No Mercy



 帳簿を放り出して駆けつけたとき、ハウ伯爵は血の滴る短剣を弄びながら寝室の壁にもたれかかっていた。報せを受けていた死体はすでになく衛兵が処理場へ運んだようだ。後で顔を確認しておかなければ……、もう、残り少なくなってきている。殺された者が“始めからいなかったことにする”仕事もじきに終わりだろう。
「遅かったな、家宰」
「申し訳ございません」
 冷え冷えとした無感情な声に、思わず寝台を盗み見てしまった。奥方が屍となってそこにいるのではと疑ったのだ。伯爵はきっと、刺客の刃が彼女を抉っても助けないだろうから。幸いにも寝台は空で、安堵に胸を撫で下ろした。しかし……では彼女はどこに?
「奥方様はどちらに……」
「私の部屋にいるよ」
「何よりでした」
「そうか?」
 目の前の主人は確かに微笑んでいるのに悪意が突き刺さる。彼もまた私を疑っていた。自身がそうだから、周囲がそうだから、誰もが必ず悪辣な人間であると思い込んでいるのだ。私もエリッサ様に殺意を抱くうちの一人に違いないと。でなくとも、彼女が殺されて得をする側の人間だと、考えているはずだった。
 この家に伯爵の味方はいない。少なくとも彼はそう信じている。ハウの血にさえ……彼にとっての、敵の血が混じっている今は。望みをかけ得るとすれば異物である現奥方の存在だろうか。

 赤黒く汚れた短剣を手に伯爵は私の動向を見守っていた。落ち着かないまま室内の破損を確認し、メイドに清掃を命じる。そうしてようやく彼も凶器の始末をしてくれた。
 私が来るまでに血を拭う暇はもちろんあっただろう。彼はただ己が城内でも躊躇なく人を殺せるということを改めて私たちに示しているのだ。
「いい餌だな、エリッサは。面白いほど釣れる」
 このまま皆殺しにできればいいのにと笑う声に背筋が冷えた。
 伯爵の前夫人の家は今やかつての隆盛の影もなく声をひそめてアマランシンに暮らしている。ハウ家の跡取りとなるはずの長子は外国へ追いやられ、残る御子も新たな伯爵夫人がいらっしゃる今となっては担ぎ上げるに足りない。権力を手にし、ハイエヴァーとの同盟を結んだ伯爵に、今度は彼らが傅く番だ。
 しかし伯爵は一族の忠誠の誓いを断った。これまでの立場を入れ替え彼の足元に跪くことさえ許さなかった。フェレルデンから家ごと消し去ってやると、行動することで宣った。
 第一にエリッサ様のもとへ刺客を差し向けたのは――ハウ伯爵自身だった。そして寝室に忍び込んだ不届き者を問答無用に斬り殺したのも彼だ。当然のごとく、刺客を放ったのは前夫人の母ということになった。その後はまるで転がり落ちるように事が運んだ。エリッサ様に害意を抱くものは後を絶たなかった。
 彼女はまだ成熟しきらぬ子供だ。不慮の病や怪我か、治安の悪い町に出かければ暴漢に襲われて死ぬこともあるだろう。その存在は、経緯や理由など誰も気にかけないほど簡単に失われてしまうのだ。まだ子のできない今のうちに……、との企みには事欠かなかった。
 前夫人の家を始め、ハウ家の復権により力を失いつつあるアマランシンの貴族はこぞって幼い奥方に剣を向けた。ある者は後釜を狙って、ある者は伯爵への復讐に、ある者はクーズランドとの繋がりを断ち彼を今一度孤立させるため。伯爵が引き受けていた敵意憎悪の矛先がすべて、与し易いと思われる子供に向けられたのだ。
 伯爵は、よく奥方の隣にいた。それが彼女を守るためであればよかったのだが、生憎と私はもう彼を信頼する心などなくしてしまった。

 それでも今のところエリッサ様は安全だ。彼女の幼馴染みでもある前夫人の御子を含む一族から引き離され、貴族諸侯に会わせずビジルの奥に置いて、城塞を出るときは必ず付き添い、彼の目の届かぬところであれば使用人であっても他人に会わせない徹底ぶりで守られている。それとも監視されていると言うべきか。
 夫婦が同じ城に留まり同じ寝室で眠るのさえ我々には驚くべきことだった。よほど彼女が大事なのだろうと錯覚が起きる。ある点でそれは正しかった。ハイエヴァーを押さえている限り伯爵はもう誰におもねる必要もなくなるのだから、確かにクーズランドの娘である奥方は大事だろう。
 今は……今のところは、安全だ。クーズランドは伯爵に必要とされている。ではそれさえなくなればどうなるのか。前夫人にしても始めは守られていたのだ。彼女もいずれ切り捨てられるのではないかと疑うたび、どんな顔をして話せばいいのか分からなくなる。
 エリッサ様は前夫人とは違う。彼女は伯爵に興味を抱き、彼を理解しようと努めていた。それが何か変化をもたらすのだろうか。私はもう、そんな小さな可能性に期待を抱けない。
 しかし旦那様にまといつく彼女を見ているとなぜか、懐かしい生気みなぎるレンドン・ハウを思い出す――父の汚名を払拭するためがむしゃらに戦っていた頃の、独立戦争の英雄の姿を。
 期待はしない。信じてはいない。裏切られるに違いないからいつも疑っている。それでも、もう一度あの日に戻れと願わずにおれなかった。



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