温室のこども



 指先にピリッとした感触が走る。痛みというよりは弱い刺激だった。てのひらを返して見つめると、小さな穴から血が盛り上がっている。ああトゲを刺しちゃったな、バラの手入れをしているときにはよくあることだとその程度の気持ちで、むしろ血の色がバラに似てきれいだと思ったくらいだ。
 傷口に泥がつかないよう服の裾で拭ったところで視線を感じて顔を上げる。
 アリスターの方をちらっと見たアノーラは素早く踵を返し、もう振り向きもせずに邸宅へ走っていった。
 愕然とした。指は大して痛くもなかったのだけれど、アノーラはアリスターが怪我をしたのに気づいていた。にもかかわらず無反応で彼女が去ってしまったのがショックだった。じわりと視界が歪む。
 ロゲインとセリアが慌てて駆けてくるのが見えた。たぶん宥めるためにこちらに来るのだろう。それが分かってアリスターはなお悲しくなった。客観的に見て今の自分は慰めを必要としているのだ。それが悲しい。実感してしまうとより悲しい。
 トゲを刺した指ではないどこかが痛かった。

 家の中から盛大に何かをひっくり返す音と、家宰の悲鳴が聞こえた。アリスターは目を見開いてそちらを見上げ、その拍子に瞼のふちで踏みとどまっていた涙がこぼれた。ロゲイン達も思わず足を止める。
 破壊音は移動しながら連続して少しずつこちらに近づいてきた。ややあってホールから転がり出てきたアノーラが、行きよりも猛烈な勢いでアリスターの方へと駆けてくる。両手に何かを抱えていた。
「ありすた、あっ!」
「うわ」
 べちゃりと顔面から転んだアノーラに思わず手を伸ばすが、彼女は構わず起き上がって散らかったものを拾い集め、滑り込むようにアリスターのそばまで戻ってきた。
「手を出して!」
「え……は、はい」
 言われるままに差し出した指を握られる。アノーラは抱えていた救急キットから消毒液を手に取り、思い切り傷口に振りかけた。
「……い゛っ、てええええぇぇぇ!!」
「我慢よ!」
「しみるっ、しみるよアノーラ!!」
「我慢!!」
 なんでこんな目に合わなきゃならないんだと涙目で腕を振り回そうとするけれど、アノーラの押さえ込む力に勝てなかった。少し過剰かとも思われる消毒処置を済ませると彼女はアリスターの指に脱脂綿をあてて包帯でぐるぐる巻きにした。巻きすぎて拳もつくれないくらい指が太くなってしまった。
 呆気にとられてアノーラを制止することもできずに固まっているロゲインとセリアをじっとり睨み、アリスターは本当に泣き出した。

「まだ痛いの?」
「うっ、うん……」
 どちらかといえばトゲではなくアノーラのせいで痛い気もするが最早どうでもよかった。アルコールにまみれた指先がヒリヒリと燃えあがる。
 よれよれの包帯が巻かれたアリスターの指をそっと握って、アノーラは深く息を吸い込んだ。
「こらーーーーーっ!!」
「!!?」
 風圧まで感じるような突然の大声に驚いて涙も引っ込んでしまう。
「痛くするのをやめなさい! 命令ですっ! アリスターはわたっ、わたしがっ、守るん…だからぁ…ッ」
 腹の底から叫んだせいか息切れを起こしたアノーラがふらりと後ろに倒れそうになる。アリスターは慌てて彼女の腕をつかまえたが、ぎゅうっと力を籠めても指に痛みは感じなかった。
 肩を上下させながら真っ赤な顔でアノーラが問う。
「ど、どう? もう大丈夫ですね?」
「うん、い……いたくない」
「よかった!」
 二人のやりとりを眺め、ようやく我にかえったロゲインが腹を抱えて笑った。セリアも夫をたしなめつつ笑いを噛み殺している。花が綻ぶようなアノーラの笑顔を向けられ、アリスターもいつの間にか嬉しくなっていた。
 自分のために、こんなにも必死になってもらえることが幸福で堪らなかった。



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