期待の中に隠れる
薄々そうじゃないかとは疑ってたけどハウ伯爵は私をあまり好きじゃないらしい。嫌っているとまでは言わないけれど。
父の友人、隣領の主、クーズランドの客人としての彼は優しく穏やかで親しみやすい、いわゆるところの“いい人”だった。うって変わって結婚してからの彼は化けの皮が剥がれたように冷たくなった。それはなにも私にだけの話じゃなく、誰に対しても粗野で無礼で陰険な態度を貫いているようだ。
そもそも彼の本質はこちらの方で、私がこれまで見ていたのは単に……猫を被った姿だった、ってこと。父さんは知っていたんだろうか。彼の本性を理解してなお友人関係を築いていたんだろうか。もしそうなら、私だけが何も知らなかったなら、自分の未熟さに情けなくなる。
それでもとにかく、伯爵の性格がどうであれ私が好かれていないのは間違いない。なんせ結婚式以来まともに話もしていないのだから。きっと早々にどこか領地をもらって追いやられ、離れて暮らすことになるだろうと思ってた。でも実際には彼が私を手放すことはなく、もらった城は家宰と城代に任せっきりで私自身はずっと夫のそばにいた。
不思議だ。私の顔を見るたび声を聞くたび眉間にシワを寄せてとても嫌そうにするくせに、どうして遠くへやってしまわないんだろう。
ハウ伯爵はいつもビジル要塞とアマランシンを往復して城を監督し、足繁く王都を訪ねて貴族と知己を得、領内をまわって税制案を出し、たまにハイエヴァーにも行く。どこへ行くにしろ伯爵の家臣はクーズランドと比べものにならないくらい多くて賑やか好きの私は嬉しかったんだけど、しばらくしてみると人数の多さのわりに城が静かなことに気づく。
使用人たちは主人に黙々と従い真面目に働いている。口答えせず反抗せず怠けることもなく粛々と、横暴な城主の陰口すら聞かない、異常さ。それはもう静者のごとく、不気味なほどの働きぶりだ。そして伯爵が滞在中の緊張感。彼が目の前を通るだけで石像のように硬直するメイドたち。
なんか、なんというか……さすがに分かりつつある。
「もしかするとハウ伯爵って嫌われてるの?」
抱いた疑問はとりあえず手近にいた人にぶつけてみた。聞かれた家宰の方では頬を引き攣らせて固まるしかないようだった。そりゃそうだよね。まさか「ええはい我らがご主人様は皆の嫌われ者でございます」なんて言えるわけないし。
私がビジル要塞について初日、家宰は「侍女をつけてもいいか」と聞いた。変な質問だった。私はハイエヴァーでも侍女を連れていなかったし母もそうだ。その旨を伝えて断ると彼はなぜか残念そうな顔をした。
伯爵にも側仕えがいない。彼の近くに侍るのは護衛だけ。身のまわりの世話なんて自分で済ませた方が早いだろ、と言った彼に私も深く共感したのだけれど。だから私が侍女をつけないのは自然なことだ。なのに家宰はやっぱり、私に世話係を与えたがる。まるでそうすることで誰かが救われるみたいな顔をして。
ハウ家の家宰はバレルという、すでに白髪混じりでなんとなく老け顔だけど伯爵より少し若い男性だ。彼は驚くべきことに主人とよく言い争っていた。私が来る前には何度か降格されたことすらあるらしい。それでも家から追い出されずにまた家宰の座についているんだから相当優秀なのか、彼の背後に縁が切れちゃ困るものがあるんだろう。
「料理長がさ、変わったよね? あと案内係も何人か。馬丁もしばらく見ない顔がいるけど休暇?」
「よくお気づきで」
「あんなにコロコロ変わったら覚えらんないよ」
「前夫人は……無頓着でいらっしゃいました。いなくなる者を覚える必要はないと」
バレルの目が遠い。前伯爵夫人の話は、ハウ伯爵からは絶対に出てこない。私が気にしているすべての事柄は彼女が鍵になってるだろうに、探る隙はあまりなかった。
「人が多いのはいいことだよね。どっから新しい人を連れてくるのか不思議なくらい入れ替わり激しいけど」
「奥方様、使用人が雇うに値する人間かどうかを判断するのは御館様の仕事で、」
「奥方の仕事でもあると思ってたけど。だから私に侍女をつけたいの?」
絶句、そして目を逸らす。伯爵は嫌われてるんじゃないか。それを最初に感づかせたのは、このバレルの態度だった。
私の世話をする人間を増やせばそれだけ伯爵に処分される人間が減る。漏れ聞くところによると前伯爵夫人の侍従はものすごく多かったらしい。そりゃあもう、夫の連れてるよりずっと。それらを選んでいたのはバレルだ。
レンドン・ハウという人は使用人や訪問客の態度を見る限りたしかに嫌われているみたいだけど、苛烈な税を課してるにも関わらず領民にはわりと受け入れられている。愛されてはいなくともアマランシン領は領主に忠実だった。それは私にとってはすごいことだ。
例え恐怖による力でも、彼は権力者としてしっかり領地を治めているんだ。外国に対する要所でありながら災害や賊徒の多いこの荒々しい土地を管理するには、人格よりも重要なものがあるんだろう。
彼の乱暴で強引なやり方が大局的にプラスとマイナスどちらに傾いているのか私にはまだ分からない。でも、見習うべきところは多い気がした。
アマランシンとハイエヴァーはずいぶんいろいろな部分で違っている。土地の違いはもちろんのこと、領主の人柄が違えば家臣の色も変わり、城の空気が変わり、治める領地の性格も変わっていく。なんだか面白い。
「そういえば、ここって魔道士も多いよね」
「はい。当家では戦闘力が最も重要視されますので」
クーズランド城には魔道士はいなかった。個人的に彼らを雇うには教会に対してそれなりの発言力を持ってなきゃいけないし、何よりお金がかかるから我が家には重すぎる財産だった。ハウ家には直属の兵士の中にも数人の魔道士がいた。ただ少し気になるのは、
「……背教者っぽいよね?」
私の一言に、今度こそバレルの顔が青褪めた。
実際に禁制の魔法を使うところを見たわけでもないし、根拠のないただの勘だ。でもなんとなく分かるよ。ハイエヴァーで狩り倒していた野盗や、父さんに隠れて雇ったこともある者の中にそういう人間も紛れていた。正直なところ私は、まっとうな魔道士よりそっちを見慣れてる。
ハウ家の魔道士は彼らと同じ……教会の支配と保護の枠から外れて自立しているからこその、自信がみなぎっている。
城の守備兵に堂々と背教者が混じってるなんて考えられないことだけど、ここじゃそういう無茶がたくさん押し通されていた。……不思議だ。私の旦那様を、一体どう思っていいのか分からなくなる。
分からない分からない、理解の範疇を超えたことばかり。アマランシン伯爵は不思議な人だ。結婚なんてその場しのぎでどうにでもなるものだと楽観視しすぎていたかもしれない。私はちょっと、戸惑ったまま彼の雰囲気に呑まれてしまいそうだった。
「伯爵がもう少し心を開いてくれたらいいんだけどね」
理解が深まれば互いのために何をするにも役立つだろうに。私の言葉にバレルは、一瞬おかしな笑顔を浮かべたあと無表情になった。鼻で笑おうとして慌てて押し留めたみたいな感じ。
「奥方様はあまりこちらにお越しになったことはございませんでしたね」
「うん。家族で移動するほど余裕なかったし、ハウ伯爵の方はよくハイエヴァーに来てくれたけど」
「あなたは、まだご存知ないのです。その……御館様の仕事ぶりを」
ハウ伯爵の仕事。それは、私の父とはかなり違っていた。
結婚するにあたって私が不安だったのは社交界での貴婦人としての才能のなさだった。私はああいう、始めから進行の手順が決められていて、礼儀を損わないようにしながら相手を牽制し、より優れた己を見せつつ相手の劣るところを晒し、談笑しながらお互いの腹を探りあう、むず痒くなるような会話が好きじゃない。
相手を解き明かして分かりあうために話すのは好き。そうじゃなく急所を見極めて手玉にとるための……貴族的なやりとりが苦手だった。母さんのサロンにだってほとんど行かなかった。というか母さんに「恥ずかしいから来るな」とまで言われたすばらしい社交術の持ち主なんだ、私は。
無事に務まるとは思えない。その懸念をぬぐってくれたのは意外にもハウ伯爵だった。客人をもてなし、また客人として諸侯の邸宅を訪ねる、本来なら伯爵夫人のなすべき役割を伯爵が肩代わりしてくれている。とてもありがたい。
べつに彼は私を気遣って庇っているわけではなく、ハウ家では彼がそうするのが当たり前だったらしい。
「前夫人は、人との関わりが苦手な方でした」
そう、だからつまりこれも、自分でやった方が勝手も分かってるし都合がいいというただそれだけ。
「御館様に課せられた役目は多く、過酷でした。彼は仕事に見合う……人柄に、変化なさったのです」
ひとつ取り決めがある。彼が客を迎えるとき、私は絶対にその場にいてはならなかった。これだけは前夫人と違うところだ。彼女は伯爵と一緒に客を迎えることもあったという。私は彼が貴族を歓待しているとき寝室に引っ込んでいなければならなかったし、客人のない日もやはり広間じゃなく寝室で、夫婦だけで静かに食事をするのが鉄則だった。大勢で食卓を囲むことはもうない。
私はずっと夫のそばにいた。他の誰も私のそばにいない。伯爵が他人といるとき、私は彼を見てはいけなかった。
「私と彼はなんだか、前の夫婦とは違うみたいだね」
その差異が良し悪しどちらに傾いているのか判断基準のない私には分からない。何とも奇妙なことに、ずっとハウ家に仕えているはずのバレルたちにさえ、私と前夫人のどちらが良い立場にいるのか分からないそうだ。
「伯爵はあまり、前の奥様のことを話してくれない。あまりというか全然」
「……お聞きにならぬ方がよろしいでしょう」
「まあ、あの人が聞かせたいと思わないなら聞かないけど。気になってはいるんだよね」
彼や使用人の口から名前が出ることはなく、夫人が使っていた部屋は空っぽ、どこを探しても肖像画の一枚も見当たらない。ついこの間までこの城で生きていたはずの女性の痕跡は、まるで残されていないんだ。その人が確かに存在したことを思い出すのはバレルと話しているときだけ。
「伯爵はハウ家のためだけに生きておられます。それについては私も異論はございません。ですが、家のためなのです。……そこに住む人間のことなど、あの方は……」
「じゃあ私が嫌われているとしたら私はあの人に家族として認められていて、好かれているなら人間扱いされてないってことだな」
バレルは否定も肯定もせず黙って私を見ていた。
たぶん、領民には受け入れられ近しい者には嫌われているらしいという印象は正しい。彼の政治的手腕は優れている。利害をとるか感情にほだされるか、そんなラインは誰にでもあるものだ。でも彼の天秤は片方が破壊されている。感情を顧みない、自分が利を得るためなら相手が人間だってことなんて一瞥の価値もない。その冷徹さを感情ある人間は嫌うんだ。彼の家臣や、バレルや、前の奥様とか。
だけど、と不意に思う。だけど彼はあまり他人を嫌わないじゃないか。虫ケラ同然に軽々と踏みにじりはしても、誰も彼もを嫌ってる様子はない。どうでもいいからだ。……じゃあ彼が、前の奥様を嫌っていたのは……どうでもよくなかったから? 彼女の感情に価値を認めていたから? つまるところ彼女に、愛してほしかったのに、そうならなかったから。
彼が嫌う人間とはすなわち彼が愛していた人間じゃないのか。そう思い至ったとき、私は好かれても嫌われてもいないのではという疑問が想像以上に重くのしかかる。
伯爵が私をどう想っているのか、その鍵は依然として前夫人にある。でも私が彼の心を気にかけてしまう理由は尋ねるあてがない。大きな溜め息がこぼれて、バレルはそれを勘違いしたようだけど、訂正する気にもなれなかった。