ORANGINA



 ハウ伯爵が不機嫌だ。たぶん体調が悪いせい。ずっと顰め面で時々つらそうに咳き込んで、疲れが祟ったんだろうと思うけどそれよりとにかく使用人が怯えきってて困る。早く治してくれないかなあと嫌がる彼の世話を焼きまくったりしてみても、忙しい身の伯爵はじっくり体を休める暇がない。
 今朝は朝食をいらないと言って私に押しつけ、私が後で食べようと取っといたオレンジを未だにちびちびかじって気を紛らわせている。
「今日はお客様が来るんでしょう」
「ああ……ウェイキング海の、あの……」
 悪口が続く予定だったのかもしれない、途中で咳き込んでしまって悪態つけなかった旦那さまは忌々しげに私を睨んだ。妻のせいにしないでください。
 この時期アマランシン海からの潮流に乗って北部沿岸に魚が集まってくる。旦那さまとアルフスタナ男爵は漁獲権をめぐって何度も会談の場を設けていた。ハイエヴァーでは領海についての取り決めで揉めたことなんてないんだけどな。伯爵領は最近とても税収が増えて潤ってるから、この件だけじゃなく交易にまつわる交渉事がたくさん持ち込まれて旦那さまはちょっとお疲れのご様子。

 いつもなら家宰が半分近くの雑務を引き受けてくれるのに、そういえば最近あまり姿を見ない。
「バレルは?」
「……さあ」
 さあってことないでしょうに。仏頂面でそっぽを向く顔色の悪い旦那さまにちゃんと聞こえるよう、殊更に大きな溜め息をついた。こういうときの家宰じゃないか、全く。
「また牢に入れたのー、もう。ほんとに仲悪いな!」
 反論しようと口を開いた彼はまた盛大に咳をする。……少しずつひどくなってないかな。昨日はこんなに声も嗄れてなかった。
 ただでさえ無理してるくせにどうしてこのタイミングで家宰を投獄しちゃうかな。どうせくだらないことで対立したんだ。自分の体調が良くなるまで待てばいいのに。ばか。

 熱っぽい顔してるわりに寒いらしくて、ダブレットの上に薄紫のジャケットを着てさらに毛皮のガウンまで羽織り、出迎えの支度をする彼を見ながら思う。……アルフスタナ男爵かぁ。何年か会ってないな。
「うん。今日は私がお客様の相手をし、」
「駄目。却下。必要ない、無駄、論外だな」
「……そこまで言わないでよ」
 言い終える間もなく捲し立てるような拒絶にがっくりと肩を落とした。
「ちょっとは手伝えるようになったと思うよ? 流されて交渉に負けたりしないし、主人にばかり仕事を押しつける気遣いのない妻だなんて言われたくないし」
「関係ない。私が嫌なだけだ」
 にべもなく切り捨てて身仕度を終えた旦那さまは、私を押し退けて部屋を出ようとした。足元がちょっと覚束ない。本当に人の言うこと聞かないやつだな。

 彼の前に回り込んで出口を塞ぐ。アルフスタナ男爵は弱ってる相手につけこんで交渉を有利にしようなんて人ではないけれど、なんにしたって旦那さまは今、休むべきなんだ。
「私に任せられないなら一緒に行こう。あなたは隣にいればいいよ」
「知ってると思うが、私は他人の前で猫を被っている。お前に見られたくない」
「知ってるけど、知ってるんだからいいじゃない?」
 別に気にすることでもないのに。思い返してみれば私の知る昔のハウ伯爵だって、あれはつまりクーズランド家に媚びてたってことなんだ。……だから私に見られるのが屈辱なのかな、とは思うんだけど。
 いつまでもこのままではいられない。私がすべきことも夫に全部任せて城でのんびり過ごしてるなんて、ずっとそれじゃ飽きてしまう。いずれ二人揃って顔を出さなきゃいけない場面もあるだろうし、今だって後生大事に妻を隠して独占しているなんて言われててそれも気に入らないくせに。
「仲睦まじい夫婦だとか言われてるのが嫌なんでしょ」
「……」
「アルフスタナ男爵はあなたの性格知ってるから、私といるのを見て甘くなったと思われるのがムカつくんだ」
 私にだって自分の領地があるのに、揃ってこんな風にずっと一緒に暮らしてる方が珍しい。ハウ伯爵を知る人はすでにけっこう私との仲を疑っている。なんていうか、いい意味に、だ。彼は妻を慈しんでいるんじゃないかと疑われてるんだ。
 それに腹を立てるってのも妙な話だけど、彼はそういう人なんだから仕方ない。
「一度試してみようよ。意外と平気かもしれないし」
 体調崩してるときくらい頼ってほしい、というか……信頼してほしいなあ。私にも彼を支えられるんだってこと。

 旦那さまはうんともすんとも言わず部屋の中へと引き返し、訝しげに私が見守るのを振り向きもせずテーブルに向かって、ジュースの入った瓶を手に取った。飲み口を握ってなぜかそれを上下に振りまくる。
「エリッサ」
「はい?」
 瓶を振りながらこっちを向いて、変に愛想のいい笑顔を浮かべた彼。あれっ、あのジュースはアンティヴァから仕入れたやつだ……まだ飲んでないけど確か柑橘系のなんだったか果物を搾って作る、炭酸入りの、
「目は閉じろよ」
 狭い瓶の口から盛大に弾けた炭酸の波が眼前に迫り咄嗟にぎゅっと目を瞑った。
「ぶわは!?」
 降り注ぐ甘い雨が髪から服からしとどに濡らし、べたべたになった私を見て笑い転げる旦那さま。うわーこれ砂糖がけっこう入ってる……甘い香りが全身にまとわりついた。乾いたら皮膚にはりついて悲惨なことになりそうだ。
「……ちょっと、レンドン!」
 やることが完全にガキ。笑いすぎて滲んだ涙を掌で拭いとり、彼はニヤニヤと部屋の奥を指差した。
「大変だな。入浴の用意をさせよう」
「そうまでして私に同席させたくないわけ?」
「うん」
「う、」
 そこで素直に頷かれたらどうしようもないよね。なんて諦め顔で、私は、旦那さまに抱きついた。
「おいやめろ、私まで濡れる……お前、髪がベトベトだぞ」
「誰のせいだと思ってんの!?」
 彼のガウンに頭をなすりつけ、潰れたオレンジの粒が柑橘の爽やかな香りを辺りに撒き散らす。どっちにしろ彼もお客様の前には出られない、ざまあみろ。
「一緒にお風呂に入って、もう少し話し合いましょうか」
 しがみつく私を引き剥がそうとして掴み、べたついた自分の手をうっそり眺めて旦那さまは溜め息を吐いた。
「お前に振り回されているところなんか、絶対に見られたくない……」



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