震わせた欠落



 ヘイブンはとても寒かった。ウェイキング海を隔てた対岸、フェレルデンは自由連邦にもまして寒い国だと話には聞いてたけれど、実際に立ってみると想像以上だ。それともこの豪雪は天の亀裂の影響なんだろうか? そういえば講和会議の前、あの爆発の前はここまで寒くなかった気がする。
 爆発直後の記憶は私の中から消し去られていた。そして誰にも言ってないけど、会議が起きるまでのことも随分と忘れてしまっている。オストウィックを出て代表団の皆と旅をしていた間のことも……ちゃんと思い出せなかった。
 まっすぐに続いていたはずの記憶の道筋が途切れていた。靄がかった向こうの景色が見えない。忘れるはずのない大切な思い出でさえ、鋏で切り取ったみたいに失くなっていた。

 火を呼び出して暖まりたいけど私は炎の魔法が苦手だ。最初に魔道士の才能が目覚めた時から今までずっと思い通りの火を描き出せた試しがない。不意に誰かの顔が浮かんだ。小さなファイヤーボールを空中に留め置いて焚き火の代わりにしていた。その人の名前が思い出せない。たぶん、共に自由連邦から来た魔道士の一人だったと思う。
 どうして記憶に空白があるんだろう。あるいは爆発のショックで混乱してるだけかもしれない。だけど誤魔化しきれない左手の違和感が訴えかけてくるんだ。覚えていると都合が悪いんだ、罪悪感に耐えられなくて記憶を、世界を破滅に導いた記憶を、消してしまったのだと。
 天の亀裂を落ち着かせたことでアンドラステの使徒に仕立てあげられた私を、審問会は仲間として迎え入れた。もはや私が罪人であってはならない。だから彼らは、爆発は私のせいではないという。だけど真実を証明できる者などいないじゃないか。惨劇のあと天の亀裂が残り、私だけが生きていて、何も覚えてない。……疑う方が、理にかなってる。
 あのとき何かがあったんだ。そして私が爆発を引き起こしたのだろう。でなければ、私の何らかの行動によって爆発が起きて……みんな死んでしまった。自分への疑念、記憶の糸を手繰った先にある真実への恐怖が私に忘却を与えたんだ。忘れたいようなことだから忘れたんだろう。

 コートを着込み、フードを目深に被って顔を隠す。毛皮のついた手袋で指先まで包み込んだ。降り頻る雪からは身を覆い隠しても身体の中が凍りついてしまったかのように寒い。訓練に励む兵士たちの間をすり抜け、静けさを求めて教会から遠ざかる。投石機のところまで来ると人の気配はほとんどなくなった。
 そもそもこんな兵器を何のために置いてあるのかと不思議に思う。セダスのどこを探しても投石機の準備がある教会なんて見つからない。だからここに置いてあるんだろうか。教会にできないことを為すために、法と秩序を取り戻すために立ち上がった審問会だから、平和を阻む敵をいつでも殺せる仕度が整っている。
 でも誰と戦うつもりだ? 天の亀裂に岩でもぶつけてみるのか? 悪魔を脅かして追い払うのか? それとも反乱した魔道士やテンプル騎士を押し潰して殺すのだろうか?
 無意味なことを考えていた。辺りを見回し、手頃なものがないので諦めて投石機によじ登る。足が宙ぶらりんになるのを気にしなければ、座って遠くを眺めるには良い櫓だ。
 まだ空には大きな傷がある。悪魔は落ちてこなくなったけれど雪はヘイブンを埋め尽くそうと企んでるみたいに降り続いていた。早くあれを閉じなければ私も皆も凍えて死ぬだろう。私は、誰かを暖めるための魔法は苦手なのに。いつも人を傷つけてばっかりだ。

 急に肩を掴まれた。飛び上がりそうになるのを堪えて振り向くと、隣に指揮官がしゃがみ込んでいた。私の肩に手を置いて何かを言おうと口を開けたまま、呆然として私を見ていた。彼が近づいてくるのに、よじ登ってくるのにさえ気づかなかったなんて驚きだ。よっぽど呆けていたんだろうか。
「何か?」
「あ……ああ。いや、あなただったのか。職務放棄している密偵を叱り飛ばしに来たつもりだったんだが」
 気まずそうに頭を掻いて彼が手を離す。叱ろうとしていたと言うだけあって、掴まれたところがちょっと痛かった。
「どうしてそんな格好を? レリアナの部下と見間違えたよ」
「寒いから」
 それに顔と左手を見せなければ味方にも私の正体を隠すことができるとあなたのおかげで分かった、とは言わない。素っ気なく答える私に彼はなおのこと居心地の悪そうな顔になった。
「……あー、それでは、なぜこんなところにいるんだ?」
「誰も来ないから」
「……すまん」
 謝られると困ってしまう。あっちにも事情があったんだから仕方のないことだ。カレンは軍の司令官だもの、持ち場を離れている兵を見つけたら連れ戻しに来るのは当然じゃないか。誤解ではあったけれど私も紛らわしいことをした。私が一人になりたいからといって他人がそれを尊重する義務はないのに。

 ここは確かに職務放棄したい密偵が来そうな場所ではある。巡回の兵士と整備にやって来る工兵に注意していれば職務を放り出して寝転がっていたって誰も気づかないだろう。カレンは前にもここでそういう者を見つけて警戒してるのかもしれない。
 この兵器の上は静かで冷たくてずっと向こうまで見渡せて、サークル・タワーに似ているから安心する。壁と天井があればもっとよかった。塔の窓から空を見上げるのは好きだった。あの亀裂が口を開けるまでは。
 ちらりと隣を見ると、カレンはいつもの厳しい顔つきで訓練所の方を睨んでいた。もう用は済んだはずなのに立ち去らないのは、会話が気まずいまま打ち切られてしまったせいだろうか。
 立ち上がって見下ろすと、地面までは結構な距離がある。着地に失敗したら足を挫くかもしれない。杖を取ろうとして迷った。カレンはすぐ隣にしゃがんだまま困惑した表情を浮かべて私を見上げている。ここで魔法を使ったら不快な思いをさせるだろう。でなくても、驚いた彼が投石機から落っこちるかもしれない。……私は癒しの魔法もあんまり得意じゃなかった。
 思い切って足を蹴り、そこから飛び降りる。宙を落下している間に杖を翳して地面に障壁を張った。爪先から降り立てば衝撃は魔法に吸収され、少しの痛みもなく着地した。
「使徒……」
 戸惑いの隠し切れない声に振り返る。投石機の上に立ち、カレンがこっちを見下ろしていた。
「密偵だと思ったから来たんでしょう?」
 でも私は、そうじゃない。何者かを知ったからには近くにいたくないだろう。そして彼に背を向けるとまた歩き出した。

 指揮官カレンはいい人だ。ヘイブンにいるテンプル騎士……元テンプル騎士たちは、みんないい人だ。私が話しかけても嫌な顔をしない。近寄っても逃げない。彼らは私の故郷の騎士たちと同じくらい寛容で、なおかつ魔道士に対する警戒心を捨てていなかった。オストウィックを出たら警戒しなければならない、自分が魔道士であり、我々は世界に牙を剥いたのだと忘れるな、筆頭魔道師からは口を酸っぱくして忠告されたものだけれど、海のこちら側にもちゃんと秩序はあったんだ。
 反乱した魔道士たちの気持ちも分からなくはない。つらい暮らしをする魔道士がいるのも知っていた。でも、サークルを離れたいと思ったことは一度もなかった。戻りたくないと思ったことは一度もなかった。内なる力が私を喰らうのを止められるのはテンプル騎士だけ。彼らのいるサークル・オブ・メジャイは、私にとっては牢獄じゃなかった。私を守ってくれる堅牢な城塞だった。
 あの場所にとても帰りたい。でも、ダメなんだ。講和会議は――おそらく私のせいで――崩壊した。魔道士とテンプル騎士の間に横たわる亀裂からは今もひっきりなしに憤怒や絶望が振り撒かれている。左手の印は何の役にも立たなかった。
 ヴァル・ロヨーに行くのはいつ頃になるだろう。教会に糾弾されている私が彼らの前に立って話をするには、今のままでは弱すぎる。もう少し味方を増やし、もう少し注目を集め、もう少し強くなってから。すべて私の苦手なことばかりだった。
 林の方まで行ってみようか。あの木こり小屋なら誰も来ないかも……。べつに逃げ出すわけじゃない。ちょっとの間、誰も見てないところでアンドラステの使徒じゃなくなりたいだけなんだ。

 のろのろと歩いていたら後ろから規則正しく素早い足音が近づいてきた。立ち止まり、振り返る。少し急ぎ足でカレンが追いかけてきた。
 私の隣まで来ると、何かを言いかけてやめた彼は乱暴に頭を掻きながら悔いる者の橋を睨みつけた。さっきのも別に訓練所を見てたわけじゃなくて、単に私から目を逸らしただけだったんだとその仕草で理解した。
「用でもあるのか?」
「……あまり一人で歩き回らない方がいい」
「悪いことはしないよ」
「そうではなく。……ここにいるのは善良な者ばかりだと信じてるが、……あなたは女性だし、……つまり、その」
「まさか、心配してるのか?」
 驚いてカレンの目を覗き込んだら思いきり顔を背けられて少しだけ悲しくなった。でもそれ以上に、あまりにもビックリした。思いもしないことだった。彼が魔道士に悪意を抱いてないとしても、女の一人歩きは危ないなんて、そんな“普通の”心配を私みたいなものに向けてくる人は、“普通は”いない。
「身を守る術はある。知ってるだろうけど」
「あなたの能力を侮るつもりはないと理解してくれ。だが、そういう問題じゃない。一人で彷徨くのは感心しない。こんなところでは何か起きても誰も気づけない」
 まさにそれが目的だとも言えなかった。彼が何をそんなに心配してるのか理解できない。私を見張っていなければ不安だと言うなら分かるけど。物言いたげな視線に気づいたのか、カレンは大きく息を吐き出して重々しく告げた。
「……大法官がヴァル・ロヨーを発ったそうだ。教会の、我々に対する敵意は高まっている。彼はヘイブンに戻ってくる。何か目的があるようだ」
「彼を疑ってるのか? ロデリックがアンドラステの使徒を暗殺するとでも?」
「明らかな暴虐に走るとは思わない。だが、あなたが死に瀕しても彼が守ってくれることはないだろう」
 馬鹿馬鹿しいと一笑に付していい空気ではなかった。その言葉に同意したからではなく、カレンにとってその疑惑が重大だと理解したからだ。大法官が私の有罪を決定できないまま死を望むことはないと確信している。ただ、もし私が誰かに殺されれば彼は然るべき者に報いが与えられたと知って安堵するだろう。
 ロデリックに悪意を抱くのは難しかった。私は彼の疑いを否定するだけのものを提示できていないのだから。

「意外と、それで解決するかもしれない」
「何?」
「私が死ねば裂け目も消えるのかも」
 ヒンターランド地方でいくつかの裂け目を閉じた。そこで初めて気づいたんだ。……天の亀裂と共に鎮まっていた各地の小さな裂け目は、私が、この印が近づくと反応して活発化する。ほとんど透明な緑色の淡い光が私に気づいて口を開ける。そこから悪魔が飛び出してくる。私が行かなければ単にヴェイルのほつれでしかなかったものが、この印に触れた途端、フェイドへの入り口となってしまうのだ。
 考えてみれば、天の亀裂と共に広がり続けていた私の左手の印は、聖灰の神殿で亀裂を鎮めると同時に拡大を止めて落ち着いたのだった。あの空の裂け目と左手の印はどう考えても繋がっている。印を翳して裂け目を開くことも、閉じることもできる。だったら、印を消してしまえば、すべての裂け目も……。
「そんなことは言うな」
 どうして? だって私たちの目的は天の亀裂の封印だ。私にかけられた疑いが正しくても間違っていてもそんなことはどうでもいい。もしこの印を取り去って裂け目が消滅するなら。もし私がいなくなって世界が救われるなら。……私はきっと、迷わずそうするだろう。
 でも彼が拒絶する理由は分かっていた。
「誰だって危険を冒したくはないもの」
 もし私が死んで、印を失ったうえに亀裂は残されてしまったら? 後がなくなる選択肢は最後まで試したくないだろう。カレンは違うと言いたそうだった。でも彼の善良さが嘘を拒んでいた。彼らは私に“まだ”死んでほしくないだけだ。



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