もう帰れないと誰かが囁く



 彼女は訓練場にいた。簡素な旅装を纏い、杖さえ持っていなければ遠目には魔道士だと分からない。だが武装した集団にも怖じ気ることない無防備さが彼女の素性を示していた。ああいう華奢な女性が屈強な兵士の群れに混じると普通なら全身に緊張が満ちているものだ。しかし彼女からは弱者の空気を感じない。丸腰に見えて、その実なにより強力な武器を隠しているから。
 剣を持たずとも他人とは違う目に見えない力を秘めている。その自覚と安堵が彼女を魔道士たらしめていた。そんな機会があるかどうかはともかく、もし彼女に変装して身分を偽る必要があったら剣を持つよう提言した方がよさそうだ。でなければいっそ誰もが一目見て知るほどに彼女の容姿を広く伝えるべきか。今の彼女はどこかアンバランスで見る者を不安にさせた。
 彼女は兵士の何人かに声をかけ、今はライレンと話をしている。彼らに接点があるとも思えないが、実際あまり会話は弾んでいないようだった。使徒があからさまに沈んだ顔をしたところでライレンがこちらに気づき、私を見るなり顔をひきつらせた。……何なんだ。よからぬ話でもしてるんじゃないだろうな。
 彼らに歩み寄る足を早めた。部下のことは信用しているが、これは信用だけで容易に片づけられる問題ではなかった。大股に近づいてくる私に慌てふためき、ライレンは使徒との会話を切り上げて逃げるように走り去った。
 反乱に賛同しなかったテンプル騎士と魔道士が何名か審問会に加わっている。彼らは互いに最低限の節度を保って接していたが、やはり簡単に立場を等しくすることはできなかった。
 講和会議を生き延び、天の亀裂に挑んでアンドラステの使徒と噂されるようになった彼女が魔道士であったと知れ渡ると均衡が崩れ始めた。テンプル騎士は審問会における地位の下落を警戒し、魔道士は味方を得たと増長しつつある。近々また衝突が起きるだろう。

 軽く肩を叩くと彼女は野生のフェネックか何かのように凄まじい勢いで飛び退いた。……驚かせたのは悪かったが、そこまで怯えられると少し傷つくな。
「何の話をしてたんだ?」
「べつに大した話じゃない」
 素っ気ない態度ではあるが悪意は感じられなかった。彼女は確かに初対面から作戦室で挨拶を交わすまで、私が元テンプル騎士であることに拒絶反応を見せなかった。魔道士には珍しい。できればそのまま、この審問会の騎士たちとも友好的でいてほしいと思う。
「彼は、なんというか少し皮肉っぽい性格でね。悪い男ではないんだが。何を言われたにせよ気にするな」
「え?」
「ん?」
 何のことかと首を傾げる彼女に戸惑う。……言い争っていたわけではないのだろうか。
「揉めていたように見えたんだが」
「それで窘めにきたのか」
「い、いや、窘めるというか」
「なにも揉めてない。彼はテンプル騎士みたいだったから、教母ジゼルに会いに行くのについてきてくれないかと思ったんだ。他に仕事があるから無理だと言われた」
 魔道士とテンプル騎士には諍いが絶えないから……いや、何か違うな。ともかく私の懸念は杞憂であったようだ。よく分からないが、それならそれでいいことなのだろう。彼女は気弱そうな表情で眉根を寄せて私を見上げた。
「あなたは無理だろうな、指揮官だし」

 審問会の支持者を増やすため我々の存在を広める必要があった。手始めに彼女は接触を試みてきた教母に会いにヒンターランド地方へ向かうことになっている。暴徒と化した背教者だらけの地へ送るのに同行したい気持ちがないと言えば嘘になるが、フェレルデン各地へ派遣した兵士の統轄のためにも私はヘイブンから動けない。
 それにしても、テンプル騎士に同行を求めるとは、なんというか意外だ。
「あなたの旅にはカサンドラが同行できる。わざわざ自分で兵を集めずとも一人で行かせたりはしない」
 探求騎士は名が知れているし、私や他の顧問よりも人を惹きつけるため使徒の同行者にはうってつけの人材だ。悪魔に対して優位な能力も持っている。しかし彼女はその名を聞くとますます暗い顔で俯いてしまった。
「カサンドラは……ちょっと怖い」
「ちょっと、か?」
 その言い様はむしろ肝が据わっていると苦笑した。あれは大抵の人にとって悪魔よりも恐ろしい存在だ。しかし和んだ私に反して彼女は真顔だった。……いや、笑い事ではないな。彼女はつい先日まで、天の亀裂を鎮めるまで牢獄でカサンドラに尋問されていたんだ。
「あー……、カサンドラを恨まないでやってくれ。というのは難しいかもしれないが、」
「べつに恨んでない」
「そ、そうか」
 声音が硬くなっている。それは明らかに、私の無神経のせいだろう。

 当時、事態は切迫していた。神殿で大爆発が起こり教皇を含む多くの者が無惨に死んだ。戦争を終結させるはずの会議は破綻し、あろうことか天が裂けてフェイドから悪魔が降り注ぐ。世界の終わりと言っても過言ではない絶望のなかにあって、誰も何が起きたのか把握できていなかった。
 生きて戻ったのは彼女だけ。彼女だけが鍵だった。彼女に尋ねるしかなかったのだ。尋問者がカサンドラでなければもっと手酷い拷問にかけられていただろう……というのは彼女の身になってみれば無意味な言い訳だ。
 何も分からなかったのは彼女も同じ。いや、彼女は我々以下だった。意識を回復したとき彼女は爆発が起きたことさえ理解していなかった。混乱したまま手枷をかけられ尋問を受けた。奇異と疑惑の目、周囲のあらゆる人間から怒りを一身に浴びせられ……教皇を殺し、平和へのきざはしを破壊した犯人扱いだ。
 思い返せば我々は彼女に対する不当な仕打ちを謝罪してさえいない。フェイドの裂け目から現れた、唯一の生存者――助かったことが罪悪であるかのように責め立てたまま。
「使徒殿、その……」
 だが一体、何を謝ればいいんだ? 私は彼女に許しを請える立場になかった。不当に傷つけたことによる彼女の不信は甘んじて受けねばならないだろう。

 気まずい沈黙を打破する場所を探すように視線をさまよわせ、彼女はふと困惑した顔で私を見た。
「……ここ、怪我してる」
「え?」
 指された頬に触れると微かな痛みが走る。戦闘中に負ったものがまだ治りきっていないのか。あるいは知らぬ間にどこかで引っかけたかもしれない。
「ああ、こんなものは、」
 掠り傷以下だ、怪我のうちにも入らない、と言う前に彼女の右手が頬に触れた。視界の端に魔法の光が瞬く。無意識にそれを払いのけていた。
 見開かれた大きな目はリリウムを思わせる青。目覚めた彼女を最初に見たときは晴れた空のようだと思った。裂け目に隠され見えなくなっていた本当の世界の色がそこにある気がした。瞳を潤ませた今は深い海のような。彼女は右手を押さえ……泣き出しそうだ。
「ごめん、なさい」
「いや、私の方こそ悪かった、少し驚いただけだから」
 慌てて謝ったものの彼女は黙したまま俯いている。もはや明確な壁ができつつあった。
「あ、えー……あなたは癒しの魔法を使えるんだな」
「……」
「さ、最近ではあまり見かけないが」
「……」
「……すまない」
 重い沈黙だった。ひとたび自覚してしまうと小さな傷が途端に痛み始めるようだ。魔道士に会話を拒絶されたことは多々あるが、彼らの多くは最初から私を拒否していた。こちらの不誠実によって傷つけたのだと思い知らされると……どうすればいいか分からない。

「……指揮官カレン、気にしないで。あなたはカークウォールにいた……魔道士を受け入れられない気持ちは分かる」
「受け入れたくないと思っているわけじゃない。それだけは誤解しないでくれ」
 曖昧に頷きながら彼女は私から視線を逸らしていた。
「ここにテンプル騎士がいてくれてよかったと思ってる。私は……ただでさえ疑わしいから」
 魔道士は拒絶と批判に慣れている。しかしだからといって耐性があるということにはならない。彼らは他者の視線に対して過敏なのだ。魔法の才能を手にした瞬間よりそれまでの生活から拒絶され、塔においてはテンプル騎士から拒絶され、今は世界中から拒絶されていた。
 彼女はアンドラステの使徒としてあまりに多くの目に晒され、そのほとんどが攻撃的な色を帯びている。この……審問会で、平和と秩序を回復すると誓った我々のなかで、彼女が傷つけられるなどあってはならないというのに。

 今は天の亀裂と共に落ち着いている左手の印を所在なげに見やり、彼女は「尋問は不当なものではなかったと思う」と呟いた。
「この印、裂け目を開くことも閉じることもできる……。大法官の疑念は尤もだ。私以外の誰を疑えばいい? あの亀裂が私の仕業じゃないってなぜ言える?」
「だが、神殿でフェイドの記憶を見ただろう。講和会議には我々の関知しない闖入者がいた。その者が教皇を捕らえ、あなたも殺そうとした。爆発も天の亀裂もあなたの責任じゃない」
 それはつまるところ、我々が直面している問題がヴェイルの裂け目だけではなかったという証明にもなるが。混沌の裏で糸を引く何者かの存在が彼女の無実を証していた。
 確かに、人々にとっては彼女が原因である方がよかっただろう。批判が集まるのはそのためだ。邪悪な魔道士が左手に未知の魔法を携えて空を破壊したのなら、彼女の罪を責め彼女に立ち向かえば済むのだから。なにせ彼女は現実に、ここに立っている。剣をとり戦うことができるから。
 ……そう考えるのは、彼女自身も同じだったのかもしれない。彼女一人がいなければこんな事態には陥らなかった、すべての責任が彼女にあると思うのは……とても楽だ。
「自発的にやったとは限らない。私が引き金になったのかもしれない。何も証明できない。教皇がまだ生きている時、私もそこにいた。そして爆発が起こり、私以外みんな死んだ。なぜか私だけが生きてる。分かってるのはそれだけだ」
 生きてるだけで罪だと吐き捨て、左手の印を睨む。まるで親の仇のように。

 イヴリン・トレベリアンはオストウィックのサークルから代表団として講和会議に参加した。かの地は魔道士の反乱後もなんとか平穏を保っていた。筆頭魔道師と騎士団長が揃って来たのはオストウィックだけだった。
 彼女の生家、トレベリアン家は自由連邦の著名な貴族であり、一族ぐるみで教会とも親しくしている。だからオストウィックの筆頭魔道師は彼女を随行させたのだろうか。私はそれまで彼女がここにいる事実だけを認識し、なぜいるのかということを考えもしなかったが。
「誰かを亡くしたのか」
「……従兄が、テンプル騎士だった」
 平和を望む、ごく親しい仲間と共にヘイブンまで旅してきたはず。そして彼女は今、一人きりだ。
「オストウィックのサークルには、魔道士とテンプル騎士、二人のトレベリアンがいた。だから選ばれたんだ」
 魔道士とテンプル騎士、相容れぬ二者の飽くなき争いに終止符を打つために。そして……彼女だけが生きている。なぜかを証す手立てもなく、一人だけ生きている。共に戦ったものたちの屍に囲まれて。脳裡に蘇る記憶から強いて目を背けた。
 ただ一人の生存者となることは果たして主の祝福だろうか? 奇跡だと思えるか? 一緒に死ねたらどれほど楽であったことか。そのうえ私たちは、彼女が皆を殺したのだろうと責めたのだ。

「癒しの魔法が減ったのは反乱が起きてからだ。創造魔法が使えなくなった魔道士がたくさんいた」
「……ああ」
 そして能力を失ったテンプル騎士も。サークル・オブ・メジャイの魔法教育は教会への忠誠によって成り立っている。荒廃によって人々の心から信仰が磨り減らされ、我々の能力は本来の在り方を見失っていた。ヒンターランド地方に集うはぐれ者たちが背教者の魔法を封じられないのは、彼らがテンプル騎士の力をなくしたからだ。
「私も力をなくしつつある」
 癒しの魔法が宿っていたはずの右手を見つめ、彼女は呟く。印を握り潰すように左手を固く閉じたまま。
「何も覚えてない。それが、とても怖いんだ」
「あなたの……あなたが原因だとしても、罪はない。それは確かだ」
「私はそう思えない」
 そうか。彼女はサークルにいた頃のように監視されていたいのだな。魔法から、自身の内にあるものから、守ってもらうために、真のテンプル騎士を探しているのか。彼らがもうどこにもいないと絶望を胸に押し隠しながら。



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