光は見える?
ダンカンは街道を無視してまっすぐにひた走った。なにしろ南に集まったダークスポーンは大群だからグレイ・ウォーデンとなって長い彼には余程離れた場所にいても奴らの気配が分かる。
険しい渓谷でも深い森でも朝靄に包まれても夜闇に紛れていても、どうしたって方角を間違えようがないから、わざわざ曲がりくねった道に沿って遠回りに進む必要はないのだった。
頭にあるのはアーチデーモンのことだけだ。こうしてただ走っている今にも邪竜が戦場に現れて、大地を汚しあの若き王や戦士たちを食らっているのではないかと考えただけでゾッとする。
もちろん、奴が姿を現せばダンカンが不在であっても仲間がうまくやるだろうとは信じてはいた。しかしそう易々とブライトが終わるはずもない。
自分のいない間に何か取り返しのつかない事態に陥ったら。オスタガーに戻ったときには全て手後れだったら。
暗い不安が次々と背後から忍び寄る。嫌な予感が彼の足を急がせた。
グレイ・ウォーデンの指揮官として片時も離さず胸に抱き続けてきた重圧と緊張は、ブライトの到来で限界にまで膨れ上がっていた。不謹慎ながら新兵の徴収が楽に済んでよかったとさえ思う。
デネリムを訪れた時、これが最後だと覚悟していた。これ以上は人員補充のためだけに時間をかけられない、と。
エルフの異民族区で起きた悲劇はダンカンにとって……都合がよかった。素晴らしい新兵候補が故郷を追われる騒動に自ら首を突っ込んでくれたのだから。
前回――彼女の母親であるアダイアを徴兵しようとした時ーーは平時ゆえにと諦めたけれど、今回はその娘を救うという名目で誰にも批難されずに連れて行けた。
運がよかった。良い仲間を手に入れた。
最南端の村まで来りと同時にその同行者の存在を思い出し、ダンカンはようやく背後を振り返る。
カリアンは、勇猛果敢で行動力に溢れているとはいえ生まれてから一度もデネリムの外に出たことがないのだ。
街道沿いの旅も未経験のシティエルフ。初めてまともな“戦い”を経験したのはまさに徴兵を行った日のことだった。勇気はあれど彼女は箱入り娘なのだ。
目的地へと突き進む速さのことしか頭になかったが、この悪路は彼女の体力をかなり削いでしまったのではないか。今までなら通りすぎてきた村の前で立ち止まり、ダンカンは彼女をじっと見つめた。
「疲れていないか?」
「えっ、何か言った!?」
ダンカンを見つめ返す彼女の瞳は子供みたいに輝いている。疲れなど感じないくらいに、初めて見る外の世界が楽しくて仕方ないらしい。
せっかく足を止めたのだからとキョロキョロ辺りを見回して、落ち着かない視線はすぐにあちらこちらの風景に移されダンカンのもたに留まることはなかった。
思わず苦笑する。世界の命運を懸けた旅の道行きに不安の一つも感じていないのか。この希望もオスタガーについたら曇ってしまうだろうかと考え、ちくりと胸が痛んだ。
思えば出発してからずっと不眠不休だった。カリアンの着ていた綺麗なドレスも血と泥にまみれていた。
返り血はデネリムで浴びたものだが、背の低い彼女の腰まで跳ねた泥はここまでの強行軍によるものだ。ダンカンは汗を拭う暇さえ与えなかったことを今になって後悔した。
裾に隠れて見えないが素足もきっとひどい有り様だろう。そうだ、彼女は歩きにくいからと婚礼用の綺麗な装飾がついたブーツをかなり早くに脱ぎ捨ててしまっていた。
ダンカンは気づかなかったが、急ぎすぎる旅路の負担はずっと前から彼女を蝕んでいたはずだ。
戦場までにまだロザリングという村はあるが、このまま直進したらそこに立ち寄ることはない。まともな宿に泊まるならここが最後のチャンスだ。
「ここで少し休もうか」
根が素直なカリアンはとくに意地を張って強がることもなく、村に入ろうとするダンカンの言葉にこくりと頷いてあとに続いた。
村の井戸で水を汲み、辛うじて宿の体裁をとっている程度の大きな家の戸を叩く。すぐ南で戦いが起きているせいか村を行き来する者の姿はあまり見当たらず、戦場へ向かうらしい商人と傭兵のパーティがいくつか滞在しているようだ。
「部屋は空いているかな」
「一部屋なら」
「では……」
すぐに了承しようとして寸前で思い留まり、ダンカンは背後のカリアンを振り向いた。
婚礼の時には編んでいた髪を降ろして長い耳を隠している彼女はどう見ても人間の女性だ。控え目に言っても美しい、小柄で儚げな少女だ。少なくとも外見は。
グレイ・ウォーデンの集団として地底を旅する際は老いも若きも男も女も無関係に寄り添いあって眠るのだが、ここは地上でしかも彼女はまだウォーデンではない。
結婚できる年齢になったばかりの、それどころか数日前に結婚式を挙げるはずだった女性。そんなことをつい忘れてしまう。
幸いにもカリアンはその辺りを全く気にしていないようで、べつに同室でも構わないと言った。彼女の言葉にダンカンも安堵し、宿の主人に頷いてみせた。
運んでもらうほどの荷物もないのでさっさと部屋に向かおうと足を踏み出し、その背中に主人はニヤリと妙な笑みで声をかけた。
「やるもんだねぇ。花嫁の強奪とは」
「は?」
「若くて器量よし、腕っぷしもありそうじゃないか。奪ったからには大事にしろよ、おっさん!」
同年代としか思えない禿げ上がった店主におっさん呼ばわりされてダンカンは少し気を悪くした。しかしそれよりも……花嫁泥棒とでも勘違いされたのだろうか。複雑な気持ちで宿の奥へと進む。
身一つで飛び出してきた婚礼衣装の娘と武装した人相の悪い男。奪ったわけではないが、まさに結婚式の日に彼女を連れ去ったのは間違いない。部屋に着くなりダンカンは低く唸った。
「確かに、そう見えるかもしれないな」
どちらかといえば娘の結婚に反対して連れ出してきた父親といった風情だが。真顔で言うダンカンに彼女はベッドに転がり込んで大笑いした。
カリアンは母親似の金髪を長く伸ばしている。面倒くさがりの本人は短い方がいいのに、父のシリオンが伸ばせと言うのだ。異民族区を出て人間の近くに行くときは髪を降ろしてエルフの耳を隠せとうるさいなんて愚痴を聞いた。
それで厄介事を遠ざけられるなら良いことだとダンカンも思う。
あるいはそれは、血気盛んな娘を少しでも大人しくしおらしく落ち着かせるためのシリオンの策なのかもしれなかった。かつてのアダイアとヴァレンドリエンの父娘めいた口喧嘩を思い出して口元が緩む。
戦いのことを考えなければいけないのに、彼女と話していると自然にそれを忘れてしまった。
でなくても彼女には何か、苦難を楽しむ力がある。行く先には底知れない暗闇ではなく希望が待っているんじゃないかと思ってしまう。
ベッドで寛ぐカリアンの隣に腰掛けて、ダンカンは剣を磨きはじめた。
「眠らないの?」
「ああ……」
「休んだ方がいいよ」
寝ればアーチデーモンの夢を見るだろう。それで奴の居場所が分かるかもしれない。でなければあちらがダンカンの不在を知り、オスタガーに奇襲をかけるかもしれない。もしかしたら今度こそ、あの甘い誘惑の声を断ち切れずに狂ってしまうのかもしれない。
己の最期が近づく気配を感じるにつれ、ダンカンは眠らなくなっていた。南にダークスポーンが現れてからはもう浅い眠りを小刻みに繰り返すだけだ。夢も見ない。見たくなかった。
「ダンカン、怖いの?」
それは君の台詞ではない、と思った。しかし声にならなかった。カリアンは眠たげに目を擦り、そのくせ力強い声音で話した。
「大丈夫だ。私が何とかするから、何とかなるよ」
まだ我が身に待ち受ける使命の真実さえ知らないくせにそんなことを言う。無責任なまでの彼女の明るさは暗がりに沈みかけたダンカンの心を照らし出した。
そう、怖いのだ。逃げ出したいほど、誰かに頼ってしまいたいほど、背負った使命を怖れていた。
こうして新兵を増やしては自分を追いつめる。彼女らに重荷を押しつけないために、まだ足掻けと叱咤するのだ。
すでに微睡みかけている彼女は、やはり口にしないだけで疲れていたのだろう。幼馴染みや会ったばかりの婚約者が人間に殺されて、自身も投獄を逃れるためにグレイ・ウォーデンに加わり戦場へ赴くはめになった。
傍目には足取り軽く好奇心であらゆるものを楽しんでいるように見えたとしても、蓄積される疲労や緊張が帳消しになるわけではない。
いま彼女の周囲には絶え間ない変化が起き続けていた。いかにブライトを優先すべき立場といえども仲間への思いやりをなくしてはならない。分かっていたはずなのに。
どうか生きてくれ。試練も、死に至るかもしれない儀式も、肉体を蝕む血の汚れも、黒き獣どもとの戦いも、ブライトも……いずれ来るダンカンの死をも乗り越えて、変わらない笑顔でいてくれ。
己が身一つでは自棄にもなろう。しかし君を守るためなら限界まで戦える。まだ死ねない、諦めてはならないのだと、決意を新たにする。
すやすやと寝ついたカリアンの肩まで掛布を引っ張りあげた。彼女もじきに夢を見るだろう。暗闇の主の虚ろな瞳に眺められるおぞましい悪夢ではなく、できることなら故郷での楽しい思い出を。
そっと彼女の手を握ってダンカンも目を閉じた。
オスタガーでもう一度彼女の手を握って、その時こそ久しぶりにぐっすり眠れる夜が訪れることを願った。
きっと普通の夢が見られるだろう。遠い昔になくしてしまった、光に満ちた楽しい夢。彼女ならそれを照らし出してくれるだろう。