Go to blazes !



 辱しめられ、汚された、憤怒が体内を駆け巡っていた。ありったけの油を掻き集めて頭からかぶって火をつけたい、この身体をズタズタに引き裂いて消えてしまいたい、燃え盛るような欲求に駆られた。だけどそんなことはできないのだ。
 今すぐ熱い湯を浴びたいとは思いつつ風呂を準備するのに侍従の顔を見たくないし、この惨状も見られたくないから私はひたすらシーツで体を拭いた。皮膚が剥がれて落ちそうなくらいに強く擦り続けた。そこかしこに悪臭が染み付いているようだ。奴の残滓が滞っていた。
 誰も来るなと命じたおかげで寝室には怒りと静寂が満ちている。絶望は、ない。ただ暴力的な欲が衝き上げてくるだけだ。その勢いに身を任せて叫びそうになる。でも扉の外には今も用命を待つ侍従の気配があるから、みっともない真似はできなかった。

 あの豚、貴族を名乗る人間の皮をかぶった屑は、どうなっただろうか。叶うなら私自身の手で殺してやりたかった。身分を偽る皮を生きたまま剥ぎとり、醜く弛んだ肉塊を地面に叩きつけてやれたらいいのに。でもその願いは叶わないんだ。私には奴を殺せない。私は一介の戦士ではなく、立場のある貴婦人なのだから。
 悲嘆にくれて泣き濡れて旦那さまに縋ることしかできない我が身が情けなくて、悔しかった。
 ハイエヴァーにいた頃、領地を荒らす賊どもと戦っていたときにはこんな危機はざらにあったけれど、悪党をどんなふうに殺したって私が咎められることなんてなかったんだ。いつだって非はあちらにあった。
 興奮して鼻の穴を広げながら奴は客だと言った。自分は客なのだと。伯爵のもてなしを受けるに足る、栄誉ある客だと! そんな言葉一つで縛られて私は好きに奴を殺すことができなくなった。
 オーレイの残していった腐れた因習は今もフェレルデンの一部を蝕んでいる。領主は客に逆らえない。その身を犠牲にしても奴の下劣な欲望を叶えなければいけないのだ。そうしなければもっとひどいことが起きると染み付いてしまっている。
 マリクが取り除ききれずにひとまずは無理やり押さえ込んでいた膿が、彼の死によって吹き出てきたのかと思う。ケイラン王は父親ほど強固にはオーレイの影を払拭しようとしない。おかげさまで、粛清を怖れて大人しくしていた奴らがまたぞろ動き出したのだ。
 怒りで混乱しているせいか悲しみはとくになかった。乱暴されたことなんてどうでもいい。ただ、逆らう力を私は持っていたのに、様々に絡んだ環境のために、唾棄すべき輩に身を任せなければいけなかったのが悔しくて堪らない……プライドを傷つけられたんだ。

 吐き気がするし頭もガンガン叩かれてるみたいで気持ち悪い。破瓜の痛みなんか、どうってことない。あの豚のモノは豚に相応しく貧相だった。そう言って鼻で笑ってやったら奴は激昂してのしかかってきたけど、腹肉で窒息しなかったのは奇跡だろう。
 屈辱と嫌悪にまみれて、最中は意地で食い止めていた涙が今頃になって流れてきた。窓の外は暗くなっている。使用人たちも今日はもう放っといてくれると思う。ベッドのカーテンを乱暴に閉めて掛布を引っ被ろうとしたところで、ここで眠るのが嫌だと体が軋んでいるのに気づいてまた泣いた。
 涙と鼻水がぐずぐず垂れてくる。みっともない、格好悪い、最低のタイミングでカーテンの向こうに灯りがともされ、さっと幕を引いて旦那さまが現れた。
 出てくるものを垂れ流しっぱなしで見上げていたら、しばらく黙り込んでいた彼はやがて一言「臭い」と呟いて私の手を掴んだ。引っ張られるままにベッドを降りて部屋を出て、ぐちょぐちょの顔を腕で隠すようにぬぐいながら旦那さまの後をついて行く。
 俯いてたからすれ違う使用人たちの顔は見えなかった。爪先が赤くなってる。裸足で歩く石床の冷たい感触がなぜか気持ちいい。
 お互い無言を貫いて辿り着いた旦那さまの寝室に放り込まれるように入ると、私の部屋とは違っていいにおいだ。あいつが撒き散らした臭い体液、饐えたような汚臭がしなかった。代わりにあたたかな湯気と薔薇の香りが漂ってくる。私が閉じ籠っていたからメイドたちはこっちの部屋に風呂を用意してくれていたらしい。
 旦那さまは相も変わらず黙ったまま私の服を脱がして浴槽に押し込んだ。抗議する間もなく頭から湯をかけられる。
「わっ、ぷ……ちょっま…あわ鼻に入っ、ばは、待、てっ!」
 容赦ない湯攻めに、洗濯されているときのシーツの気持ちが分かった気がした。ものすごく優しさに欠けた手つきで髪の根本まで力一杯こすられて痛みに呻きながらまた涙が溢れてくる。でもこれは旦那さまが頭をガシガシやってるから泣けるだけで、だから、だから……だから、あんなことのためには泣いていないんだ。

 あいつが掴んだ箇所は痣になっていた。気絶しないためにと私が自分で噛みついた痕もある。お湯でぬくもって赤みがかった肌に、それらの痕跡はやけに痛々しい印象をもって浮かび上がってきた。旦那さまは私をじっと見つめていた。なにも言わず、感情のこもらない瞳でじっと眺め続ける。
「……殺してくれた?」
 仕方なく私から声をかけた。さっき叫びすぎたせいか嗄れて掠れてひどい声だ。
「殺したよ。あまり時間はかけられなかったが」
「ふぅん」
 そうだろうとは思う。感覚が曖昧だけど奴が出て行ってから旦那さまが来るまでそんなに時間は経ってないはずだ。今頃になってよく見れば彼の全身は返り血でどす黒く染まっている。あの下種がどれくらい凄惨な死に方をしたのかは、それでなんとなく伝わった。
 本当は自分でやりたかった。この手であいつの苦痛を引き出して私がされたよりも手酷く人間としての尊厳を奪い取ってやりたかった。……でも言わない。彼は私の望んでいたことくらい分かっているだろうから。
「あの獣にはプライドなどなかった。お前が見ても不愉快さが増すだけだったと思うよ」
「そっか」

 涙はさすがに出尽くしたようだった。目のまわりがなんだか重たい。身体中、妙に気だるい。心身ともに疲れきっていた。このままふやけてしまいそうな私を浴槽から引き上げて、旦那さまは濡れた体を拭いてくれた。
 なんか優しいかもしれない。罪悪感かもしれない。単なる同情かもしれない。彼の考えてることがよく分からない。自分の考えてることもよく分からない。なんてことない、全然平気だと錯覚するために自らを麻痺させたまま、まだ私は戻ってきていなかった。
 ベッドに座らされて何の反応も示さない私に旦那さまは戸惑っていた。
「そんなにショックを受けるとは思わなかった。同じじゃないか、なあエリッサ? 相手が私でもあの豚でも……。お前は私と結婚した。これも同じことだろう」
「あいつは私の家族じゃない。あいつに許すものなんか何もない。あなたとは、違う……!!」
 衝動的に奮い起った気持ちを抑えようと拳を握りしめた。旦那さまにあたるのは駄目だ。
 確かに彼は助けてくれなかったけど、その理由は私にもよく分かってる。殺さない方がいいと判断して私が耐えたように、彼は機を待った方がいいと判断した、それだけのこと。善くはなかったけど彼が悪いわけでもない。

 夜気によって冷えてしまった雫が髪から滴り落ちた。それを見て彼はぽつりとこぼす。
「……悪かった」
 旦那さまの表情は石像のように硬直している。どんな顔を形作ればいいか分からないみたいだった。彼はきっと私が傷ついていると思ってる。強姦された苦痛に浸る、意外と普通の女だと、そんなふうに思ってるんだ。
 違う、違う違う違う、そうじゃない、そんなんじゃない。あんな屑のことなどどうでもいい。私はおぞましさに震えているだけだ。
 旦那さまには理性があった、ハウ伯爵の与えてくれる見返りを欲し、彼を認めたからこそ私は、自分を捧げても構わないと思ったんだ。レンドン・ハウだから許したんだ! なのに――。
 何の契約も交わされない、何の対価も差し出されない、一方的に刹那的に己の欲を吐き出す行為の醜さに。それを悦ぶ下劣さに。畜生にも劣る意味のない凌辱に吐き気がする。
「い、今は……ちょっと変だけど、すぐに」
 すぐに戻るからと言ったはずなのに声にならなかった。小さく息が漏れるだけで胸が詰まったように言葉が出てこない。
 旦那さまはもう一度小さく、ごめんと言った。彼は困惑し、悔やんでいた。正直なところ何に対してかは分からない。私が犯されたこと自体は彼にとって些末な出来事だと思うんだけど。
 ……もう、いい。殺されたわけじゃないし取り返しのつかないことでもないんだ。どうせ二度と会わずに済む。忘れろ、忘れてしまえ。初めてが最悪だったんなら次の評価が甘くなるかもしれないじゃないか。そう、いいように考えて。何も傷ついてなんか……いない。
「でも、もしあいつの子種なんか宿していたら体を引き裂いてでもその子を殺すから」
 少なくともそれがはっきりするまでは、私に触れないで。吐き捨てた言葉に操られたみたいに頷いて旦那さまは呆然と、血に濡れた自分の身体を見下ろしていた。
 万が一にも、旦那さまが、嫉妬しているのだとしたら。……それはとても慰められるんだけどな。



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