悲しみが打ち捨てられた海岸線



 ビジル要塞の城主と奥方の部屋は別れている。伯爵夫人の寝室は居館の上階奥にあって、こちらが本来の城主の部屋だ。ハウ伯爵は広間の近くにある執務室を自分の寝室にして、普段そこで客人を迎えていた。寝るときにはどちらかの、大抵は私の寝室で一緒に眠る。
 家具も衣類も少ない資産を切り詰めてハイエヴァーから持ってきた物だ。私が与えられた部屋に足を踏み入れたとき、前に誰かが暮らしていたことなど忘れてしまったように空っぽでギョッとした。裏からハウ伯爵を支えるのではなく従えていたという奥方の痕跡は、怖いくらいの執念深さで要塞からきれいさっぱり消し去られていた。

 今、一人きりで伯爵の部屋にいる。旦那さまは一階の大広間でウェイキング海男爵と話してるけど、あの男爵とは徹底的に気が合わないようだから戻ってきたらきっとものすごく機嫌が悪いと思う。さらに怒らせるのはよくないことだ。なんて考えつつも退屈の虫と好奇心に誘惑されて部屋を眺めていた。
 この部屋で、前から気になってたことがある。一緒にいるときは好き勝手に弄り回せないから、彼の機嫌を損ねる危険をおかしてでもこのチャンスをモノにするんだと固く決意した。
 伯爵のベッドの足の下、床の色がちょっと違う。全面ピカピカに磨きあげられてて分かりにくいけどそこだけ少し明るい。そう……どうにかして引っ掛ければ外せそうな感じで床が浮いてるんだ。トラップにも見えるけど寝台の真下にそんなものあるわけない。財産、弱味、宝物、何かを隠しているんだろう。
 彼はいつ頃帰ってくるかな? 寝台をばらして床を剥がして戻してる時間はあるだろうか。そもそも床がちゃんと外れるかどうかも分からないんだ。ビジルの歴史は長いから、これが予想通りの仕掛けだとしても今もまだ伯爵が使っているとは限らないんだもの。
 でもやっぱり気になる。弓を構えて的の中心を視るときみたいに私の直感が“ここだ”と言っていた。秘密を暴くなら、あとは矢を放つだけ。

 長らく移動していなかったベッドはどこもかしこも固くて解体しにくい。そういえばハウ伯爵は外征用に別のベッドを持ってたっけ。じゃあこれはずっと持ち運ばずビジルに置かれてるんだ。お金持ちめ! でもまあ組み立て式だっただけありがたい、据え置きの重たい寝台なんて私には動かせないし。
 途中まで分解して、よっこらせっとベッドを押し退ける。足が乗ってたところだけ重みで床が削れてた。長い間これを誰も動かしてないなら秘密を隠すにはうってつけってことにもなる。さて何が出るか? 慎重に撫でて境目を探し出し、仕掛けの端っこを踏むと床に見せかけた薄い石板が跳ねあがる。その下には扉があり、開くと大きな穴があいていた。
 明かりを取り込まないように作られているらしく、中は暗くて見えない。うーん。そんなに広くないし避難通路ってわけでもなさそうだけど。とりあえず手を突っ込んでみても底には届かなかった。部屋の床にぽっかりと現れた真っ黒い穴は、なんとなく不吉で怖い。
 ううー、めげるなエリッサ、こんな怪しげなとこには絶対なにかある。もう意地になって暗い穴に手を突っ込んで穴の壁を撫で回した。深いなあ、下階の天井まで突き抜けてるみたいだけど、この下ってどこ? 廊下? 壁の中かな……。
「あっ!」
 石をくりぬいたらしい穴の中に一部分だけ木の板張りがあった。触ると少し奥にずれる。やった、隠し板だ。身を乗り出して、ほとんど頭まで穴に突っ込んで板を外した。引っ張り上げて明るいところで見てみると、それは埃だらけの一枚の絵だった。
「きれいな女の人……」
 幸せそうな微笑みを浮かべた貴婦人。そう古くはなさそうな肖像画、誰の絵なのか直感的に理解した瞬間、部屋の扉が叩きつけるように開かれた。

「だ、」
 旦那さま、と呼び止める暇もなく彼は無言でつかつか歩み寄ってきて、私の手から絵を取り上げた。
 不機嫌な顔や怒りに満ちた顔なら見たことがあるけど今みたいな表情は初めてだ。これは何だろう? 一見すると無感情な、でも見てると胸が痛くなるような……絶望?
 本当に踏み込んではいけないところに足をおろしたのだと気づく。これは伯爵夫人の絵だ。誰にも見つからない場所に厳重に隠されていた、唯一の痕跡。彼の秘密は暴かれた。私は恨まれるだろうか。
 急に脱力したみたいに彼の手から絵が落ちる。床のうえで変わらず笑う彼女の顔を憎々しげに睨みつけて、ハウ伯爵は足を上げた。
「ま、待って!」
 突き飛ばすほどの勢いで腰にしがみつく。今まさに絵を踏みつけようとしていた彼がよろめき、私を引き剥がそうと肩に手をかけた。指が食い込む痛みに必死で耐えて叫んだ。
「私がどっかへやるから! だから……壊さないで!!」
 苦い過去を消し続けても何もなくなってしまうだけ、新たな思い出で埋め尽くす方がどんなにいいだろう? 全部捨てる必要なんてないんだ。

 絵を睨んだまま彼は凍りついていた。どうしていいか分からずその手を握ったら、思い切り振り払われる。ハッとして私を見た。そこに私がいることに初めて気づいたようだった。
「……何だ!」
 震えてるみたいだったから、と言ったらプライドを傷つけるだろうか。でも聖歌によるとプライドは人間を滅ぼすものだそうだから、傷つけて壊してしまった方がいいのかもしれない。
「なくしたらもう二度と手に入らないんだよ。作り直しても同じものにはならない。思い出は、簡単に壊しちゃダメ」
 だから隠していたんだろうと思う。捨てきれず吐き出せず隠し通すつもりでいた未練。それは私が知ってはいけないものだった。少なくとも、彼にとっては。
 絵を拾い上げて大切に抱え込む。苦虫を噛み潰したような顔で私を睨みながら、この腕にあるものに耐えられなくなった旦那さまはそっぽを向いた。
「そんなもの捨てろ。こそこそと嗅ぎまわるのはよせ」
「だって、あなたが話してくれないんだもん。自分で探すしかないでしょ」
「何が知りたいんだ。お前が興味を持つようなことは無いよ」
「なんだって知りたいに決まってる。自分の家族に、興味ないわけない」
 彼の目が泳ぐ。私の言葉に動揺し、迷ってくれているのが嬉しかった。伯爵の人間性に手が届いた気がした。

「……私の父のことを知っているか」
「え?」
 彼の父親……アマランシン伯爵は私が生まれたときにはもう彼だったし、そういえば父さんからも母さんからも聞いたことがない。私のお祖父様と同じ頃の人だから、たぶん戦争で亡くなった? いや待って。ちょっと思い出した。
 マリク王子の反乱でハウ家はオーレイの味方についたんだ。タールトン・ハウ――先代アマランシン伯はハーパーをめぐってお祖父様と戦って敗け、裏切りの罪で絞首刑に処された。その子でありながらレンドン・ハウはフェレルデンのために血を流し、マリクの勝利に尽力し、王となった彼の目にとまることでぎりぎり生き延びた。
 私の旦那さまは国賊の息子だったんだ。最初にオーレイにおもねり最後にフェレルデンに還されたこの要塞で、戦争が終わったあとも彼は一人でハウ家を守るために戦っていた。
「あの男のおかげで全てをなくしかけた。家を守るために、私は力を持つものと手を組む必要があった」
「それが前の伯爵夫人……彼女の家?」
「彼らの顔色を窺い、媚びへつらって、彼らをハウ家に取り込んだ。利用し尽くすためにな。……この屈辱が分かるか? 主君でありながら周りのすべてに頭を垂れ臣下でいてくれと慈悲を請い、……お前は、使用人に売国奴と嘲けられたことがあるか? 剣を使えない、心を切り刻まれながらただ耐えることしかできない戦いに身を置いたことが? だが……もう、奴らに用はなくなった。だから」
 だから夫人は亡くなった。つまり……そうか。本当に、消してしまうつもりだったんだ。おそらくは孤独で、想像もできないほど屈辱的だったであろう戦後の日々と、その象徴たる夫人の存在すべてを。
 でも彼女の絵はここにある。旦那さまが彼女を愛していたかは分からないけれど、捨てられなかった絵はいつかのレンドン・ハウが誰かを愛そうとした証だ。できることなら愛したかった、後悔のしるし。私は彼を非情だと謗ることができなかった。

 夫人は死に、今は私が彼の妻だ。彼女と私は結局のところ同じだった。彼が生き足掻くため、彼の盾となり矛となることを望まれているモノ。アマランシンの実権を握るため、彼の屈辱を知る者たちを殺し尽くすため……道具としてなら必要とされている。いらなくなるまでは好かれている。それでも彼女と私を別けるものがある。
 旦那さまは私にへつらう必要がないし、彼は私に意地を張る。悪くない。私に対するプライドがあるなら対等だってことだもの。
 今はまだ、必要なのは私自身ではなくクーズランドの名前だ。べつに妻にすることができるなら私でなくてもよかったんだ。ファーガスでも……わ、想像しちゃった。とにかくそれは今の話。これからどうなるかは分からない。彼が過去どんなふうに生きてきたのでも私がそれを嘲笑うことなんてあり得ないんだから。
 絵を後ろ手に隠して旦那さまの視線の先に回り込み、にこりと笑う。どうでもいいことは大真面目ぶって、奥底の本心は茶化して、私たちはまだ遠い。この距離はこれから詰める。

「ところで、この穴ってなんなの?」
 旦那さまはなぜだか神妙な顔をして私を眺めた。
「……もうずっと昔だが、建て増しするまで隣の広間はなくここが要塞の突端だった」
「ふん?」
「その頃はそこがガードローブだった」
「………………えっ」
 思わずじっと手のひらを見つめた。煤けたように真っ黒なこの汚れ、土埃でしょ? そうだよね。もう土に還ってるはずだもんね。だから平気だよたぶん。そんなふうに自分を納得させながら旦那さまの上衣の裾を掴んで手を拭いた。
「やめんか」
「あのね、さっき手を握ってごめん」
「……!!」
 硬直した旦那さまと、今度は二人して互いの手を見つめあう。私も彼も目的のためには手を汚すことも厭わない――まあ意味が全然違うけど、そうは言ってもやっぱり嫌なものは嫌だ、気分的に。それは汚れ慣れた彼も同じだったようで。
「エリッサ、手を洗いに行くぞ」
「はい!」
 訝しげな使用人たちの視線に追われながら二人で水汲み場に向かって歩いた。染みついてしまった汚れなんて洗い流してしまえばいい。その激流は確かに多くのものを傷つけるだろう。私も押し流されるうちの一つかもしれない。その日が来るとしたらとても怖いけれど、今はただ抗ってみせるだけだ。



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