うつろう悲しさ
エリッサは要塞の探索に凝っていた。長きに渡って改修と増築を繰り返してきたビジル要塞は広大さの分だけ構造も複雑化し、未だ知れぬ通路や施設さえある始末。野放図に広がる迷路空間は、まだガキである彼女には良い遊び場となってしまったようだ。
結婚当初はそれなりに大人しくしていたくせに近頃ここでの生活に慣れてきたのか遠慮がなくなっていた。調子に乗っていると言ってもいい。ブライスの教育のやり方には全く驚かされる。もちろん悪い意味で。
使用人も年若い奥方の存在に馴染んできたようだ。エリッサはハイエヴァーにいるのと変わりなく気楽に過ごしていた。私に対する態度もいくらか違ってきている。見知ったはずの“ハウ伯爵”とは異なる本来の私の姿にも慣れてきたのだろう。
彼女が前妻のことを知ったのは契機になっていた。昔、苛立ち紛れに封印したものを暴いて何か一つ進んだ気分でいるらしかった。
「そういえば、あの絵をどうした」
「ひみつ。見たいなら飾っておくけど?」
「いらない。不意打ちで目にするはめになったら苛々するから聞いたんだ」
「そんなに嫌わなくてもいいじゃない」
彼女があれを持ち去ったなら燃やしたのでも隠したのでもどうでもいい。視界に入らなければどこにあろうとなかろうと私には無関係だ。
しかし久しぶりに見て少し驚いたな。描かれた当人とは似ても似つかぬ肖像画はエリッサには似ていた。顔立ちは確かにあいつの面影があるのだが、自信に溢れた強い眼差し、生気に満ちた表情がエリッサにそっくりだった。実際の伯爵夫人は存在希薄な女、描かれた絵には人を惹き付ける魅力がある。あいつは、あんな目をしたことがない。
私が指示して描かせた絵は嘘で塗りかためられていた。あいつはあれが大嫌いだった。だから義母が来るときに飾ってやったんだ。額縁の中に掲げられた我が子の美貌に義母はいつも相好を崩して喜んでいた。……その時だけは夫婦の息が合っていたな。翳りつつある家の威光に目を眩ませた愚かな老女を、私も妻も蔑み、憎んでいた。
最初は私に対して前夫人の話を切り出さないようにしていたエリッサだが、近頃様子を窺いながらそのことについて問うようになってきた。べつに、構わないんだがな。私にはもう傷つくものなど残っていない。すべて話してしまっても構わなかった。ただ、その必要がないから聞かれるまでは黙っているだけだ。
「前伯爵夫人は、きれいな人だったんだね」
「絵だけはな。実物はもっとつまらない女だったよ」
「つまらないって……」
「事実だ」
飛び抜けた長所も短所もなく何の見所もない、人混みに紛れてしまうような特徴のないやつだった。目を見張るような美しさ、強烈なカリスマも、男を従えさせる気の強さも、細腕に似合わぬ腕っぷしも、眼差しに相応しい高潔さもあいつにはなかった。
あの絵のようではなかった。エリッサに似て生命力溢れるあの絵の……いや、それはむしろ、エリッサに似ているというよりも――。
あの絵は確かに不快の塊だが捨てるには忍びない。エリッサは私があれを隠した理由について重大な思い違いをしている。
私があれを見るたび思い描く人間、私の過去を奪っていったのは違う人間だ。私が望んだ相手は私に必要な人ではなかった。だから背を向けた……誰にも知られる前に、自ら捨てたんだ。それでもまだ後悔などなかった。
「エリッサ」
「はい?」
べつに問題はなかった。娶った女は非常に不愉快だったが、いずれ手放せるのだと思えばどうでもよかった。自分の気持ちになど構っていられなかった。
「お前、恋人はいないのか」
「はっ?」
なのに、心通わぬ妻に頭を下げて尽くし臣下に仕え屈辱に塗れて過ごした日々、ふと振り返るとあいつらは……。私が諦めて捨てた者たちは至極幸せそうに暮らしていた。そして自慢気に私を見るのだ。地位も名誉も愛も権力も、親から受け継いだものだけで、こんなにも満たされていると。
「恋人って、いるわけないよ、結婚してるんだから」
私は後悔などしていない。思いを告げて叶わなかったわけでも横から奪われたわけでもなく、私自身が道を違えたのだから。自分で選んだのだから。許せなかったのは、やつらが、愛がすべてだと本気で考えている馬鹿どもが、私もさぞや幸せだろうと、言ったんだ。
「今までは?」
「そんな暇なかったし、考えたこともない」
「そうか」
残念だ。とても残念だ。エリッサ、こうして見れば本当によく似ているな。
髪の色も瞳の色もまるで違う。アマランシンの潮風を浴びて育ったあいつと、ハイエヴァーの高地で生まれたエリッサとでは肌の色さえ似ていない。それでも彼女はあの絵に似ていた。私が描かせた幻想の妻の肖像画に、とてもよく似ていた。あれはエレノアの絵だ。
だがエレノアは美しく親しげで、手を伸ばせば届きそうだった。エリッサの美貌はもっと洗練されていて、高圧的で、遠い。母娘は見間違うほど似ているのにどこかで決定的に違う。エリッサは生まれながらに高貴な娘だった。
公爵の血筋がそんなに偉大か? それがお前を高みに押し上げているのか? 元を正せば似たり寄ったりの野蛮人だ。……何が私たちを別けたのか。それは私には手に入らないものなのか。そうだとしても認めるつもりはない。
「お前に恋人がいればよかったのに。それを横から無理やり奪ってやりたかった。お前の両親の呪詛が聞きたかったよ」
惚れた女を諦めて好まない女と添い遂げても、私はそれで平気な人間だった。変えたのはエレノアとブライス・クーズランドだった。やつらは私が自分たちと同じ幸せを掴んだのだろうと微笑んだ。幸せで当たり前だと、そうあるべきだと強者の視線を寄越して笑った。
あの二人が私に心からの祝福を捧げた瞬間、身を守るためではなく、ただ憎悪のままに切り刻んでやつらの全てを壊してやろうと決めたんだ。
「……もしかしたら、あなたは、母さんのことが好きだったの?」
「好きだったよ。彼女が欲しかった」
「私が母さんの娘だからハイエヴァーを助けて、私と結婚した?」
「お前がエレノアに似ているかは重要じゃなかった」
「じゃあ、二人の娘を奪って復讐したかったとか?」
「理由はいろいろだ。保身のため、ハイエヴァーを手に入れるため、前妻の家を切るため、ブライスとエレノアを不幸にするため、あらゆる面において、お前がちょうどよかった」
それにエリッサはあの絵に似ている。焦げつくような恋慕を思い出す。それは命を燃やすのにとても役立った。
小さな頭をぐるぐると働かせてエリッサは私を見上げた。大きな青い瞳が私の何かを映し出そうと必死になっているのは見ていて面白い。
「あまり聞いて楽しい話じゃないだろ」
「そりゃ楽しくはないけど、でも聞きたい。だって、これが原因だと一つはっきりさせられるほど単純じゃなくても、それぞれが意味をもって作り上げてきたんでしょ?」
「何を」
「あなたのその性格の悪さ」
「…………」
はっきり言うものだな。確かに、嫌われもののレンドン・ハウを作り上げたのは、使用人たちであり前妻の一族であり親友であり恋した人でもある。全ての影響を受けて私は今ここにある。
一つの原因だけで歪んでしまうほど弱くはなくても、自分だけ傷ついて衰弱していくほど善人ではなく……。
「母さんに未練があるなら、私にもまだチャンスはあるってことかな。私はとにかく外見だけは母親似らしいから」
「もしかしたら、お前は私に愛されたいのか?」
「当たり前じゃない。あなたと私は夫婦なんだから」
「愛するために結婚したのではないのに?」
「それって重要なの? 大事なのは経緯よりも今あなたと私が夫婦だっていう事実でしょう」
もちろんその通りだ。夫婦ならば愛し合っていた方がいろいろなことがやりやすくなる。
私は、想像したほどエリッサを嫌っていない。所詮彼女は私の人生に関わっていないのだ。どうやって憎めばいいのか。むしろ外見も性格も好ましく思っているくらいだ。だから哀れだった。
「私は愛していても平気で捨てられる人間だよ。それはもう、昔から」
そんなに嫌わなくてもいいのにとエリッサは言ったが、同じことだった。好きでも嫌いでも愛していても憎んでいてもエレノアに似ていても似ていなくてもブライスの娘でもそうでなくても、必要なら手に入れ、いらなくなれば捨てるだけだ。
するとエリッサは困ったように笑って「それは私が頑張るしかないことだ」と言った。その顔は妙に愛らしかった。だからとても可哀想になったが私はいつも通りの薄ら笑いを浮かべていた。