夢無し



 ウェディングナイトのベッドの上、エリッサは青褪めた顔で唸っていた。病であれば同情もしようが生憎というか幸いにというかただの食べ過ぎだった。苦しげに腹を抱える新妻をハウは呆れ果てて見つめていた。
「豚のように掻き込むからだ、バカ」
「ううぅ……失礼な……」
「豚に対して?」
「ひどい! 新婦に向ける言葉じゃない……たぶん」
「まあ、お前のそれも新郎に向ける態度ではないしな」
 むぐうと死にかけのナグのように呻いてエリッサは蹲る。彼女の苦痛を肴に煽るエールは美味かった。
 レンドン・ハウの二度目の結婚式は、アマランシンの教会でごく質素に執り行われた。贅の限りを尽くして花嫁を盛りたてさせられた前回とは比較にならない慎ましいものだったが、彼は無駄金を使わずに済んで満足していた。
 威を借る時は終わったのだ。今はただ、自身がクーズランドの娘を娶った事実を参列者に知らしめられればそれでいい。ハウ家の栄光をこの手に取り戻したのだと――。

 カーテンを引いて、ベッドには窓からの月明かりが僅かに射し込むだけとなった。じきに冬が来れば布を厚くする必要がある。エリッサは細く小さな子供だから寒さに弱そうだと、疲れた頭でぼんやり考えた。
 本当は夜になる前にビジルまで戻る予定だったのだが、エリッサがこの様なので急遽アマランシンの邸宅に宿泊することになった。それも妻への気遣いというよりは彼女の「馬車に乗ったら絶対に吐く」との宣言を受けての逃避行である。青臭い結婚への夢などとうに捨てたハウも新婚初夜に吐瀉物まみれで過ごすのはさすがに嫌だった。
 予告なく訪れた主人に、使用人たちは祝辞を述べながらも腹のうちで悪態をついていることだろう。彼らは式の列席者と同様に若いというよりまだ幼い妻を娶ったハウを蔑んで見ていた。心から結婚を祝っている者は一人もいない。もちろん当人も含めて、だ。皮肉に唇を吊り上げながらもその事実がハウの心を曇らせることはなかった。
 ほろ酔いどころか料理を流し込むためのワインに溺れて酒臭くなるほど飲み食いに熱心だったエリッサは、満腹感に押しつぶされて早くも眠りに落ちようとしている。薄暗いベッドに並んで寝そべり、穏やかな己の心地を不思議に思う。
 そもそもハウはアマランシンで過ごす夜が嫌いだった。これまでの人生で恋しく思い出すのはビジル要塞での戦いの日々ばかりだ。結婚し、子供を作っても彼が居つくのはビジルだった。そして伯爵領の統治を仕切る前夫人が居を構えていたのが彼女の生家のあるこのアマランシンだ。ここには戦後の嫌な思い出しかない。
 妻はいつも不機嫌で、そして己が身の不幸を嘆くことに人生を費やしていた。実権を欲するハウ家と、それをすでに持ちながら加えて名目を欲した彼女の家とが二人を結びつけたのは、彼らがまだ若く恋に焦がれていた頃だった。
 反逆者である父のおかげで伯爵の地位を保つことさえ危うかったハウ家のため彼は妻とその家族に媚びた。彼らに傅き、へつらって、臣従し、彼らの権威と財力に縋ってアマランシンを治めてきた。そうしながら力をつけ、敵と味方をはっきりと区別することに砕身し、一度敵となったものは殊更残忍に切り捨てて、暴虐をふるうことで周囲の畏怖の視線を妻から自分へと向けさせた。
 領民から金を吸い上げては貴族男爵にばらまき彼らの忠誠を買いあげた。クーズランドが弱りはじめてからの仕事は幾分か楽になる。領内を荒らす賊徒に金を握らせ餌場をハイエヴァーに変えさせ、代わりにあちらの商人を誘致し、デネリムとの往来を制限してかの地で金が動くのを封じた。
 善きことがアマランシンに、忌むべきことがハイエヴァーに流れ込むよう人間を操っていた。急激に潤い始めた財産に妻の一族は歓喜し、初めてハウを認めたのだったが。
 伯爵領の支配権はゆるやかに確実にハウ家のものとなっていった。義母は忠実に頭を垂れるハウを見て慢心し周囲の貴族が離れつつあるのに気づかず、皆がハウの暴挙を嫌悪する傍ら恐れてもいるのを知らなかった。彼は恐怖という力を手にしていた。そしてクーズランドの権威が目に見えて衰える頃、彼はようやく妻から解放された。
 夫人は嘆きながら死んだ。いつものように精彩を欠いた陰鬱な表情で、家のための道具でしかない自分を嘆き、愛の通わぬ夫を罵り、自分に似て注目する価値のない子供たちを見下しながら死んだ。一族はハウとの繋がりを失ったことを朧気にしか認識しなかった。もはや彼が自分たちの援助を不要としていることを認めたくなかったのだろう。
 ハウは間もなくクーズランドとの縁談を持ち出した。

 馬鹿面を晒して挙式に参じた一族の青い顔を思い出し、彼は笑った。ハウの夫婦仲が乾ききっていたのは周知の事実だ。その財産だけは愛していた妻が死んで間をおかず、よりにもよってクーズランドの娘を娶るなどと、彼らへの宣戦布告も同然だった。お前たちはもう用済みだと、隠すことなく彼はそう言ったのだ。
 ハイエヴァーは彼の力でハウ家の手に取り戻され、アマランシンの小領主たちも既に力ある主人に靡いた。伯爵領を治めるために貴族どもの顔色窺いをする必要はなく、名実ともにハウ自身が権力者となったのだ。もう義母に縋る理由はない。妻をたて、彼女の家に媚びへつらって、どうか我が家をお助けくださいとねだることは二度とない。
 エールを取り落としそうなほど激しく笑い出した夫の声に、夢うつつだったエリッサは目を丸くして飛び起きた。そんな新しい妻をハウは笑いながら強く抱き締める。
 この娘はかつての自分だった。困窮した家のために愛を投げ捨てて自尊心を砕いて、他人にへりくだって助けを請うことを選んだ子供。ハウは今や傅かれる側にいる。妻の家族を見返すどころか無惨に踏みにじることだってできるのだ。
 ともあれエリッサは、貴族たちの存在を意に介さぬ態度で彼らに印象を与えた。そのことにハウは満足していた。

 薄闇に覆われたベッドで寛ぎつつ、なにやら上機嫌らしい夫の顔を見つめてエリッサはしみじみと呟いた。
「なんか、お腹いっぱいだし、しあわせ。思ったより結婚してよかった!」
「……腹がふくれただけでそれか」
 安い幸福だと皮肉を返しながらハウは戸惑った。結婚してよかった、そんな風に思ったことなど一度もなかった。とくに境遇を嘆きもしない強かさに呆れるべきか好ましく思うべきか迷う。結局、彼女は未だよく理解していないのだと結論した。
「今だけだぞ。私の妻は生涯その身の不幸を嘆く定めなのだから」
「なんで?」
「なん、で……って」
 そもそも婚期を迎えたばかりの小娘が父親の友人である中年の男に嫁ぐことがすでに不幸ではないのか。家のために家族を差し出すなど時代遅れにも程がある。子供が子供らしく自由であれと願って我々は戦ってきたんじゃないのかと、ハウは少し、初めて罪悪感を抱いた。それもすぐに掻き消える。経験上、他人に同情しても良いことはない。

 エリッサは最初から結婚に乗り気だった。クーズランドを救うことしか考えていないこの娘は自らの境遇を嘆きはしない。利用できるものならばそれが例え我が身でも喜んで利用する、どこかハウに似た性質を持っている。だが彼と違って他人に傅くことに屈辱を感じていない様子なのが腹立たしくもあった。
「お前は売られたんだ。家のため、愛してもない男の妻になった。これが不幸でなくて何だと言うのか」
「前の人があなたを愛さなかったからといって私も同じだとは思わないでほしいな。私の母は、幸せは自分で掴むものだと言ってた。あなたの奥さんが結婚して不幸だったなら、それは彼女が幸せになる努力を怠ったからだと思う」
 エレノア夫人の言いそうなことだと嘲笑う。すでに幸福の只中にいるからこそ吐けるのだ、そんな甘い言葉は。
「お前みたいな考え方は大嫌いだ。努力すれば全てが報われるわけではない。理不尽に、抗うすべなく与えられる不幸だってあるんだ。どうやって逃れろと?」
 言ってから、まるで亡き妻を庇うような言い分に嫌気がさした。あの女が不幸だったのは自業自得だと、それはまったくもってエリッサに同感なのに。

 ハウは彼なりに努力した。例え家のための結婚でも夫婦が歩み寄れば家庭に安らぎを見出だすことはできたはずだ。結局のところ、ハウが彼女を嫌っていたのは望まぬ結婚が不幸だったからではなく、自ら動こうとしない彼女自身の性格が気に入らなかったからだ。
 良くも悪くもエリッサは彼女と違う。当たり前のことを再認識させられて彼の困惑はますます深まった。
「報われる必要なんてないんじゃないかな……。パートナーの幸せを心から望み、そのために努力すること自体が、もう幸せだもの。私はあなたの妻になった。だからあなたを愛します。……あなたは、私を恐れる必要なんてない」
 そう言って笑う彼女の邪気の無さが言葉と裏腹に恐怖を抱かせた。あなたを愛する、たった一言、妻としてあまりに相応しい言葉をハウは恐れていた。愛だとか、そんなものはあり得ないはずだから。そんなものが存在するのならこれまでの人生で彼が諦め見ないふりしてきたものが輝きを取り戻してしまう。過去に、後悔をしてしまうから。
 夢を見てはならない。愛を得てはならない。それらを捨てることでこそ、この地位を守ってきたのだ。真摯な妻の瞳から目を背けて彼はカーテン越しの月明かりを睨みつけた。あの空に浮かぶ孤独な光明のように誰の手も届かぬ高みに駆け登りたかった。そうすれば人の世の苦しみから逃れられるだろうに。



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