春風のように
くるりと軽やかなステップで後ろを向くと、カリアンは背中に差した剣を見せつけた。小柄なエルフの女性には少し大きすぎる人間用の長剣と、柄に誓いの言葉が彫られたウォーデンの短剣。肩越しにダンカンを振り返り、彼女は得意気に唇を吊り上げた。
「見覚えあるだろ?」
「……私の剣だな」
「あのオーガから取り戻してきてやったぞ」
偉そうに手を腰にあてて、フフンと鼻を鳴らしてまたこちらに向き直る。子供が手柄を自慢するような仕草につい笑ってしまう。本当は驚きが胸を衝くほど嬉しいのに、彼女がまるでなんでもないことのように話すから、これはあくまでも日常の延長だった。
日常……そんなものとはとっくに縁が切れたと思っていたのに。未だダンカンを繋ぐものがある。彼女がそれを覚えている。
「オスタガーへ行ったのか? ダークスポーンが溢れていただろう」
「奴らが呆けてる隙に、懐へ手を突っ込んで掠め取ってやったよ」
そう言いつつ首を掻き切る真似をしてカリアンは笑った。確かに、盗んだのは剣だけではないらしい。彼女はこれまでに一体どれだけダークスポーンの命を刈りとってきたのだろう。勇敢な彼女の母を思い出して誇らしいのと等しく、心配性の父親を気の毒にも思った。きっと今でも胃を痛めているに違いない。
だが、やはりそれ以上に喜びが胸を占めた。
「戦いも、盗みも……うまくなったようだ。偉いな」
「いっぱい練習したからな!」
町行く人とか、商人、衛兵、貴族、カリアンが標的となったものたちを指折り数えていく。そのうちに筆頭魔道士だとか騎士団長、公爵や女王の名まで挙がると愉快さ以上に呆れが勝ったけれど、かつて彼女の俊敏さを誉めて盗みの鍛練を奨励した手前、苦笑するほかなかった。
オスタガーで儀式の時を待つ間にさえ、彼女は思う存分その手癖の悪さを発揮していた。ダンカンという枷がなくなり解き放たれた時にはおそらく盛大に張り切ったのではないか。兵士に見咎められる程度では済まなかっただろうに。
もっとあの時に、見ておいてやればよかった。けれどきっと自分のことだから、褒めるばかりで彼女を叱ったりなどしなかったとも思う。
「もう少し叱っておくべきだったかな」
「あんたはバレなきゃいいって言ったじゃないか。バレてないぞ?」
むしろ誉めろと言いたげな顔がおかしくて、やっぱり笑ってしまった。
カリアンが剣を抜く。無意識に指が動いた。握りの形まで体に染みついている。その慣れ親しんだ柄を掴み、戦いたい、もう一度、願わくは強くなった彼女とともに。
それは愚かな願いだった。もう決して叶わない、あり得ないことなのだ。二人の間には深い断絶がある。ダンカンは死の境界を越えたのだから。
だが、いずれ彼女もこちらに来る。それが悲しい報せにならないのならもう一度……一緒に……そう、遊ぶこともできるのではないか。初めて会ったあの日のように無邪気な心で。
カリアンの目はいつかと同じようにキラキラと輝いていた。
「欲しい?」
「ああ……もちろん」
「でもあげない」
「それは困る。とても大切なものなんだ」
「もう私の剣だ」
「奪い取ることもできるぞ」
「私は武器を持って、あんたは丸腰なのに? “戦ったら一方的な展開になる”」
「試してみよう。“戦闘は得意な方だ”」
「ははっ、いいな! 今ならヴァレンドリエンに邪魔されないし」
今度は二人して笑う。もう懐かしい気さえする、出会った日に交わした言葉はあの時と違って、ただただ気持ちを穏やかにした。
そういえば彼女はずっと笑っていた。花嫁衣装を血に染めて、こんなもの洗えば落ちると平気な顔で力強い笑みを見せた。周囲の誰も彼もを励まそうといつも元気でいた。
ただデネリムを発ち戦場への旅路を並んで歩いている時だけ、グレイ・ウォーデンになればもう家には戻れないと知って初めて、彼女の表情が僅かに曇ったのを覚えている。
――……これも手放さなきゃいけないのかなあ。
愚痴にも弱音にもならない、ダンカンだけに届いたほんの小さな嘆きの声。
あのドレスはどうなったのだろうか。独り立ちする少女を想う者たちが糸一本にまで祈りを籠めて縫い上げた、美しい婚礼の装束だ。無茶をして、何度戦っても、彼女はドレスに裂け目ひとつ作らなかった。血に濡れてさえ気高く彼女の強さを誇らしげに飾り立てていた。
たぶんテントに残して行ってしまったのだろう。彼女もダンカンも戻ってくるはずだった、ともに勝利の美酒を味わうはずだった。そうしようと思っていたのに叶わないのはままあることだ。でも……。
美しく無垢なあのドレスは、カリアンそのものだった。目の前に立ち彼女は変わらない笑みを見せる。大切なものは何も失われていないと証明するかのごとく。
オスタガーが雪に埋もれ、何もかも真白く塗り潰されていくように、フェレルデンは滅びるのだと思っていた。ダンカンの使命も無残に潰えるのだと。
戦場にはすべてのウォーデンが集っていたのだ。ダークスポーンの包囲を抜けて誰が生き残れるのか? 誰がブライトを止められるというのか? 死の際にダンカンは絶望しかけた。だが、最期に見たのはイシャルの塔に明々と輝く信号灯だった。
鼓動が弱まるのを感じ、息もできなくなりながら、朦朧とした頭でまだ戦えると信じられたのは、あの光が見えたから。
本当なら自分が導いてやるべきだった未熟な彼女に、世界を懸けた重い希望を託すなど身勝手が過ぎる。それでもあの灯りに願ってしまったのだ。
どうか生きて、もう一度、この世界に春を。
やわらかな陽ざしのようにカリアンが笑う。彼女ならきっと重荷だとは思わないだろう。
フロストバックの雪も解け、山は緑に色づいていた。これから岩と火の世界へ降りるのだと思うと、カリアンにはこの春がやけに愛しく思えた。戦いが長引けば異民族区の大樹を懐かしむこともあるかもしれない、その時に後悔したくないから、美しい景色を目に焼きつけておくことにした。
自らが守り抜いたものを。彼が守ろうとしていたものを。彼に、託されたすべてを。
「……ダンカン、前にもあんたの夢を見たよ。あのときはうそ寒い悪夢だったけど、たとえ幻でも会えて嬉しかったんだ」
そして今日は幸せな夢だった。地底回廊へ赴く朝に相応しい。暗闇で孤独に果てることになったとしても、行く先には彼らがいるのだと思えば楽しみでさえあった。
両手に馴染んだ二対の剣を土産にオーズマーの門をくぐる。死にに行くけれど、決して絶望してはいない。雪に埋もれて散った者たちに、彼らが味わえなかった春を届けに行くのだ。
デネリムを発った日と同じように、カリアンは軽やかに足を踏み出した。