薬指にスピカ
中庭には月の光が差し込んでいた。居館の廊下に比べれば空が見えるこちらは明るかったが、それでも視界は暗くて頼りない。
闇を切り抜いたような人影に出会した時は心臓が止まりそうになった。静けさと影に取り囲まれ、亡霊が現れたのかと思った。それは向こうも同じだったようで、俺とファーガスは互いの顔を確認すると気まずい苦笑を交わした。
「どうした、こんな時間に。迷子になるぞ?」
「一応エリッサの部屋までは帰れるよ。道は覚えてる……はずだから」
もし迷ったら彼女が探しに来てくれるかもしれない、なんてちょっと期待してたんだが、この城であいつに亡霊を見つける危険を冒させるわけにはいかないから何としても自力で帰るつもりだ。
なに、来た方へ引き返せばいいだけなんだからきっと大丈夫だ。たぶん。おそらく。
こんな時間に、ってのは俺の台詞でもあるかと思う。ファーガスは温室を眺めて随分と長い間ぼんやりしていたようだ。この真っ暗闇に一人で庭に立ってるのは心にも体にも良くないんじゃないか。
何やってるんだ? と俺が聞いたら、答えにくかったのか彼は「眠れんのなら一緒に飲むか」と聞き返してきた。
城主である彼の部屋はエリッサがいるところからすぐだ。正直、うろ覚えの暗い道程を一人で歩かなくて済んでホッとした。
エリッサの部屋も立派なものだったが、公爵夫妻が揃って暮らせる城主の寝室はそれ以上だった。でっかいベッドに二人して乗っかり胡座をかいた。それでもまだ持て余す広さがある。
手渡された蜂蜜酒をグラスに注いで、ファーガスの瞳と同じ色だなんてことを考えながら甘い香りを飲み干した瞬間、「そいつには滋養強壮効果があるんだ」なんてと言われて噴き出しそうになった。
噎せて咳き込む俺に大笑いしつつ彼は自分のグラスを呷る。
「今日も“夜更かし”するんだろ?」
「いや! 今日はもう、だって、俺よりエリッサの体力が持たないって」
「まあ、今はそんな余裕ないだろうけどな。結婚式のあとから一ヶ月ってとこか」
「な、何が?」
まだ酔っ払ったわけでもないのに顔が赤くなって戻らない俺に、酔っ払いみたいなニヤニヤ笑いを浮かべてファーガスは「蜜月だよ」と囁いた。
「結婚したら新婦は家に籠って蜂蜜酒を作るのさ。で、そいつで精をつけて子作りに励むわけだ」
……レッドクリフに戻ったティーガン男爵から大量の蜂蜜酒が贈られてきたのはもしかしてそういう意味だったのか。ほとんど全部オグレンに飲まれたけど。
まあ、な。本来なら今は結婚にいい時期だ。刈り入れで人手が必要となるこの季節は嫁取りのために結婚式が増えるんだと、教会にいた頃に教母から聞かされた。
収穫を前にブライトの汚染を受けて放棄された畑も多く、次の冬を無事に越せるか心配しなきゃならない今……、女王が子作りに専念してる余裕はフェレルデンにはなかった。エリッサが一年後と言ったのはそんな理由もあったんだろうか?
苦難を乗り越えてこの国に再びめでたい季節がやって来たら、俺たちも結婚式を挙げる予定だ。
あいつが俺に飲ませるために蜂蜜酒を作ってる光景ってのは、どうもうまく想像できないが、考えただけで耳の辺りまで熱くなってくる。それを指摘してファーガスはますます上機嫌になった。
彼は昼間あれだけ妹をからかい倒したくせにまだ足りないらしい。だからって俺に矛先を向けるのはやめてほしいぜ。
義兄の陽気さは不思議な感じがした。常に冷静なエリッサとは正反対なようでいて、どこかが間違いなく似ている。
彼らの両親を俺は知らない。彼女の昔を俺は知らない。だけどエリッサと兄ファーガスを並べて見ると、クーズランド家の像が浮かび上がってくる気がした。会ってみたかったな。エリッサが振り返る懐かしい思い出の中に俺も一緒にいられたらよかったのに。
「……あなたが生きていてよかったと思うよ、ファーガス」
本当に強く思う。その安堵を伝えたかった。俺がどうしても取り戻してやれなかったものを、ファーガスは生きてるだけで彼女に与えてやれるんだ。エリッサの大切なものはすべてが失われたわけじゃない。彼女の記憶を分かち合ってくれる人がここにいる。
ファーガスは神妙な顔をして頷いた。
「俺もあいつもこの部屋で、このベッドで生まれたんだ」
「えっ」
言われて改めて部屋中を見回した。時間の残像がないかと探した。俺には見えないが、確かに存在するんだ。彼女がグレイ・ウォーデンではなかった時が、両親に抱かれ慈しまれて育った時がこの部屋に満ちている。
胸を衝かれて黙り込んだ俺をひっぱたくように、ファーガスはすべてを台無しにする言葉を吐いた。
「まあ、生まれる前の段階からしてこのベッドで行われたわけだが。両親は何もかもここから始めたんでな。つまり、子づく」
「あー! そっち方面の話はもういいって!」
焦って遮る俺にまた大笑いして酒を呷る。根っからそういう話が好きなのか、俺の苦手分野だと知ってわざとやってるのかどっちなんだ。
いろんな意味で体が熱くなってきた。今夜はファーガスの部屋に泊まるべきかもしれない。エリッサのところに戻ったらベッドから蹴り出される予感がする。
「……エリッサは、蜂蜜酒を作るようなタイプの女だったのか?」
「そうだな。あいつは夜更かしが大好きだったよ」
ガンと音がしそうなほどの衝撃が頭に響く。分かっちゃいたが、彼女の奔放さを兄から聞かされるとキツいものがあるぞ。
「でもまあ、駆引きをして遊ぶのが好きだったからな。大体いつも美人を口説き落として楽しんでた。お前みたいなタイプは、いなかった」
「美人を口説くのは今もやってるけどね」
旅の出来事に思いを馳せる。レッドクリフの娘たちだとかサークル・タワーで逃がしたブラッドメイジ、デネリム酒場のウェイトレスたちやデイルズエルフの狩人、改めて考えると確かにあいつは知的な美人に弱いようだ。なんてこった。俺と正反対じゃないか。
俺はずっと、エリッサの社交的な部分は自身の内面に人を踏み込ませないための嘘だと思っていた。でも彼女の内にある感情に触れた今は、あれも真実の一部ではあったんだと分かる。
エリッサは本当に人と関わるのが好きなんだ。誰かと接して影響を与え合い、変わっていくことを楽しんでいる。たぶん心を捨てても表向き愛想のよさを保っていたのは、生来の性格を演技に貶めてしまうことでグレイ・ウォーデンという別人になろうとしていたんだろう。
「あいつが軟派なのも素なんだろうなぁ」
「いやー、口説き上手はオリアナ譲りかな」
「……えっ?」
思わぬ名前が出てきて目を見開いた。あなたの奥さんって軟派な性格だったのか、とはさすがに聞けなかった。不躾にもほどがある。ただ、エリッサから僅かに聞かされてた義姉さんの話では、もっと貞淑なイメージがあったんだが。
「アンティヴァ人だったからさ。フェレルデンとは気候からして違うだろ? 暑い国ってのは人間だけじゃなく家も開放的なんだ。それで風通しがよすぎて、連れ合いがどっかに飛んでっちまわないように愛の言葉が発達するんだとよ」
「……エリッサの美人に弱いとこは絶対ファーガスの影響だと思ってたんだけど」
「ど〜〜いう意味だ、おい。言っとくがオリアナは初恋の相手だぜ。父さんが初めて恋したのも母さんだったらしいしな」
意外だ。意外すぎる。青天の霹靂ってやつだ。もはや絶句状態の俺にわざとらしく顔をしかめ、クーズランドの人間は一途なんだと怒ってみせた。
「伴侶により大きな愛を捧げるために愛することを学ぶのさ。エリッサが経験して育んできた愛は今やすべてお前のもんだ。あいつは同時に何人でも愛せるだろう。だが、そんなことはしないんだ。絶対の忠誠を得ているのはお前だ。お前だけだ。たとえ同じくらい愛し得る者がいたとしても、彼女が愛するのはお前だけなんだよ、アリスター」
並べ立てられた言葉を脳裏に染み込ませながら、やっぱり人を惑わせる口説き文句はファーガスに教わったんじゃないかと疑っていた。いやしかし、オリアナという人はこのファーガスの愛を勝ち取ったんだよな。それだけでどんなに魅力的だったか知れるってもんだ。
エリッサの周りには彼らがいた。彼女は彼らに囲まれて育った。俺がエリッサに惹きつけられるのも当然じゃないか。
酒瓶がほとんど空になり、二人揃って赤ら顔になり始めた頃、ファーガスがぽつりと囁くように尋ねてきた。
「グレイ・ウォーデンってのは、本当に子供を作るのが困難なのか」
「……俺が知る限り、洗礼の儀を受けたあと子供ができた例はない」
「エリッサはいくつか前例のないことをしでかしてるみたいだが?」
「うーん。正直に言うと、分からないよ。例がなくても“できない”と証明されたわけじゃないしな」
できにくいと言ってもどの程度かは分からない。アーチデーモンを倒しても死なずに済む抜け道があったように、ただ秘密にされているだけかもしれない。
その秘密は俺たちが思ってるより悪い話かもしれないし、良い話かもしれない。あるいは秘密なんてなくてやっぱり穢れを受けたグレイ・ウォーデンは子供が作れないのかもしれない。
「でも、世継ぎが必要なら養子をとればいいと思ってるよ。その方が、俺の血を引くやつより出来がいいだろう」
重要なのは血じゃなくてセイリンの名なんだから。俺も育ちの都合上、実の子に拘りはない。
確かに不安もある。俺はその子に罪悪感を抱かずにいられるだろうか。俺の勝手な都合でその子の運命を左右することに、耐えられるだろうか。あれだけ軽蔑していた父親と同じことをするはめになるんじゃないかと。
だけどフェレルデンにどれだけ親のない子がいるんだ? そいつらの一人が少なくとも家を手に入れられるなら、王子にされても死ぬよりマシだろうとも思う。
俺の硬い表情を見つめ、ファーガスは小さな溜め息を吐いた。
「なあ、アリスター。お前は自分の子を、王位継承権を持った子供としてしか見ないのか?」
「え……」
「生まれてくる子はエリッサに似てるぞ。そしてお前にも似てるんだ。どんなに愛しいか想像してみろ」
俺に似てる。彼女にも似てる。きっとファーガスにも似てて、俺は顔を知らないが、おそらく彼らの両親や祖父母にも似ていて、あらゆるクーズランドの人間に繋がっていて。
「お前が親を快く思わないのも無理はない。だが彼らがいなきゃ、お前は生まれなかった。エリッサと出会わなかった。俺はお前を作り上げている血と肉に感謝してるよ」
顔立ちだけじゃない。癖や仕種や表情、考え方や言葉選び。周りで成長を見守るすべての人間がそいつの中に受け継がれていく。そしてまたそいつが子供を作る。
あまりにも壮大で、想像しろと言われても難しい。だけど俺と彼女の血が混じり合い、脈々と続いていくと考えるのは、それはなんだか、とても、焦がれるような気持ちになる。
改めて自分の子が欲しいかと聞かれると分からなくなった。……そりゃ、欲しくない、わけじゃない。でも俺の子供時代よりも素晴らしいものを与えてやる自信がないんだ。俺の父親より上等な育て方ができるか分からない。なんせ、親にもらったものが何もないんだ。
でもエリッサの子が欲しいかと聞かれると、欲しいに決まっている。彼女が俺たちの子を抱いているのを想像したら。
愕然とする俺を見つめていつの間にか真面目な顔になっていたファーガスが続ける。
「俺は先祖の守ってきた連鎖を哀しみで終わらせたくない。俺もまた家族を作るが、お前たちにも諦めてほしくはない」
「いや、諦めたわけではないけど……って、ええ? さ、再婚するのか?」
「するよ?」
「だってそんなに……」
「だってこんなに亡き妻を愛してるから、俺はあいつに相応しい男でいたいんだ」
思わずファーガスの左手を見た。その薬指に輪が嵌まっていないことに初めて気がついた。でも、なくしたわけじゃない。どこかにしまってあるんだ。心のどこかにしまい込んでもそのまま大切にできるんだ。彼は。
俺はできるのか? もし彼女との間に子供ができなかったら。たぶん周囲は“世継ぎ”のことしか考えないだろう。もし彼女と離れることになったら。もし彼女を……失ったら、俺はエリッサのために違う誰かを愛せるんだろうか。その危険はいつもあったんだ。
俺の煩悶に気づいたのかファーガスは苦笑しながら俺の肩を叩いた。
「できなかったら、ってのは別に考えなくても構わないと思うぜ。好きな女が隣にいるのにそいつを……失った時のことなんか心配しなくていい。それに関してはエリッサが先回りしすぎなんだ」
失うことばかり考えて愛するわけじゃない。覚悟を決めるのと諦めるのは別の問題だ。俺がモリガンの謀に乗ったのもエリッサを死なせないためだった。彼女を失わないためだと思うからできたことだ。
「……あいつに似た女の子なら欲しいかもな」
聞こえるか聞こえないかの掠れた呟きをファーガスは聞き逃さなかった。
「男の子もいいもんだぜ。何なら欲張って両方だ」
そのためにも、と言って注がれた最後の酒を笑って飲み干した。
さてと空っぽのグラスをテーブルに置き、ファーガスはベッドから立ち上がった。チェストの引き出しを開けて小さな銀塊を取り上げる。
「これをお前にやるよ。職人は自分で見つけてくれ」
「うん……?」
いまいち話について行けない俺の左手を取り、ファーガスはそれを手のひらに乗せる。銀塊、かな?
「この近くにある銀山で採れたものだ。我が家では何百年もの昔からそこの銀で指輪を作って妻や夫に贈るんだ。その人への永遠の忠誠を誓ってね。エリッサも自分の塊を持ってたはずだが……襲撃の時になくしたみたいだな」
本当はエリッサに渡すべきなのだろうが、お前の手から贈ってくれないかとファーガスは言った。俺は呆然とそれを見つめた。
普通、こういうのは俺が用意すべきなんだ。妻を守り養うだけの財産と能力があるか、彼女の家族に示すために。だが俺には何もなかった。身一つ、心一つしか彼女にあげられなかった。言葉で信じてもらうしかなかった。それを知ってるから、ファーガスは……。
「銀の指輪はいいぞ? 手入れしなきゃすぐ色が変わっちまうからな。毎日見張ってれば、なくして嫁さんに怒られることもない。父さんも俺もこの塊から指輪を作ったんだ」
「俺……でも……こんな、……いいのか?」
「お前以外の誰にやるんだよ」
言うや否やファーガスの手が伸びてきて俺の髪をグシャグシャにかき混ぜた。この仕草を嫌そうな顔しつつも決して拒まないエリッサの気持ちが理解できた。喉元から熱いものが込み上げてくる。
彼としては落ち着かせるためにやってるんだろうが、俺はむしろ動揺が悪化するばかりだった。こうやって俺に親しみを示してくれるやつなんていなかった。グレイ・ウォーデンに加わってからは家族同然に迎え入れてもらえたが、その頃にはもう大きくなりすぎてたし。
……子供扱いされて、無条件に甘やかされたことがない。そういう時期が俺にはなかった。
守るものが多いと身動きとれなくなる者もいるが、ファーガスは逆だった。愛情を注ぐ相手が多いほど彼は強くなる。彼によく似たエリッサもそうなんだろうか。少なくとも俺は、義兄のようになりたかった。
「あの……義兄さん。あ、……ありがとう」
慣れない言葉に舌がまごつく。兄であり父親でもあったファーガスは、すべてを包容する深い笑みを浮かべた。
「妹を頼むよ。そう言える相手がいてよかった。ありがとう、アリスター」
血が沸騰している気がした。俺の熱で手のひらに乗せた塊が溶け出してしまうんじゃないかと心配になった。
守るために。失わないために。与えるために。血の穢れや王位の存続を心配するよりも、エリッサの面影を受け継ぐ子供たちの姿を夢想する方がいい。
彼女に相応しい男になりたい。彼女の中で脈々と流れ続けているものに俺も加わりたい。俺も彼女に素晴らしいものを与えたい。不安に足を止めるよりも、その輝かしき未来を現実にするために何を為すべきか考える方が、ずっと素敵だ。