみなもと



 短くてごわごわした毛、筋骨隆々の体、小さくて窪んだ目、可愛さからは程遠く低い声。そして何よりこの泥臭くて獣臭くて鼻につんとくる匂い。
愛玩に向かないマバリを戦闘中でもないのにそばに置く必要はまったくなかった。にもかかわらず無意味に犬と戯れている自分がネリアは不思議だった。
 ダークスポーンを相手に勇ましい戦いぶりを見せた戦士が、今は怠惰な小熊のように地面をごろごろ転がっている。それでこうも臭いんだなと静かに納得しながら犬の腹を掻いてやった。もっとふわふわして気持ちのいいものを想像していたのに、現実はまったく違った。それでも特に失望もしていない。
「なんだ、ちゃんと仲良くやってるじゃないか」
 声に振り返り、顔を上げた。どうにも首の痛そうなネリアの姿勢を気遣ってか、背の高いアリスターはすぐに彼女の隣にしゃがみ込んで視線を合わせた。
 彼はいつもごく自然に優しさを示した。ネリアに対しても、誰に対しても。そんなところも犬に似ている。彼らの愛情は言葉以外のところに現れた。
 一緒にいて何を得するわけでもないけれど、ただ単に、この空気が心地好いからそばにいたいのだ。

「そいつに名前つけてやらないのか?」
 コーカリ荒野を出てすぐのところで戦場から逃げ出したマバリを見つけ、その時にも似たような会話をしたと思い出す。ネリアは先を急いでいたこともあって犬の名前を考えなかった。
「犬と呼べば彼は自分のことだと理解してるみたいだ」
 それで事足りるならわざわざ名付ける必要もないように思えた。それにネリアは新しいことを考え出すのが苦手なのだ。
「まあ、こいつは気にしないと思うけどさ。でも俺だったら、自分の名前が欲しいところだなあ」
 冗談めかして肩を竦めたアリスターを見て、ネリアも神妙な顔をする。
「……それは、分かる」
 自分自身、「エルフ」だとか「メジャイ」だとか言われるよりは「ネリア」と名を呼ばれた方が嬉しい。親しい仲なら尚更だ。用を言いつけるだけなら名は必要ないが、彼は大切な仲間なのだから。
 アリスターのことを「人間」「テンプル騎士」などとは呼ばないように、犬にも彼自身の名があるべきかもしれない。誰かにそれを呼ばれてようやく自分自身になれるのだ。
「じゃあ、アリスターって呼んでもいいか?」
「……ん!? 俺?」
「こいつの顔を見てると君を思い出すから」
「ああ、はいはい。到底誉めてるようには聞こえないけど好意的に受け取っておくよ」
 俺ってそんなに犬臭いかなと鼻をひくつかせてみせるアリスターに大真面目な顔で頷くと、ネリアは再び犬の方に視線を移した。

 塔の外に出て、マバリ犬というものを初めて見た。それまでは本の中の絵でしかなかった存在だ。
 異民族区に住んでいた頃はもちろんこれらを飼うほど裕福な者は周囲にいなかったし、サークル・タワーの中で見る生き物といえばネズミとそれをとる猫と窓の外の鳥くらいで、つまりネリアは今まで動物にほとんど縁がなかったのだ。
 犬って、こういうものだったのかと感慨深かった。こんなに大きな生物は初めて見た。
 正直なところネリアは出会った当初このマバリが少し怖かった。見たこともないほど大きくて、何を考えているのかよく分からない無表情が身を竦めさせる。論理的な理由のない本能による恐怖だった。分からないこと自体が怖かったのだ。
 今こうして寝っ転がってじゃれつく姿を見ていると馬鹿みたいに思えた。何を考えているのかもなにも、おそらく何も考えていないし、その間抜け面はまったく無表情とは言えなかった。
 人間とか、魔法とか、テンプル騎士とか、犬とか戦争とか外の世界とか。知らないときには怖かったものが今は周囲に溢れていて、ネリアはそれらに親しみさえ感じている。存在が当たり前になってしまえば怖いことなど何もないのだ。
「……アリスター」
「わん!」
「お、」
 名を呼べば、犬の方が一足先に返事をして人間がムッとする。おかしなやりとりにネリアは思わず噴き出した。

 初めて見る大きなもの。人間、テンプル騎士、外の世界の人。彼のことが最初は怖かった。今は開かれていく世界の象徴、だからネリアはこれから共に行く相棒に、アリスターと名前をつけた。
 彼女にとって、一番大切な名前だから。



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