もう一度、なんて愚かな願い
王都へ足を運ぶ途中にハイエヴァー公爵夫妻がアマランシンを訪れていた。久しぶりにハウ伯爵と父さんの話すところを見たらなんだか変な感じ。昔とはちょっと違う……?
視点を変えてみなければ気づかないことってたくさんある。改めて、父さんはレンドン・ハウをよく知っていたんだなと思う。ちゃんと知ったうえで友達だったんだ。それは確かに打算が多くを占める友情だったのかもしれないけど。
表面上なごやかに親しく接する態度は私が見知った二人の姿と変わらないのに、よくよく観察すれば二人の間には牽制の膜が張られていた。何気ない会話ひとつにさえ自分が優位に立てるよう様々な策略がある。ブライス・クーズランドも、レンドン・ハウも、やっぱり根っから貴族なんだ。
私はそんな理性的になれるだろうかと不安になった。両親から継ぐべきものをしっかり受け取った優秀な娘――と評されるのは重圧だった。私は相手を理解して心構えをしておく以上のことができない。自分から会話に罠をしかけるなんて向かないんだ。直情的に、感情的に、本能のまま戦うことしか知らなかった。
旦那さまたちは階下の広間で話している。父さんと一緒にデネリムに行くのかな? だとしたら私もついて行きたい。一人で残されると家のことをしなくちゃいけないから……なんて考えてしまう私は、やっぱりまだ甘ったれてるなぁ。
私と寝室にやってきた母さんは伯爵夫人となっても私に侍女がいないことに満足そうだった。世話焼きな使用人に囲まれずに済むこの家の空気が意外と合ってるみたいだ。母さんも戦士気質の人だからあまり礼儀にこだわらないアマランシンの気風が好きなのかもしれない。
「ハイエヴァーの様子はどう?」
「少しはマシになってきたわ。ハウのおかげで駆り出せる兵士も増えたし、ならず者も減った。アマランシンに来るのに一度も賊に襲われないとは思わなかったわね」
以前なら、王都からハイエヴァーまでの旅なんてほとんど不可能なくらい野盗が多かった。街道を守るべき兵士も足りず、自然と旅人の足はアマランシンに向かい、ハイエヴァーの商人はアマランシンを経由しなければ仕事ができなくなった。
安全が確保されたのは私が結婚してすぐのこと。まるで軍隊のような鮮やかさで盗賊たちはハイエヴァーから退いていった。クーズランドの血縁となったハウ家に背後から襲われるのを警戒したのかもしれないし、そうではないのかもしれない。まあ実際、考えるまでもないことだ。
「ハウから借りた兵のなかに野盗に似た顔がいるのが気になるけれど」
声を潜めもせず言い放つ母さんに私は困った顔を返すことしかできなかった。私はハイエヴァーを駆け回って賊や反乱者を狩っていたのだから、分かってた、気づいていた。治安を乱していた輩のほとんどはたぶん、ハウ伯爵の差し金だった。しかも彼はそれが自分の仕業だって隠す気がないらしい。
「でもクーズランドは滅ばなかった。ギリギリ踏みとどまれる加減を見極めてちょっかいだしてたなら、やっぱり旦那さまはすごいと思う」
「そこは感心ではなく憤慨してほしいところだわ、エリッサ」
「んー。私はもうアマランシン伯夫人だからね。それにハウが何もしなくても同じことだったんだし」
クーズランドは自ら落ちぶれたんだ。……崖に向かって後押しした人がいたとしても、そこに足を向けたのは自分たちだった。
伯爵夫人に与えられた領地はアマランシン海に面した港で、残念ながら故郷と離れすぎていたから直接手助けするのは難しいけど、ハウ伯爵がそれまで以上にハイエヴァーを支援してくれているおかげで領境近くの貴族たちも大人しくなった。クーズランドはなんとかやり直せそうだ。ハウの庇護のもと、というのは両親には気に入らないだろうけど。
裏で画策された交渉の結果ハウが優勢のまま取引が成立した、とにかくそれだけだった。
「いいじゃない。もう親戚同士なんだし、ハイエヴァーとアマランシン」
握手を交わす後ろ手に剣を握っているとしても。旦那さまはそういう人だし、どうやら私の父さんも同じ人種らしいから。
私と同じく貴族的な策略の世界から身を遠ざけて生きてきた母さんは、それでもやっぱりなんかイヤ、なんて子供染みた仕草で拗ねていた。
家宰が、旦那さまの会談が終わったと告げにきた。想像通り父さんと一緒に王宮へ行くらしい。そして私は留守番だと。……密かに心臓が跳ねた。夫と離れているのはいろんな意味で不安だし、何より一人で留守番なんて耐え難い! 単身ウェアウルフの群れに放り込まれる方がまだマシだ。
デネリムに行くのかと聞いたら母さんはこのまま引き返すという。
「王都に行くと無駄遣いしそうだから。あそこの市場は目の毒よ」
「あはは、確かにね」
「ハイエヴァーではドワーフ製の武具なんてお目にかかれないもの。ああ、私もデネリムに行きたい! ……だからこのまま帰るわ」
絹布や宝飾品だっていっぱいあるのに母さんやっぱりそっちに興味があるんだ? と思うと血の繋がりを強く意識してしまう。それでも母さんは私と違って、相手によってはオーレイの香水やアンティヴァの白粉について何時間でも語り合えるのだから、ちゃんと公爵夫人としても生きている。
母さんが行かないなら、旦那さまが帰ってくるまでアマランシンにいてくれないだろうか。そうすればハイエヴァー公夫人を理由に客人を避けられるし……なんて企みをひた隠しあくまでも娘として母さんにおねだりしたら、あまりにも無情に嫌だと突っぱねられた。
「ブライスもそうだけど、私はあの人以上にハウ家に疎まれてるのよ。前夫人にも嫌われてたしね」
「母さんが? なんでまた」
ここへ来たときもそんな雰囲気はなかったのに。だって母さんとは政治的な関わりがないんだ。ってことは……、
「私がハウに恋してたのは戦時中のことなのにねえ。今更ちょっかいなんて出すものですか。彼が伯爵になる頃には私はもうブライスに夢中だったんだから」
「え、え、ちょっと待って母さん」
「どうしたの? ああそう、知らなかった?」
あっさり言われて混乱した。知らなかったわけじゃない、けど“母さんも”旦那さまを好きだったっていうのは初耳だし、衝撃だ。
「……旦那さまの片想いだと思ってた」
「似たようなものだけどね。彼に想いを告げられたことはないし、私も何も言わなかった」
てっきり、旦那さまのことだから、母さんへの恋心と権力を守るのに必要なものを冷静に秤にかけて恋を捨てたのだと、最初から最後まで一方的にあっさり終わったものだと思ってた。母さんの方にも恋があったなんて。
彼は昔から人に愛されにくい性質だったと……勝手に決めつけてた。
「想像してた感じと違うみたい」
「人間が想像通りだとは思わないことよ、エリッサ」
それは本当にまったくその通りだ。まだびっくりしてる。私は今の旦那さましか知らないから、過去の姿を探るのにどうしても“今”を基準に想像してしまうんだ。
私が生まれる以前のレンドン・ハウの像が、頭のなかで少し形を変えた。それを見留めて母さんがため息をつく。
「エリッサ、悲観的になってほしくはないけれど、ハウ伯爵に昔の面影を探してはダメよ。かつてのレンドン・ハウはもういないのだから」
彼はホワイト・リバーで死んだのだ、と……嘆くような言葉をそういえば小さい頃に聞いた。誰が言ったんだっけ? 父さんがそれに反論していたのは覚えてるんだけどな。
見張りに声をかけられることもなくいきなり部屋の扉が開いた。入りかけて母さんの姿に気づき、足を止めたのは噂の旦那さまだ。彼はなんとなく不快げに私たちを眺めたあとすぐ外向きの表情に戻り、しげしげと母さんを眺める。母さんもなんだか懐かしげな目をハウ伯爵に注いでいた。
やがて二人の視線が逸らされ、代わって私に向けられる。やけに複雑な感情の絡んだ二対の瞳に見据えられて困惑した。
「随分と久しぶりみたいね、ハウ。やっぱり私のエリッサと夫婦には見えないわ」
「気が合うな、私も同じことを考えていたよ。こうやって若々しい娘と並べて見ると老けたな、エレノア義母さん」
スッと私の顔の横を何かが通りすぎた瞬間、旦那さまは素早く扉を閉めて出て行った。彼の顔があったあたりにナイフが刺さっている。驚いて振り向いたら母さんが、それを投げたポーズのままで舌打ちをした。
「母さん、いくらなんでも殺そうとするのはまずいよ」
「殺そうなんてしてないわよ。逃げ切れるのを分かって言ってるんだもの、あの性格の悪さは変わらないわね。私を貶めて楽しんでるんだから!」
あ、そうなんだ。性格が悪いのは昔からだったんだ。いろんな苦悩で純粋な青年が歪められてああなっちゃった……ってわけでもないのか。そりゃあそうだ、つらいことがあったからって人格まで変わってしまうような繊細な人には見えないもんね。
なぜか少し安心していた。私はべつに昔の彼に戻ってほしいとは思っていない。レンドン・ハウという人がとても非道で残虐で、そうなるまでにやむを得ない事情があったのだとしても、私が知るのは今の彼だけなんだ。昔は善人だったと聞かされるよりあまり変わっていないという方がいい。
もう一度なんて愚かな願い。私は今ここに出来上がった彼を受け入れるだけ。父親の裏切りに苦しみ、目下の者たちに媚びへつらって自尊心を傷つけ、地位を守るために恋を捨て、感情をなくして、人間として持つべき何かが切れてしまったようなあの人を、ただ単純に私の夫を知りたいだけなんだよ。
困難は楽しむものだ。彼がかつて平気な顔で汚濁に身を浸したように、私も彼の妻であることを楽しむんだ。