君だけが知っている
エリッサは邸宅の女主人としての振る舞いがよく分からないらしく、今は家の者たちと探り合いながら自分の在り方を模索している。侍女の一人も連れていたことがないという彼女は人に指示を与えて従えるのに慣れていない。使用人との距離をはかるのにまず彼らと親しもうとした。そういうところがセリアに似ている。
ぎこちなくはあるが想像よりも早く穏やかにエリッサは我が家に馴染んでいた。当初は私とブライスの権力争いに備えていた使用人たちが今では揃って「もう少し奥様に心を開かれては」などと忠言を携えてくるのだから全く大したものだ。
何を謀るでもなく彼女はただ私の妻としてここにいた。裏表がないという言葉はきっと信じてもいいと思っている。だから近頃の私は、よくエリッサを見ていた。
こうして私があからさまに観察していても彼女はさして気に留めることなくありのままでいる。探られて痛くなる腹がないので明け透けなのだろう。私にとっては随分と新鮮な存在だ。
「……もう寝る?」
黙り込む私が不機嫌だと思ったのか急に表情を曇らせて俯く。お前を計るべく眺めていたとも言えず彼女の髪を撫でて頷いた。
「そうだな。寝よう」
彼女は妻である前にブライス公の代弁者で、私の監視係だった。少なくとも私にとってエリッサは一人の人間ではなく、私がケイランに忠誠を誓っていることを証明する手立てでしかなかったのだ。
その不信感はもう解けつつある。父親ではなく夫である私を裏切らないと言った彼女を信じようとしている。ただなんというか、つまり機を逸しただけだ。一度決めた態度を改めるのは難しい。
「お前に聞きたいことがあったんだ」
灯りが消え、カーテンも引いて彼女の表情も見えなくなった。毛皮の布団の中にすっぽりおさまったエリッサの頬に手探りで触れ、その感触を味わうように撫でてみる。
「初めてお前を抱いたとき、なぜ嘘をついたんだ?」
柔らかな頬が引き攣るのを指先で感じた。悟られまいとしたのか離れようとする体を止めて抱き寄せる。この熱さからみると彼女の顔は真っ赤に染まっていることだろう。私の腕の中で小さく唸ったあと、ややあってエリッサは「答えなきゃダメ?」と呟いた。
「言いたくないなら構わん。だが、私たちの関係に政治を持ち込みたくないのなら、無駄な隠し事などやめるべきだ」
逡巡はそう長くなかった。珍しく気弱な様子でエリッサが呟く。
「……私は、あなたの言うように経験がなかった。でもあのときそれを言葉にして伝えたらあなたが嫌がると思ったから」
「初めてではない、と嘘をついた?」
「ごめんなさい」
「べつに嫌がりはしない」
「でも私を子供だと思ったでしょう。その印象を強めたくなかった」
それはまあ確かに……と思い至り口籠る。実際、今でも少し気後れしているのだ。床入りのたびに苦労が絶えない。若いことが悪いとは言わないがやはり娘よりも年下の妻というのはどうも堪える。初夜のベッドでエリッサの口から経験のないことを告げられていたら気が削がれる程度では済まなかっただろう。
ともあれ彼女はどうやら年齢差を気にしている。もしかしたら、私以上に。それは気にかけるべき事柄だった。
クーズランドの名は広く知られている。戦争で成り上がった私とは違い、マリクの覚えによるものではなく長きに渡って自力でフェレルデンに根を張った公爵家の血筋。長子であるファーガスはもちろん次子としてのエリッサにも結婚を持ちかける貴族は多々あったはずだ。
「お前は確か、私の他にも何人か婚約を申し込む者がいたのでは?」
ハイエヴァーと付き合いのあるアマランシン伯爵の子息だとか、ウェイキング海とも交流があったそうだし、子に恵まれた西方丘陵やドラゴンズピークもブライス公に窺いをたてていたと聞く。ああそうだ、デネリム伯爵の“あの”馬鹿息子も……一応、ユーリエン公が話を持ちかけていたらしい。
まさに引く手あまた、それでも全てはブライスの意向次第だった。そしてその一存により私が選ばれた。エリッサはそこに彼女の意思もあったというが、そのために貞淑に努めていたわけでもないだろう。不思議なのはそういう環境にありながら未経験だったことだ。遊び相手には事欠かなかっただろうに。
「お前の妙な、……頑固さが不可解だ」
「私は自信がないんです。どうすればいいか分からない。あなたに嫁ぐことが決まったとき、もっと経験を積んでおくべきだったと後悔したけど」
「……いや、経験の有無はともかく、その年で夜伽に自信満々でいられてもつらいものがあるぞ」
「えっ、えっと、そうじゃなくて。だから……あまり慣れていないの。愛ということそのものに」
そう、そうなんだ、それだ。どうにも不思議だ、妙だと思っていた。エリッサはあのブライス公の息女でありながら、いやだからこそかもしれないが、貴族の子らしからぬ自由意思を有している。なのに、なぜ恋愛に疎いんだ?
私が想像していたのは良くも悪くももっと奔放な女の姿であった。例え経験がなくても自らの価値を充分に知っているような熟練の淑女だ。エリッサは、己を低く見ている。自己評価が厳しすぎるくらいだと最近になって気づいた。
「私に魅力がないのは、なんとなく納得してるんです」
「……はあ?」
「はあ、って。そ……そんなに馬鹿にしなくても」
呆気にとられただけなのだが彼女は違う反応と捉えたらしく、涙声に言葉が震えるのを聞きつけ私の方が焦ってしまった。
「馬鹿にしているわけではない。しかし謙遜も過ぎると嫌味だろう。お前は充分美人だ」
政治的な意図を除いても価値がある。なぜ……初心なのか? ずっとそれが分からなかったんだ。
話し込むうち暗闇に目が慣れてきた。私の腕に頭を預けて彼女は私の心臓あたりをじっと見つめている。小さな溜め息を洩らし、エリッサはためらいがちに語った。
「こう言うのもなんだけど、美形の自覚はあります。父も母も容姿は整っているし、兄も異性に好かれやすくて、私も彼らに似た顔立ちなのだから不当に卑下すれば家族への侮辱になってしまう。だから……それは関係ない。魅力は親から受け継げない、私自身が磨かなければならないもの。私は……今までその努力を怠ってきた」
彼女の父は娘自身が愛した者と結婚することを望んでいたけれど、エリッサは恋愛に興味がなかったという。公爵家に生まれたのだから家の役に立つ相手のもとへ行けばいい、それこそが使命だと考え、そしてその相手はおそらく彼女に魅力がなくても気にしないだろうと思っていた。ただきれいな顔をして立っていればいいはずだと。
自然とエリッサを抱き締める腕に力がこもり、彼女が息苦しそうに呻いた。……それは私が考えていたことだった。彼女自身など問題ではなく、魅力があろうとなかろうと何を考えていようとどうでもよかったんだ。その妻は道具でしかないはずだったから。恐らくは他の候補者たちも同じであっただろう。
「……愛されたいと願うようになるなんて、考えもしなかったから、あなたに好かれるためにどうすればいいか分からない」
「それは私も似たようなものだ。お前を愛したいと思うなど……考えもしなかった。どう扱えばいいか、分からない」
彼女に傷つく心があるとは想像もしていなかったし、自分がそれに躊躇うとも思っていなかった。
「ああ本当に、お前の言う通りだな。……私たちはちゃんと恋をするところから始めるべきだ」
驚いて見上げてきた彼女に口づけを落とす。まだ育ちきらない彼女と私は、生きた年月のほかに背丈すら釣り合わないが、こうして寝転がってみればあまり苦もなく唇に触れることができた。
実のところ、人を育てるのは苦手なんだ。だから早く大人になってほしい。私が愛した女たちは皆とても強く、最初から私の手綱を握っていてくれるようなところがあった。アノーラにしても一人勝手に育ってしまったのだから優秀すぎて困る隙もない。
対等な相手でなければ接し方にも困るような、未熟な男だと分かってくれ。
もっとエリッサを知らなければ。彼女に私を知ってもらわなければ。本心を覆い隠すことばかり学んできたから難しいだろうけれど、彼女にはその内側を知る権利があるし、私も知ってほしいと願っている。