海獣はすこしだけ不安になる
一つ問題が片づく前にもう次の問題が舞い込んでくるみたいだ。天の亀裂を閉ざすために助力が必要なのに、手を取り合うべき魔道士もテンプル騎士も世界に反旗を翻し、彼らを仲間に引き入れるためにまた審問会の力が足りないという。すべてを解決するまでに一体いくつの奇跡が求められるのかと腹が立ってきた。
そのうえ修道女レリアナは「フェレルデンとオーレイからグレイ・ウォーデンが消えた原因を探れ」なんて新たな問題を持ち込んでくれるのだから。
それは私がやらなきゃいけないこと? というのが正直な気持ちだった。もう、なんか、キレそう。誰かにぜんぶ押しつけて逃げたい。そのために左手を切り落とさなければいけないとしても私は喜んでそうするのに。
「……すべてのグレイ・ウォーデンが、って言うけど、フェレルデンには今でもウォーデンが一人いるじゃないか」
「アリスター王のことを言ってるなら彼を数に入れるべきではないわ。ウォーデンを抜けたわけではないけれど、もう何年もその一員として活動していないもの。彼は他の者たちが消えた理由を知らなかった」
まあ、この人が調べて確信を得たなら信頼に足る。本当に彼は何も知らないのだろうとは思うけれど。
フェレルデンのアリスター・セイリン王は先々代のマリク王の隠し子で、継承問題の拗れから第五次ブライトの直前にグレイ・ウォーデンとなった。そうして身分を捨てた彼はしかし、ブライトによって異母兄のケイラン王が亡くなった時、再びその素性を取り戻して玉座にのぼることとなった。
入団すればそれまでの人生は捨てなければならないとは聞いたことがあるけれど、入団したあとウォーデンを辞めたらその繋がりはどうなるんだろう? 王自身はウォーデンの使命に従事していないとしても彼がウォーデンとの関わりを絶ったわけじゃない。
「フェレルデンの救世主はどうなんだ? 彼女も他の者と一緒にどこかへ消えたなら、王が知らないはずない。あるいは、知らなくても問題ないような用事だと分かってるってことだ」
だって彼女は女王なのだから。アリスター王とは違い、今もグレイ・ウォーデンでありながら女王でもある。他にもたくさんの身分を持ってるけど。……ウォーデンの失踪はこの件に関係ないと私は思う。誰もがそう思うだろう。だけどレリアナは頷かなかった。
「彼らを疑いたくはない。だからこそ、目を閉ざすわけにはいかないの。人は信じたいことなら容易く信じ込むものよ。望まざる真実を否定したいがためにね」
審問会を発足するにあたってカサンドラとレリアナはフェレルデンの救世主に協力を仰ごうとしたらしい。だけどその時には、彼女はもういなかった。友人であるレリアナにさえ連絡がつかなくなっていた。アリスター王は彼女がブライトを調査するため旅立ったと発表したが、レリアナが言うには王も彼女の居場所を知らないそうだ。隠しているのではなく、本当に知らないのだと。
「でも彼らがいないのはそんなに不思議なことか? ブライトの最中でなければ、グレイ・ウォーデンの姿なんて元々ほとんど見かけなかっただろう」
「私は彼女が旅立ったあとも連絡を取り合っていたのよ。エリッサが返事をくれなくなったのは、講和会議の直前だった」
「……いくら犯人探しが行き詰まってるからって、フェレルデンの救世主を疑うのは馬鹿げてる。彼女が教皇を殺す理由なんてない」
「犯人だと疑っているわけじゃないわ。関わっていないかと心配なだけ。でも……必要なこととあらば何でもできる人なのよ。私には知り得ない何らかの理由があるかもしれない。彼女が教皇の死を望んだとは言わなくても混乱を求める理由があった可能性は……。そんなことをする人じゃない。でも、望めばこれくらいのことをできる人だと知っている」
冷静沈着を絵に描いたようなレリアナが混乱しているのを不思議な気持ちで見ていた。この密偵の長は、救世主が一連の出来事に関わっているんじゃないかと疑ってる。教皇の予期せぬ闖入者、神殿の爆発、天の亀裂……フェレルデンの救世主がこれを為す能力を持っていると言えなくもない。不可能と思われたことを次々と成し遂げた人物だから。
彼女がこの混乱を、望みはしなくても巻き込まれていた可能性は否定できない。例えば私の左手に印があるように、彼女の身に何かが起こっていたら。
レリアナは疑うと同時にそれを否定できるだけの証拠を求めていた。彼女が姿を現して「私はジャスティニアの死に関係ない」と言うのを望んでいるんだろう。実際のところ、グレイ・ウォーデンが姿を消した理由を知りたいのは、それが彼女に繋がっているかもしれないからだ。
第五次ブライトの英雄、フェレルデンの救世主、グレイ・ウォーデン提督のエリッサ・クーズランドは、如何なる称号を授かった後でも決して生まれ持った名を疎かにしなかった。彼女は教会に忠実だ。生家であるクーズランド城塞が修復される時も城教会の再建に貢献したし、アマランシンがダークスポーンの襲撃を受けた時だって母なる救世主教会の復興に尽力した。何らかの理由で教皇に殺意を抱き、教会の弱体化を望んだ存在が彼女だとしたら、個人的な資産まで割いてあれほどの支援をしないだろう。でなくても……、
「もしフェレルデンの救世主が関与していると仮定するなら私は、彼女はこんな半端な仕事をしないと反論する。彼女は疑いの余地を残さないだろう。アリスター王に害を及ぼさないために、姿を現すか、他の“犯人”を用意しておくんじゃないか?」
人々がウォーデンの失踪と教皇の死を結びつけたら、彼らの象徴たるフェレルデンの救世主、その夫がどんな厄介事に巻き込まれるのか彼女に分からないはずがない。それを防がず事に及ぶとは思えなかった。
アリスター王はレッドクリフに魔道士を匿っていた。セダス全土の背教者と元騎士がフェレルデンに集まってしまったのもそのためだ。講和会議の崩壊を救世主の仕業だとする疑惑が万が一にも広まったりしたら、王が魔道士の軍勢を私物化するための企みだなんて言われかねない。この戦争を終わらせたくないなんて……たった二人でブライトを押し留めた彼らが、そんなこと望むわけがない。
「ええ……そうね。確かにそうだわ。もしエリッサがこれに関わるとしてもアリスターの安全が間違いなく保証されてからでしょう。それに彼女の仕業ならもっと容赦がないはずよ。エリッサが混沌を望めば、天を裂き悪魔を降らせるよりも自分の手で世界にとどめをさすに違いないわ」
「……変わった信頼だな」
レリアナの表情に微かな安堵の色が浮かんだ。それでもブラックウォールは探すべきだろう。各地でダークスポーンの目撃情報もあがっている。グレイ・ウォーデンの抱える事情がどのようなものか、彼らが仲間になるか、あるいは私たちと敵対関係にないことを、はっきりしておかなくては。ただでさえ孤立無援に等しい審問会に、これ以上の敵は必要ない。
がんじがらめになりつつあった疑念を振りほどくように頭を振って、レリアナはしばらく眉間を押さえて俯いていた。やがて顔をあげた彼女はいつもよりちょっと親しみやすい微笑を浮かべて私を見た。
「あなたは確信を抱けるほど彼女について詳しいのね。フェレルデンの救世主として以外のエリッサは、あまり世間に知られていないのに」
「ブライトが起きた時、まだ私は子供だったけど……よく覚えてるよ」
オストウィックではグレイ・ウォーデン提督よりもアマランシンの女伯爵として名を知られていた。町の統治者にとって彼女は英雄である以上に強力な同盟相手だった。
歴史上、アーチデーモンのいない地表には現れないとされていた闇の落とし子たちは第五次ブライトが終わっても姿を消さなかった。アマランシンを襲ったダークスポーンに対処しながら、救世主はフェレルデンで蹴散らした獣どもが世界に散っていくことを懸念していた。伯爵領内でやつらの繁殖地が発見されたこともあり、ウェイキング海を挟んだ対岸にあるオストウィックにも厳重な警戒を呼びかけたのだ。
ブライトの発生と終結について真偽が定かでなかった時期に、彼女の行動は迅速だった。ダークスポーンを発見した際の対処法、グレイ・ウォーデンでなくともやつらを倒せること、その時に近づきすぎてはならないこと、やつらの死骸の始末について、手遅れになる前にすべてがオストウィックに伝えられた。
そんなにも情報を共有しようとするグレイ・ウォーデンはいなかった。彼らはもうほとんど伝説上の存在だったんだ。かつて彼らを乗せて天駆けたグリフォンと同じく、現実世界から消失したも同然だった。エリッサ・クーズランドが認識を変えた。彼女の伝言を我がトレベリアン家でも受け取っていた。「伝説に助けを求めるな。我々は自ら戦わねばならない」
アマランシンに巣食うダークスポーンが一掃された後、率いる者を失った怪物たちは彼女の危惧通りフェレルデンから溢れ出してきた。グレイ・ウォーデンは依然として沈黙していた。私たちのオストウィックは、救世主の助言のもと自らの身を守ることができた。
十三歳の冬、私はサークルに送られた。自由連邦を離れてキンロック見張り塔に行くことも考えたが、親類の反発を受けて諦めた。フェレルデンの救世主はその翌年に国を出た。
「……レリアナ、彼女はどんな人だった?」
ナイチンゲールの瞳に慈愛の光が灯り、歌うように囁いた。
「エリッサは私を打ち砕いてしまうのよ。彼女について考えをめぐらせようとしても思考がとりとめなく散ってゆく。あなたが彼女を知っていてよかったわ。私は、冷静でいられないから」
彼女は変化を察知してたんだ。これまでのブライトとは、ダークスポーンとは何かが違うと気づいていた。そして警戒を始めた。
彼女が仲間としてここにいないのはとても残念だ。きっと私たちを率いて戦ってくれただろうに。魔道士を救い、テンプル騎士の信を得て、ヴェイルの裂け目を塞ぎ、行方不明のグレイ・ウォーデンを探し出し、真実の剣で混沌を斬り伏せる。彼女なら簡単にやってのけただろうに。
ふと左手の印を見下ろした。裂け目と同じビリジアンの傷痕。生ける伝説とも言える彼女なら、この力を持て余して、逃げ出したいなんて思わなかっただろうな。