悪夢のない世界でおやすみなさい



 目が悪くなると知りつつも枕元に点した灯りだけで本を読む癖が治らない。それはブライトが終わってから身についた習慣だった。夜にしか時間がないせいだ。
 それでなくてもアーチデーモンを殺して以来どうも体を気遣おうという気持ちがなくなっている。なるべく早くに改めておかないといけないな。
 もう寝ようと本を閉じ、仰向けになったところで派手な音を立てて部屋の扉が開かれた。入ってきた本人も思いのほか大きな音に驚いたようで、閉める時は音がしない。
 何事かと起き上がってみたら、不機嫌まるだしの顔をしてアリスターが立っていた。
「眠い……」
「えっ?」
「眠い……」
 その仏頂面はどうしたと尋ねるより早く大股に歩み寄ってきた彼は、私に覆い被さるようにしてベッドに倒れ込んだ。私の腰に腕を回して抱きつき、腹に顔を押しつける。息苦しくないんだろうか。私は苦しい。
「眠い……」
「アリスター、重いんだけど」
「眠い……」
「それはもう分かった」
 なにやら様子がおかしいな。確かに多忙ではあるが、ちゃんと休息はとらせているし、体力自慢の彼だからまだそこまで疲労困憊ではないはずだ。
 今日は巡察にも出かけていない。ごく簡単な仕事だった。王宮に招いた貴族たちと少し話すだけの……、ああそうか。また何か嫌味や皮肉や侮蔑の言葉や、それに類するものをありったけぶつけられたのか。

 不幸にもアリスターは侮蔑に慣れている。他人から向けられる悪意を敏感に嗅ぎとって、無視したりはぐらかしたり身を守る方法も心得ている。
 だけどアリスターが今まで接してきたのは直接的に喧嘩をふっかけてくるような、ある意味では誠実な連中だった。ここにそんな素直な人間はいない。未知の悪辣さに触れて彼の心は疲弊していた。
 貴族は新王を見下している。下賤な素性、王宮の外で育ち、この場所のことなど何も知らない馬鹿だと思っている。でも彼らはその本心を隠すんだ。
 アリスターは自分たちの悪意に微塵も気づいていないと思い込み、親しげな友人面で近寄っては裏側でせせら笑っている。何も気づかないふりをしたままアリスターは毒を溜め込んでゆく。

 彼は、隣人が信用ならないという状況に慣れていない。
「……」
「私の上で寝るつもりか?」
「……眠い」
 それは別に構わないんだけど布団を被りたいな。掛け布は私の足とアリスターの体に挟まれてずり落ち、用を為していない。このままだと上半身が冷えるし彼も風邪を……引かないかもしれないけど寒いだろう。
「ちょっとだけ退いて、」
「眠い!」
「くれないみたいだな」
 何も無理やり引き剥がそうってわけでもないのに、私に抱きつく腕にぎゅっと音がしそうなほど力が籠った。仕方がないので布の端を掴んで力任せに引っ張り出し、アリスターにしがみつかれたまま四苦八苦して彼の肩に布団をかける。
「……」
「あんまり力入れられたら苦しいんだけど。口から内臓が出そうだ」
「……ごめん」
 それきり彼は黙りこくって顔を埋めた。腕の力は分からない程度に緩んだけれど、アリスターはとにかく重たい。このまま乗せてたら足が痺れそうだ。
 愚痴をこぼしたら私に呆れられると思ってるんだろうか。まあ、この件についてはいい加減にしろと言いたくなるくらいには何度も宥めてすかして慰めておだてて励まして元気づけてきたから、彼の方でもさすがに弱音を吐きにくくなるのは無理もなかった。

 幼子にでもするように頭を撫でてやると呻き声が漏れた。ちょっと涙混じり。かなり弱ってるみたいだな。
「言いたいことがあったら聞くよ」
「……」
「寝たふりなんかしなくてもいい、しっかりしろとは言わない」
「……」
 アリスターは、他人に求められ自分の価値を認めてもらった経験が少なすぎる。邪険にされて遠ざけられるばかりだった。だから誰かに一つ否定されるとそれが自分のすべてだと思い詰めてしまうんだ。
「あまり気に病むな。そんなやつらに嫌われたって悲しむ価値もないでしょうに。本当に彼らに好かれたい? どうでもいいじゃないか」
 その言葉でようやく顔を上げた。目が赤くなっている。今度はまた相当ひどいことを言われたようだ。
「何があったか、誰かに聞いたのか?」
「いや。でも今日あなたが何をしていたのか知ってるから想像はつく」
「そうか」
 今にして思えば、アーチデーモンとの戦いに彼を連れて行くべきだったのかもしれない。『フェレルデンの救世主』がアリスターであれば貴族たちもいくらか敬意を持って彼に接しただろう。
 今さら言っても仕方ないが、アリスターには他人に畏怖を抱かせる要素が足りていないんだ。

 確かにアリスターには諸侯に目を開かせるだけの実績がなかった。マリクのように全国民が知る救国の英雄であれば侮られることなどなかっただろうが、その名誉は私が得てしまった。
 アーチデーモンが倒れるまでに彼が為してきたことなど取り沙汰されない。いつも重要なのは結末だけだ。最後に私が邪竜に剣を突き立てた。その他の者の功績は知られないまま忘れ去られてしまう。
 フェレルデンは未だアリスターをよく知らないんだ。私が傅くことである程度の権威は保たれているけれど、充分ではない。それさえも彼の未熟さとして嘲笑う者がいる。
「俺ってそこまでひどいかなぁ? 好きになれるところがないほど?」
「彼らはあなたを嫌ってるわけじゃない。どんな人間かなんて見てないよ。興味もないだろう。あなたも、気にするだけ無駄だ」
「そう簡単にいかない。馬鹿にされるのなんて慣れてるつもりだったが……こんな誰も彼もに敵意を向けられると堪える」
「王宮の人間なんて誰も似たようなやつばかりだ。百人でも一人でも大して変わらない。だが、あなたを慕ってる者もいるじゃないか。それはイーモン伯爵のように、あなた自身を知る者たちだ。どっちが大事か、考えるまでもないだろう」
 ここでの人間関係を普通の友人関係と同じように考えてはいけない。敵じゃないから味方だとは限らない、仲間だからって好意的でいてくれるわけでもない。
 政治の世界で己の人間性を理解してもらおうなんて無茶なんだ。みんな玉座に好き勝手な像を映し出してはそれを真実だと思い込む。王は一人一人と語り合っていられないほど多くの人間の前に身を晒している。全員に俺を誤解するな、なんて言えるわけがない。
「謂れのない悪意を真に受けるな。たぶんこれから先もあなたを責める声は止まない。生活が楽にならないこと、我が身の不幸、王が不甲斐ないせいだと言う者はいなくなったりしないよ。あなたがどれだけ頑張ってもね」

 がくりと項垂れ、また私の腹に頭を乗せる。でも世界を遮断したいのかと思うほどに押しつけていた先程とは違って、少しは気が抜けたようだ。
「傷つくだけ無駄って? けど、ひどいこと言われて悲しむなってのは……無理な話だろ」
「彼らにも捌け口は必要だ。でも律儀に受け止めてやる必要はない。あなたは確かに重い責任を背負ってるけど、“彼らの代わりに”背負ったんだってことを忘れるな。誰が何を言おうと悪いのはあなたじゃない。開き直っていればいい」
 ぐすぐすと鼻を啜りながらアリスターは溜め息を吐いた。体を休めるだけじゃなく、何か楽しみも必要だな。ティーガン男爵なら仕事を放り出して遊び歩くのもお得意だろうが、彼は今イーモン伯爵の厳重な監視下に置かれているのでアリスターを連れ出せない。
「息抜きに町へ出かけるのはいいことだ。ケイランもそうしてた。まあ彼の場合、半分以上は逃げてるだけだったが」
 彼は時々、主に今日のようには私に縋れなかった場合に、王冠を放り出して町へ行っていた。私はそれを止めなかった。

「あー……やっぱり、知ってたんだな」
「抜け出してること? 気づかないほど馬鹿だと思ってたのか」
「そうじゃなくて、怒られないから変だなー、ってさ」
 王が庶民の生活を気にかけていると知れば人々はアリスターに好意を持つし、貴族連中より自分たちのところにいたいんだと思えば彼を仲間として受け入れる。
 領民の機嫌を損ねてまで王を批判したがる者も減るだろう。王宮に引きこもるより顔見せの機会を増やしているのもそのためだった。反対する理由はない。
「怒らないよ。息抜きは必要だし、役立ってる。でも職務放棄してるとは見られないよう程々に。ケイランの失敗まで真似ることはない」
 貴族に嫌われるなら民衆に好かれればいい。アリスターは幸いにもイーモン伯爵の後押しを受けていることで最初からある程度の好感を持たれている。国民の好意なんて軽薄で頼りないものだけれど、今はそれも必要だ。

 なにかもごもごと言い淀みつつ、アリスターはちらりと私を見上げる。
「……ケイランって言えば、お前と彼が……その、婚約してたって、聞いたんだけど」
「はあ? なんだその突拍子もない話。まさかそれで泣き濡れてるんじゃないだろうな」
「なっ、泣き濡れてはいないだろ!? ……今日言われたのは違うことだし」
「ふーん? じゃあ、ケイランと比較されたのか。きっと『少なくともケイランの血統は明らかだ』とかで彼の方がマシだと言われた? 『クーズランドの娘は外れを掴まされて気の毒なことだ、もっと早く生まれていればマク・ティアを出し抜けただろうに』とか? でなければ『王冠を継がせる子供さえ産んでしまえば事足りる。その父親が誰かなど問題にならない』とか」
「…………お前もしかしてあの時あそこにいた?」
「まさか。言いそうなことだ。簡単に予想がつく」

 父親同士が盟友なのだから当然だが、ケイランとアノーラは生まれた時から結婚することが決まっていた。そりゃあ私とケイランの間にも婚約の話は持ち上がっていたかもしれないが、そんなもの単なる雑談、良くて社交辞令に過ぎない。
「馬鹿馬鹿しい。あり得ない」
「そうかな。でもケイランは離婚して別の女と結婚しろと勧められてたって話だし、可能性はあったんだろ? もしかして、お前が……」
「もしかしてケイランが離婚する気になれば、もしかしてアノーラの身に何かあれば? そりゃあ何だって可能性はある。あなたと私が婚約してた可能性くらいには」
「ええっ? そ、そんな話ありなのか?」
「あなたが王宮で育ってたらの話だけどね」
「ああそれは……なんか、妙な感じがするな。複雑な気分だ」
 当時イーモン伯爵には子供がいなかったし、ケンデルス家には息子が一人、ブライトで亡くなったウルフ家の兄弟はどちらも男、他に有力な貴族といえばハウ家やブライランド家。エルモン家にも娘がいたけど、生まれた順番からいって私とアリスターが結婚した可能性は高いだろう。
 クーズランド家の気風はマリクが愛人の子を押しつけるにはうってつけだった。まあ、ケイランよりアリスターの方があり得たのではないか。

 ケイランはアノーラにすべてを任せすぎていた。慕われるよりも先に忘れられてしまった。私はアリスターを押し退けたりしない。彼の代わりに畏敬を獲得したら、そのすべてを彼に与えてやる。
「誰とも比較しなくていい。あなたはちゃんとやってる。それとも私の信頼だけじゃ足りないか?」
 アリスターは無言で起き上がると、私の両腕を掴んでじっとこちらを見つめた。
「何……、わっ!?」
 油断した隙をつかれて彼の体の下に引きずり込まれる。シャツの背中のところが捲れあがってしまった。
 多少の気分転換にはなったのだろうか。彼はどうも私と過ごす時間に安らぎを感じるらしいが、正直理解できなかった。あまり安堵感を与えるタイプじゃないと自覚している。それでも、私と話して気が紛れるなら嬉しいことだ。
「したいのか?」
「ん……やめとく。なんか乱暴しちまいそうだ」
「それも嫌いじゃないけどね」
「えっ!? ……お、覚えとくよ」
 明日は朝から出かける予定だ。それを覚えてて気を遣っているんだろう。

 結局アリスターが今日だれに何を言われたのかは分からないが、最近では彼も揉め事の詳細を打ち明けない。自分で解決しようとしている。その苦痛に耐えるため、私に触れている。
「……こうしたら、重いか?」
 私に覆い被さったまま力を抜いて、耳元で囁く声には甘えた子供のような媚があった。まあ、重いといえば重い。当然だ。全身でアリスターの重さを感じているのだから。
「べつに大丈夫だよ」
「じゃあ、このまま寝るからな。起こすなよ」
「はいはい、やけに大きい子供だな。……おやすみ、アリスター」
 広い背中に腕を回して私から抱き締めると彼は安堵の息を吐いた。いくらなんでも甘やかしすぎじゃないかと内心で苦笑する。他人には絶対に見せられない姿だ。
 いつの間にか、必要なことよりも、おそらく最善だろうと思うことよりも、彼の望むことを優先している自分に気づく。素直にひたむきに誰かを想うというのは気恥ずかしくなるほど懐かしい感覚だ。
 グレイ・ウォーデンになって忘れていた。そして、アリスターが取り戻してくれたものだった。



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