がらんどうの庭
デネリムの港がまだ復旧していないのでハーパーとアマランシンに難民がごった返しているようだ。新しい使用人の内いくらかは彼らの中から見繕ってきた。
空っぽになった城塞に人を増やすことに関してアルフスタナ男爵が協力的だが、なるべく彼女に頼らずやっていきたいと思っている。悪い人じゃないんだが、商売上手な相手に借りを作ると後々が面倒だからな。
とにかく人手が足りないので、選り好みしてる余裕もない。
俺が公爵としてここに戻った時にハウの連れていた者は全員追い出したが、そいつらの中からでもエリッサが認めた人間ならハイエヴァーで働くことを許した。すでに兵の何人かはあの男の謀略に無関係であると証明してクーズランドの紋章を掲げている。
クーズランド城には音が戻ってきつつある。静寂には飽き飽きしていたからありがたいことだ。静まり返った我が家ほど不気味なものはない。
今では居館から、中庭から、食堂から、厨房から、詰め所から、城のあらゆる場所から忙しく働いている人々の声がする。喧騒に耳をすましてるだけで心が落ち着いた。
アノーラがこっちへ来てくれたのも大いに助かった。いずれ彼女はデネリムに戻るだろうが、やはりアリスターの王位が安定するまでは離れているのが賢明だ。前女王を塔に幽閉していると、いろいろ厄介なところを刺激してしまう。
俺としても、アノーラがこっちに来たお陰で何もかも一人でやらなくて済むようになり、すごく気分が楽になった。
彼女ならうまくやってくれるだろう。然るべき場所に然るべき人物を置き、ハイエヴァーが息を吹き返すのを手伝ってくれるだろう。まあ、むしろ彼女がやるのを俺が手伝うと言った方が正確かもしれないが。
菜園は数日前までハウ家の庭師が手入れしていた状態のまま、彼が引き上げたあとはエリッサが連れてきた農夫に与えることにした。その隣にある温室にアノーラが立っている。
ここは今のところ誰も触るなと言ってあった。焼け落ちた草花を取り除いただけ、未だ何も植えられていない黒い土をアノーラはじっと見下ろしている。
母さんは花を育てるのがあまり得意ではなかった。野菜や薬草の方が好きだった。だから庭の一部をオリアナに与え、目の肥やしになるような花を育ててほしいと頼んだ。オリアナが咲かせた花は冬の最中でさえ城を色鮮やかに飾ってくれた。
庭師に任せる気にはなれなかった。ここは女性の場所だ。城中に飾るための花を育む場所だ。だから今、城塞には花が一輪もなかった。
俺を振り向き、アノーラは無表情に言った。
「母はバラ園を丹精していました。王宮では、それは私の役目ではありませんでしたが」
そうだな、たぶん花にかまけている時間もなかったんだろう。アノーラはいつだって忙しかった。
新しい女王はどうするだろうか。もし慌ただしい季節を乗り越えて一息つく時が来ても、エリッサは母さんに似て花を育てるのが苦手だ。どこでどう手助けしてやればいいのか分からず世話をしすぎたり放ったらかしすぎたりして枯らしてしまう。
あの繊細なようで大雑把な妹は、花を世話する人を見ている方が好きだった。
何かを育てるってのは素晴らしい仕事だ。それが美しいものだとすればなおのこと。いつまでも庭が荒れていると心も和まない。
「もしよかったら、この庭を私にくれませんか?」
「ああ。俺と結婚すれば君の庭だよ」
迷いなく返した俺の言葉にアノーラは面食らったようだ。極めて珍しい呆然とした顔にちょっとばかり勝ち誇った気分になる。まあ無理もない。俺は前々から考えていたことだが、彼女にとっては寝耳に水だろうからな。
「……えぇ? ちょ、ちょっと待ってください、ファーガス? いったい何を、」
「アノーラ、結婚してくれないか?」
重ねて言葉を明確にすると、彼女は目を見開いて息を呑んだ。
我が家は元々、人が少なかった。長い歴史の中で多くの戦乱に巻き込まれ、婚姻による親戚関係は残っているが純粋なクーズランドの血を引くのはもう俺とエリッサだけになってしまった。
この血を絶やしたくない。義務以上に感情としてそう思う。両親が、祖父母が、それ以前の幾人ものクーズランドが守ってきた血脈を俺の代で終わらせたくはなかった。
「正直言って我が家は風前の灯なんでね。俺には跡取りが必要だが、伴侶を探すためにそれほど時間の余裕があるわけじゃない」
しばし固まっていたアノーラは、思案げに俯いた。幸いなことに嫌ではなさそうだ。
ケイランの妻とはいえ王家を離れた彼女を、私欲のために利用したいと思う者はこれからもあとを絶たないだろう。今のうちに気心知れた俺とくっついてしまうのは彼女にとっても悪い話じゃないはずだ。
だがアノーラは、沈痛な面持ちで微かに首を振った。
「あなたがクーズランド家の子を望むなら、私は向かないかもしれませんよ。ご存じの通り……私はケイランの子を産むことができませんでした」
「それは分からんだろう。君とケイランはあまり一緒にいなかった」
「ですが、もっといい相手がいるのは間違いないでしょう。なぜ私なのですか」
アノーラには似つかわしくない謙虚さに苦笑した。彼女より“いい相手”なんて世界にどれだけいるんだろうか。
彼ら夫婦には五年の間に世継ぎがもうけられなかった。そのことに関するくだらない噂はいろいろあるが、すべて俺にはどうでもいい。
単に彼らが一緒に過ごす時間が少なすぎただけのことだろうと思っている。ケイランは高潔な妻と向き合うよりも気安い友人たちと過ごすのを好んだ。そしてアノーラは、花を愛でる暇もないほど政務にかかりきりだった。
体質の問題じゃないだろう。一体、彼らにいつそんな機会があったっていうんだ。
もし……ケイランが遊び歩いている間にアノーラが不貞を働き、他の男の子供を身籠りでもしたら、彼は悲しみと安堵に浸ることができたかもしれない。だがアノーラは決してそんな愚かな行為に走らなかった。それがまたケイランを傷つけていた。
彼は彼女を尊敬しすぎていた。彼女に劣る自分を認められなかった。彼女に釣り合う男になれない自分を許してやれなかった。ケイランは能天気に見えて根が生真面目すぎたんだ。
マリクにもロゲインにも、そして妻であるアノーラにさえ、劣等感を抱いてしまっていた。
俺は良くも悪くもケイランより図太いし、鈍いと思う。女性と真正面から戦ってはいけないことを知っている。もちろん負けてもいけないが、やるなら勝てる勝負だけを仕掛けるんだ。ケイランにはそういう姑息さが足りなかった。
育ちの複雑さのお陰か、アリスターにはそれがある。庶民育ちの姑息な図太さは王宮でとても頼りになるだろう。あいつはきっと、うまくやれる。
まあ、そう考えればアリスターとアノーラを結婚させたがるエリッサの思惑もあながち間違いとは言い切れない。あの二人は相性が良さそうだ。しかし俺だって捨てたもんじゃないと思うぞ? アノーラにうまく操ってもらう自信もある。
ぼんやりと花のない温室の花壇を見下ろしているアノーラの隣に立つ。誰かがここをまた明るくしてくれればいいんだが。
「俺は一人で時間を過ごしたことがなかったんだよ。朝起きて夜寝るまでいつも誰かと一緒だった。今まではな」
「……クーズランド家は仲睦まじかったものね」
そう、幼い頃は父さんや母さんと、妹が生まれてからは彼女と犬と、結婚してからはオリアナと、そしてオーレンと。オスタガーに行くまで、俺は一人になったことなんてなかったんだ。
軍のキャンプに到着し、斥候に出て数日で部隊がダークスポーンに襲われたあと、チェイスンドの集落で目を覚まして、しばらくはまともに喋ることさえできずにいた。ようやく起き上がれるようになり自分の身に何が起きたのかを知った。
共に城を出てきた兵士は誰も生き残っていなかった。体力が戻って荒野を出てみたら、オスタガーに入る前、最後に立ち寄ったロザリングの村が壊滅していた。……あの時は本当に、この世の終わりのような気分だった。
避難民たちからダークスポーンの侵攻のことと各地で災難が起きているという噂を聞きつつ、ヒンターランド地方を北へ向かって一人で歩いた。途中の村でオスタガーの戦いがどうして終わったかを知ることができた。
噂は錯綜していた。グレイ・ウォーデンについての悪い話を聞いた時は、どうか妹が勧誘を受けてはいないようにと願った。そしてまた俺の後に城を発ったはずの父さんがどうなったのかを知りたかった。
とにかくハイエヴァーと連絡をとることだけを考えてデネリムを目指した。母さんに、エリッサに、オーレンに、オリアナに……会いたくて堪らなかった。その想いだけで歩き続けた。
首都に着いた時、ようやくハイエヴァーに関する噂を掴んだ。それはまったく信じ難い内容だった。メッセンジャーを捕まえてエリッサに手紙を出した。公爵領から返ってきたのは無事を伝える返事ではなく、ハウが差し向けたアサシンだった。
絶望する暇もなかったのは、今にして思えば幸運と言えるだろう。俺の生存に気づいたハウから逃れるため、デネリムを去り身を隠した。ハイエヴァーに帰ることができず、そのおかげで家族の死を信じずに済んでいた。正直、真実を明らかにするのが怖くて北へ向かえなかったというのもある。
逃げ回っている間に噂をかき集めて、どうやら生き残りのグレイ・ウォーデンとやらがエリッサを指しているという確信を得た。だが、彼女を探すことさえできなかった。
もし俺が城にいたら。襲撃の最中あいつらのそばにいてやれたら。せめて兵士の大部分が城に残っていたら。考えても意味のないことばかり頭に浮かんで気が狂いそうだった。
そうして一人生き延びた妹のことを考えた。エリッサが苛まれているであろう孤独と生き延びてしまったことへの罪悪感を想像したら、会いに行って無事を伝えてやれない自分が許せなかった。
俺はエリッサが生きていると知っていた。でもあいつは、俺が死んだと思っていただろう。どんなに辛かったか。
「……もう、一人は嫌なんだ。耐えられないんだ。本当に」
デネリムでアリスターに会った瞬間どんなに心が救われたか、彼にはきっと分からないだろう。誰にも分かるはずがない。
この手から無情にも零れ落ちたもののことが頭を占め、死にそうなほどの後悔に苛まれていた時、エリッサは一人じゃなかった。アリスターがいてくれたんだ。
俺がその場にいられなかった我が身を呪わしく思う以上に、皆の最期を見届けたエリッサは苦しんだはずだ。それでも彼女が孤独と向き合う時に支えてくれる者がいた。彼女は守られていた。その安堵。
妹は、もう大丈夫だ。そして振り返ってみると、がらんどうの我が家だけが俺に残されていた。
元通りにできないことは分かっている。エリッサが死に物狂いで築き上げたものに背を向けさせて、俺のもとへ連れ戻せるわけもない。妹はアリスターのもとにいるべきだ。俺は一人でこの家を背負わなければならない。それでも……。
何もかも失われたと思い込んでいた。だからこの手に残された最後の一片のために、エリッサのために、彼女が帰る場所を守り通すのだ。俺たちの家を。
「君がグワーレンに戻りたいと言うなら俺に引き留める権利はないだろう。だがどこかへ行くつもりなら、その行く先をここにしてほしい」
俺が差し出した手をアノーラの青い瞳がじっと見つめていた。
第一にエリッサのため、第二に自分のため、第三に義務のため。俺には新しい家族が必要だ。しかし類い稀な誰かと出会って恋をして愛を育んで家族を……、なんて最初からやり直すには時間が足りない。
俺はオリアナを愛している。彼女に匹敵する女など見つからない。オーレンより愛しい子供など生まれてこない。だが、どれほど泣こうが悔やもうが彼らは喪われたんだ。
同じものを求め続ける限り永遠に立ち止まるはめになる。あいつらのために泣くのは、それを許してもらえるだけのことをしてからだ。立ち止まってめそめそしている男になんて、オリアナが惚れてくれるわけもない。
俺はあいつらを失望させるわけにはいかない。だから、また誰かを愛そうと思う。
アノーラはこの痛みを知っている。愛する者を失う瞬間に為す術もなかった悔恨を。そこに縛られるのは彼らへの侮辱にあたるということも。俺はアノーラが好きだ。妙なやつに奪われたくないくらいには。
もし嫌じゃないなら承諾してほしい。彼女を家族として迎えるのは容易い。
そしてアノーラは、おずおずと俺の手をとった。
「分かりました。式はすぐに挙げましょう」
「そうか! 嬉しいよ。……ん? いや、式は急がなくても構わないが」
安堵と共に、気の早さに少し動揺する。結婚の申し込みで驚かせた仕返しだろうか。アノーラは自分が優位に立ちたがる性格だからな。落ち着いてからでいいと言う俺に、彼女は急ぐべきだと首を振る。
「あなたの妹君は今でも私とアリスターを結びつけたいと考えています。私が決してそうしないと理解していながら諦めてはいません」
「あー、あいつは頑固だからなぁ。どんな無茶も押せば通ると思ってるんだよ」
「ですが、あなたが再婚すれば彼女は動揺するでしょう」
「そこにつけこんであっちにもさっさと式を挙げさせちまおうってか? 末恐ろしい計画だね」
だが良案だな。少なくともアリスターは乗ってくるだろう。エリッサを諦めさせ、弟のためになるならそれもいいかもしれない。……それに、アノーラがあの妹の性格を理解してくれていることが嬉しかった。
エリッサはアリスターに恋をしている。本人が自覚してるかどうかは分からないが俺から見れば一目瞭然だった。彼の過去を満たすために、自分が一番愛しているもの、大切なもの……家族、血の温かさ、世界との繋がりを与えてやりたいのだと思う。
たとえアリスターの意志に背いても。自分が彼を手放すはめになっても。身勝手には違いないが、相手の必要とするものを全力で与えてやるのがエリッサの愛情だった。
俺はアリスターにも、そしてもちろんエリッサにも幸せになってほしい。だから弟に家族を与えるために妹が諦めるなんてことは許せない。
オーレンが生まれた時のあいつの喜びっぷりを覚えている。昨日のことのように思い出せる。あんなに子供好きだなんて知らなかった。はしゃぎすぎて部屋中を跳ね回り扉に頭をぶつけて大泣きした。もう人前で簡単に泣く歳じゃなかったってのに、あの意地っ張りが赤ん坊みたいに号泣したんだ。
あやすように頭を撫でてやりながら俺が尋ねたら、エリッサは泣きじゃくりながら「こんなに不注意だったら私はオーレンを抱っこできない、一生できないかもしれない」と言ってまた咽び泣いた。
それを聞いてオリアナが、笑いながら言ったんだ。……私が見ていてあげるから大丈夫よ、と。エリッサはおそるおそるオーレンを抱き上げて、この上なく幸せそうな笑みを浮かべた。
その命に触れて、抱き上げて、熱と重さを感じてほしい。もう一度あいつに、あの喜びを味わわせてやりたい。だからエリッサはアリスターと共にいるべきだ。そして俺には新しい家族が必要だ。
エリッサの献身を踏みにじることになってもいい。あいつはアリスターの手を離してはいけない。彼らの問題について俺にできることは少ないだろうが、可能性があるなら決して諦めない。幸せを拾い集めたらそいつは皆で分かち合うものなんだ。