くるくるくりかえす
延々と高い塔を登っていくのは気が滅入る。先が見えないせいか、外が見えないせいか。
旅の間はフェレルデンの端から端まで走り回る日々、足が磨り減ってなくなるんじゃないかと思うほど歩きづめだったが、今こうしてデネリムの塔を頂上目指して登る方が堪えるように思う。歩行距離はずっと少ないはずなのに。
どこまでも続く石壁を手でなぞって歩きながら、サークル・タワーに行った時のアリスターの泣き言を思い出していた。
狭くて圧迫感があるのが嫌、どこまで行っても同じ景色で進んだ気がしないのが嫌、こんな牢獄に閉じ込められたらそりゃ反乱を起こしたくもなる、苦難と試練ばかりで気晴らしのひとつもないんだから……そんな愚痴を延々と溢していたな。
この階段は確かに曲者だ。空の下、まっすぐな道を歩けば自分がどこかに向かっているのだと分かるけれど、薄暗く曲がりくねった螺旋階段でひたすら足を動かしていると無限の回廊に迷い込んだような錯覚に陥った。
辿り着くべき場所、行く先が見えないという焦躁が魔道士たちの心を不安定にする。まともな思考が失われ、ひたすら我が身の不幸を呪いたくなる。
しかし塔を牢獄と考える魔道士がいる傍ら、そこで何十年も自由かつ健全な精神を保って暮らすメジャイがいるのも事実だった。
ウィンが言うところによると魔道士には隔絶された精神集中の場が必要であり、誰かと隣り合うことのない塔の構造は自分自身と向き合うのに適しているそうだ。
私が曖昧な顔で聞いていると彼女は「あなたにも分かりやすく言うなら、塔での暮らしは足腰を頑健にするわね」と笑った。尤もだ。あの年齢にそぐわぬ丈夫さは日常的な鍛練のお陰だろう。
塔での暮らしは気が滅入る。しかし言い換えれば精神と肉体の鍛練に適している。
人は誰でも自分とは違う道を歩む者を不相応に恵まれていると批難したがるものだが、結局、どこで暮らしていようと何者であろうと自己の責任から逃げることはできない。
幸せになる努力を実らせた者だけが幸せになれる。自由が失われるとすれば自ら扉を閉ざした時だけだ。
不自由を嘆く魔道士が塔から出たといって幸せになれるわけでもなく、牢獄の中にあってさえ、高潔な者は生きている限り使命を果たし続けている。
ようやく登りきった塔の頂上で、私を待っていたのはアノーラの穏やかな微笑だった。
「お話をしに来てくれて嬉しいわ、女王陛下」
そして皮肉。だがそこに然したる悪意が感じられないことに正直ホッとした。頭はともかく下半身がくたくただ。このうえ無意味な言い争いで疲れたいとは思わない。
事実上の囚人となったアノーラは、些かも気品を失うことなく長椅子に腰かけていた。勧められるまま彼女の隣に座って無作法に足を放り出す。かかとを地面に押しつけて、膝を伸ばすだけで凝固した疲労が少しマシになった気がした。
「処刑の日取りが決まったのかしら?」
「いや、まだだ。理由を決め兼ねてる」
「それは難儀なことね」
現状が続くならば彼女に死んでもらいたいと思っているのは確かだ。アノーラは王となったアリスターに膝をつくことを拒んだ。彼女は今も野心を抱いている。そしてアリスターに害意を抱くものたちは彼女を担ぎ出す隙を窺っている。
生きていられると困るけれど、彼女には処刑してしまえるような罪がない。無理に殺せば逆にアリスターが罪を背負うはめになるだろう。
味方にならないのなら不慮の事故で死んでほしかった。だが彼女を幽閉した堅牢なこの塔は、どういうわけだかアーチデーモンの攻撃を免れた。
ロゲインの娘とはいえ先王の妻、五年間この国を治めてきた親愛なる女王陛下。殺せないのなら生かすほかないが、今のアノーラはとても複雑怪奇な立場にあった。彼女をどうやって使うべきか迷っている。
個人的には、グワーレンに帰るかと尋ねたかった。かの地はアノーラの故郷だ。ロゲインに対する暴動の最中にあって幸いにもマク・ティアの邸宅は有志の手で守られていた。ロゲイン公爵のかつての偉業と、アノーラへの親しみが人々に善良さを残したんだ。
家へ帰るかと尋ねて彼女が頷き、それで済むくらい事が単純ならよかったのに。
アノーラは毒薬だ。彼女自身に敵対の意志がなくても、飲み干せば私たちは一息で死ぬ。その瓶は私たちの手にはない。目の届くところにいてもらわなければ困る。彼女をデネリムから遠く離れた公爵領に置くのは、あまりにも危険だった。
長椅子の背凭れに寄りかかる。手元にあったクッションを何気なく持ち上げて膝に乗せた。手作りの品だ。彼女の性分としてはきっと、暇を持て余すのは耐えられないだろう。気づけば部屋の中にはアノーラの作品がどんどん増えている。
「あなたにアリスターと結婚してほしかったな」
「その話はもう終わったわ」
「いや、これからどうなるか、まだ分からない」
「驚くほど諦めが悪いのですね」
「だからこうして生きてるんだろう」
私の返事に彼女は嫌味の色もなく軽やかに笑った。アリスターにはアノーラと結婚してほしかった。私ではなく。その方がずっと、彼を守るのは簡単だった。彼を幸せにするのも簡単だった。
彼女に死んでもらえれば助かるけれど、殺したいわけじゃない。というか、できるなら生きていてほしい。私だって彼女を敬愛する者の一人なのだから。
だけどその方法が見当たらない。たとえ明確に敵対していなくともアノーラは生きてるだけでアリスターに危険を呼び込んでしまう。
牢獄に囚われているのは彼女の方なのに、選択の権利を持っているはずの私たちこそ窮地に追い込まれていた。
アノーラは自分の状況をよく分かっていた。私やアリスターの一存で容易く処刑される身でありながら、こちらが剣の一本も持っていないことを知っていた。彼女を殺せば背後で待ち構えている影に刺し殺されるだろう。アノーラがそれを望んでいないとしても。
重く溜め息を吐いた。この提案はあまり気が進まない。でもアノーラを他にどうすればいいか、今のところ思いつかなかった。
「……ハイエヴァーに行ってくれないか?」
「それはファーガスの提案ですか?」
「いや。個人的にも公的にもどうかあなたを生かしてほしいという嘆願は受けている。でも公爵は自分が面倒を見るとは言わなかった。あなたを押しつけたら私は説教されるだろうな」
「そうでしょうとも。彼は私がもたらす面倒の大きさを、ちゃんと分かっているわ」
ブライトの被害がどんなに大きかった地域であれ少なくとも領主あるいはその家族、その部下が複数人は生きている。彼らは協力して自らの領民を助け、復興へのきざはしをかけることができる。
だけどファーガスは一人きりだ。導となる両親も、支えてくれる妻も、あとを任せるべき息子も……いない。ハイエヴァーには人が足りない。怯えきった民に手を差し伸べることのできる支配者が、たった一人しかいない。
アノーラは王宮でアリスターのために働くことに同意してくれないが、首都から離れてフェレルデンを動かせるだけの権力を欲してもいた。彼女の手腕は間違いなくハイエヴァーの役に立つ。けれど彼女に付きまとう内乱の影はファーガスを煩わせるだろう。
私はこの、行き着く先の見えない塔を登るという厄介な役目を、兄に押しつけようとしていた。
揃えた膝の上に肘をつき、開いた両手で顎を支える。アノーラは彼女に似つかわしくない町娘のような行儀の悪い格好で溜め息を吐いた。
「ファーガスを誘惑しようかしら。そしてハイエヴァーを手に入れてアリスターの玉座を覆すのよ」
「残念だが、兄は私が生まれた時から私には勝たないと決めてるんだ。彼を味方につけても勝負にはならない」
「……お兄様を信頼してるのね」
「家族だからな」
「父親を裏切った娘にそれを言うの?」
「父親を見殺しにした娘だから、あなたがそんなことをしないと分かる」
彼女が再び内乱を招くような愚かな真似をするはずがない。アノーラは確かに権力を求める野心家だが、それは自分にフェレルデンを守る力があると自負しているからこそだ。ひいては、フェレルデンを守りたいと痛切に願っているからだ。
「アリスターに忠誠を誓えないならファーガスに誓ってくれ。そして彼に力を貸してほしい。フェレルデンのために」
あなたの故郷のために。あなたが亡くした家族のために。ロゲインが守ろうとしたものを、どうかその志を引き継いでくれ。祈るような想いでアノーラを見つめていた。
「……ハイエヴァーには何度か遊びに行ったわ。あなたはまだほんの赤ん坊で、ファーガスに抱っこされてムスッとしていた。……あなたの提案に承諾します。私はそこから、アリスターの統治を見てみましょう」
無意識に握り締めていた拳から力を抜いた。私は自覚していた以上に怖れていたようだ。この手を、彼女の血で汚すはめになることを。
彼女がアリスターに降した評価が改められればよかったのだが。彼は渋々ながらも一度は結婚を承諾したのだし、アノーラが拒絶しなければ予定通りに二人は結ばれていたはずだ。
そんな思考を辿る私の瞳をじっと見つめ、彼女は「甘いことを考えないで」と呟いた。
「私はアリスターを愛さないわ。いつか許したとしても、決して彼の幸せを望みません」
「だが彼はあなたが思っている以上に、」
「私はあなたが思っている以上にケイランを愛していました。でも、恋してはいなかった。彼はそれを理解していた。私はあなたの前を歩いている。そして失敗したのよ、エリッサ」
父親似の冷ややかな青い瞳が私を射抜くように見据えていた。平淡な声で吐かれた彼女の言葉は私の心臓を取り巻いてゆるやかに絞めつけ、やがて鼓動を握り潰した。
「恨み言を吐きたくなるのよ。頭では理解していても、心を納得させたつもりでも、憎しみが溢れてくるのよ。あなたがアリスターを想うなら、私と彼が顔を合わせないよう心を砕くべきね」
「気に留めておくよ」
それでも諦めないとそっぽを向いて私が言うと、アノーラは「あなたはエレノアにそっくりよ」と苦笑した。
アーチデーモンを倒したのは私が一番そうするのに適していたから。それだけだ。いつだって、最も為すべきことをしてきた。今ここにアリスターを支えるのにもっと適した者がいるにもかかわらず、私がその役目を負うのは納得いかない。
「失敗を知る者の方が成功に近いということもある」
アノーラは癇癪娘の説得に失敗した時の母さんみたいな顔で眉をひそめた。彼女の方こそなぜだか私の母によく似ている。きっとアノーラも影響を受けたんだろう。母さんは誰の目も惹く人だった。
「それなら……なぜアリスターに決闘させたの? 誰が王冠を被るにせよ、剣を持つのがあなたなら、ロゲイン公爵……お父様は死ななかったでしょう」
再び彼らを結びつけることは可能だと信じていた。アリスターは今でも彼女の協力を必要としている。当初の予定とは違う形でもいい、アノーラに手をとってほしい。だから彼女の質問にまっすぐ向き合った。
「アリスターに任せたのは、私ではロゲインに勝つ自信がなかったからだ」
腕力も体力も敵わない。私の強味は毒と罠と駆け引きだ。正面切っての決闘では歴戦の勇士であるロゲインに勝てるかどうか、確信が持てなかった。胆力勝負なら私よりもアリスターの方が強い。
「私が戦えばおそらく殺されただろう。その後、アリスターが降伏するとは思えなかった」
「そうでしょうね」
もし辛くも私が勝てたとして、ロゲインを生かすほどの能力差はなかった。そうなればアノーラの憎悪はアリスターではなく私に向かい、彼らは結婚し、私はモリガンの要請を蹴ってアーチデーモンの息の根を止める。それですべては解決したはずだ。
……ああ本当だ、私はどうしてそれを選ばなかった? なぜアリスターに任せたんだ? せめて私がロゲインを殺していれば、失うのは私の命だけ。それで皆に安寧を与えられただろうに。
「もしあなたがロゲイン公爵に殺されたとして、怒り狂ったアリスターが諸侯会議の出した結論を踏みにじり剣を抜けば、それでもフェレルデンはまとまったでしょう」
アリスターの死を以て、か? マリクの息子という希望を失い、ロゲインが明確な勝利を手にして、彼だけが唯一の選択肢となれば皆はまとまっただろうか。それではブライトには対処できない。私たちは勝たなければいけなかった。
しかしあの段階では私もそれを知らなかった。本当にフェレルデンのことだけを思うなら、私自身やアリスターの死を厭わないなら、命を投げ出してロゲインに託していたはずではないのか。あの時は、ロゲインに負けてもよかったはずなのに。
……嫌だ。それは嫌だ。それはできないと心の奥底から叫ぶ声がする。
「内乱など起きていなければそれを信じられただろう。でもあなた一人では諸侯を掌握しきれなかった。全員の不服を抑えるにはセイリンの血が必要だった。分かってるはずだ。アリスターは生き残らなければならなかった」
「……そうですね。あなた方を失ったあと、私も公爵もフェレルデンを団結させることはできなかったかもしれません。血で血を洗い、敵対者を殺し尽くすまでは」
私たちはお互いを必要としていた。手を取り合わねばならなかった。ロゲインを生かし、アリスターとアノーラを結婚させる。それが最善の道だった。どこで選択を過ったのか、何度考えても分からなかった。それとも私が目指していたのは最善の道などではなかったのだろうか。
私はただ……死にたくなかった。ロゲインに負けても構わない、けれど死ぬのはどうしても避けたかった。私の死によってアリスターを破滅に導くのが怖かったんだ。それだけだ。
フェレルデンのために最善と考えたのではなく、ただアリスターを生かすためだけに、彼に選択を託した。そしてアリスターは断罪の剣を降り下ろしたんだ。
最も安全な道をはぐれ、無限に続く牢獄に足を踏み入れていた。闇に迷い焦燥と困惑が廻る螺旋の中で生きるとも……辿り着く未来にきっと望む世界があると信じて足を進めなければ。
私も大きな失敗を犯していた。今、その代償を払っているところなんだ。