cannot say goodbye
仕事をするでもなく何をするでもなく、旦那さまはじっと虚空を睨みつけていた。苛立たしげに机を叩く爪の音だけが彼の機嫌の悪さを物語る。
私はバレルの代わりに彼の後ろに立っていた。もちろん家宰の仕事まで代わりにするわけじゃないから本当に立ってるだけだ。今日の邸宅はとても静かで、みんな自分が旦那さまのお怒りをかわないようにとピリピリしている。近ごろ、使用人たちがさりげなく私を矢面に立たせて伯爵の怒りから逃げ隠れしてるようなのは気のせいかな……。
ともあれハウ伯爵のそばに私しかいないおかげで彼の不平不満はすべて私に向けられているし、そもそも私にはあまり八つ当たりしない彼なので、表向きアマランシンは平和だと言える。静かに穏やかに怒りを秘めているのだ。
ことの元凶はテーブルの上に居座っている古びたストロングボウだった。この弓は数日前にビジル城塞の地下で見つかったもの。戦争の頃まで誰かが使っていたらしいけど詳しくは聞かされていない。とにかくこれが旦那さまを不愉快にさせている。
テーブルからはみ出るほどの大きさを見るに残念ながら私では腕の長さも太さも足りなくて使えない。悔しいけど、成長しても無理だろう。そもそも女性向けではないみたいだ。元の持ち主はよっぽど大柄な男の人だったんじゃないかな。
これの存在が疎ましいなら捨ててしまえばいい。そうしない、できないのはつまり持ち主が重要な地位にある人だったってこと。家臣の誰かが愛用していた武器じゃなく、これはハウ家の弓なんだ。
旦那さまは弓を売り払おうと考えていた。でも珍しく決心がつかないみたいでずっとイライラしている。
「ハウの恥だ」
「え?」
急に話しかけられたからあわてて机にもたれかかるようにして旦那さまの顔を覗きこんだら、彼はすごくびっくりしていた。なんだ、独り言だったのか。
「あなたは使わないの、レンドン」
「弓は苦手だ」
「じゃあ子供たちは?」
「トーマスにこれが引けると思うか。ナサニエルなら……いや。どちらにせよ、受け継ぐべきではないんだ」
たかが弓でも財産には違いないのに欲深い旦那さまが要らないと思うなんて一体どんな曰く付きなのかと少し不安になる。
タールトン将軍が使っていたものだとすればとっくにビジルからなくなってるだろうし、遠い御先祖による不名誉の品なら彼は気にせず売ってしまうだろうし。
「……誰の弓なの?」
結局、好奇心を抑えきれずに聞いたら、ごまかした様子でもなく「誰でもない人だよ」とよく分からない答えが返された。
「彼はグレイ・ウォーデンになると言って出て行った」
「んー、なんだっけそれ、聞いたことある」
アルドス先生の授業で……いや、もっと身近なところで耳にした話? グレイ・ウォーデン、そうだ。昔のいざこざを水に流してマリク王が呼び戻したっていう戦士たちだ。大昔にブライトを倒した英雄がなんとかかんとか。伝説であり栄光の象徴たるグリフォンの騎士。
でもブライトなんて何百年も前の話だ。そのとき敵を倒したというグレイ・ウォーデンはとっくに死んでるだろうに、他の誰もが偉大だとは限らないじゃないか。今彼らが必要な理由なんてあるだろうか。ハウの名を持つその人は旅立ってそれから……どうしたのだろう。
「グレイ・ウォーデンになって帰ってきたの? それで弓を置いて行った」
「いいや。帰ってなんか来ない。行ったきりだ」
「え、分からないな」
「ウォーデンになるというのは家を捨てるってことさ。実際、彼からの連絡は途絶えた。今や生死を訊ねるあてもない」
彼はあくまでも無感情に淡々と言うのだけれど、私の耳には“家を捨てる”という言葉があまりにも衝撃的だった。だって顔も名前も分からないその人はハウ家の人なんでしょう。背負った責任を投げ出してまで、必要とされてもいないグレイ・ウォーデンに身を置いたって?
「グレイ・ウォーデンになると家に帰れないの?」
「さあね。秘密主義の集団だから実態はあまり知られていないんだ。加入の儀式さえ命懸けだと聞くから、大方ウォーデンになれもせず死んだのだろうよ」
「……それ、知らせてくれないわけ、他の人は」
「そのようだ。私たちには、何もない」
なんだか言い様のないもやもやしたものが胸に迫る。この弓を置いて去ってしまった誰かの背中が憎らしくて堪らない。足跡ひとつも残さずに家族を捨てて消えてしまったのか。彼は……レンドンは、待っていたのかもしれない。もしかしたら今も待ってるのかもしれない。
行き去りし人がもし万が一にも、いつか戻るとしたら、そりゃあ弓を手放したくはない。あり得ないことだと分かってはいても、その人が死んだことを彼は知らないのだから。……だから迷っているの?
「なあエリッサ。私はどうすればいい」
「うーん。あった場所に戻したらどうかな」
「見つけなかったことにしろとでも?」
「使いたい人がいればまた出してくればいいし、それまで忘れておいたら。どうせ今まで、思い出さなかったんでしょう」
「……そうだな。この事は考えたくもない」
望むと望まざるにかかわらず誰にでもやるべきことがある。でもそれが家族のためではなく自分の欲求を満たすだけのものなら、諦めなくてはいけなかったんだ。
伝説の仲間入りをしたという帰らざる人――あなたは、あなたの子供たちを待たせ続けていることをずっと悔やむはめになったのだろうな。