下劣なホルン吹き
レッドクリフへ向かう前に休息が必要だ。そんな時間がないのは分かっているが、諸侯会議のためにデネリムを駆け回って疲れ果てたままダークスポーンと戦うのは自殺行為に等しい。
ましてエリッサはドラコン砦を脱出してから座って息をつくことさえしていないんだ。眠っている暇はなくても、一時間でもいいから休まなければ。
そうやって捻出した時間をしかし彼女は穏やかに過ごすつもりはないようだった。
イーモン伯爵は先に軍を連れてレッドクリフに戻っている。嘘みたいに静まり返った邸宅で俺とエリッサは向かい合っていた。普段の冷めた瞳が信じられないくらい、怒りに燃え盛る彼女を前に呆然と立ち尽くしている。
叱責を受けることは分かっていた。諸侯会議の場でエリッサの計画を台無しにしたんだから当然だ。それでも、咄嗟に俺と結婚するなんて道を選んだ彼女に、許しを請う機会はあると思っていた。俺の見通しはいつも通りに甘すぎたのだろうか。
「……ロゲインを殺すなと言ってあったはずだ」
「剣による決着を求めたのは向こうだ。予定通りにいかないこともあるさ」
「決闘はあなたが勝った。ロゲインには降伏の意思があった」
そして俺はそれを認めず、その場で奴を処刑した。アノーラは結婚話を破談にし、再び膠着した会議の決定権を握ったエリッサは、俺を王位につけることを選んだ。
彼女はロゲインを生かしたがっていた。俺を王として皆に認めさせるためには既に女王として君臨していたアノーラの影響力が必要で、俺たちを結びつけておくための条件がロゲインの生存だったから。
政治のため……それだけのことだと思っていたが、エリッサの焼けつくような怒りを見たところ、彼女は単純に……ロゲインに生きていてほしかったのかもしれない。認めたくないし、理解もできないことだが。
「俺はあの男に贖罪の機会を与えてやるべきだったとは思わないね」
「あなたがどう思うかは問題じゃない。彼はフェレルデンの英雄だったのに……」
「過去に英雄だったからといって罪が許されるわけじゃないだろう。かつてロゲインが何者だったにせよ、オスタガーであいつは裏切り者になったんだ。その裁きを受けただけのことだ」
「……彼の罪が死によってしか贖えないものだとしても、名誉は与えられるべきだった」
「なるほど。お前が俺の異母兄をオオカミに食わせたみたいにか?」
「ケイランとグレイ・ウォーデンは終わった戦争を再び招こうとしていた。ロゲインはフェレルデンを守ろうとした。そしてあなたは、私たちから彼を奪ったんだ」
エリッサやイーモン伯爵の、貴族の考え方ってやつが俺には分からない。彼らにとって過去は今の自分自身と密接に関わっている。俺には遠い昔に生きていた赤の他人だとしか思えない先祖たちが為してきたことを、自分の一部であるかのように言うんだ。
彼らにとってオーレイとの戦争は終わっていなかった。憎しみを捨てろという権利は俺にはないかもしれない。だが、30年前ロゲインが如何に偉大であろうとも、今犯した罪を許す理由にはならないのは確かだ。
俺にとってロゲインは過去の英雄であり、優秀な指揮官で、その信頼を裏切った卑怯者だった。彼らにとってフェレルデンの英雄たるロゲインは、父親にも等しい存在だ。イーモン伯爵でさえ、できることならあの男を味方に引き入れようと望んでいた。
「だが、お前自身も言ってたじゃないか。今フェレルデンを襲っている脅威はブライトだ、オーレイじゃない。憎しみは分かるが、手を取り合わなければならなかった。その機会を壊したロゲインが罪人でないと言えるか? ケイランが死に内乱が起きて、ウォーデンが死んでブライトが広がったのは誰のせいだ」
どう思うかが問題じゃないと言うならロゲインだって同じだ。あの男にとっては裏切り行為が国を守るための苦渋の決断だったのかもしれない。そうだとしても、結果としてはあいつがフェレルデンを破滅に導いたんだ。
グレイ・ウォーデンを殺したのだから。俺がそう言うと、エリッサはより一層ぎらつかせた瞳で俺を睨む。
「あなたは、ウォーデンはブライトが終わった後のことを考えたのか? 招き入れたオーレイ軍と、疲弊したフェレルデンと、用が終わって立ち去るだけのグレイ・ウォーデン。何が起こると思うんだ? 厄介事を持ち込むだけ持ち込んで、ウォーデンはその問題に関与しない。ロゲインは確かに過ちを犯したが、この国を引き裂いたのは彼じゃない」
そうさせたのはグレイ・ウォーデンだと吐き捨てる。彼女は俺を他人として扱っていた。キャンプで交わした会話とはまるで違う、会議の演説みたいに話している。それがショックだった。
「でも、ブライトに……」
「ブライトさえ終われば満足なんだろう? あなた方はフェレルデンを守るために戦っていない。愛するものを守るために戦っていない。ただブライトだけが目的だ。アーチデーモンさえ殺せばすべてが丸く収まるとでも思っているのか。私たちの愛する祖国がシュヴァリエによってずたずたに引き裂かれても、それはあなた方には関係がないのだろう」
……オスタガーで、アーチデーモンを引きずり出すまで戦い続けるにはオーレイの援軍が必要だった。一国の軍隊だけでいつ出てくるかも分からない邪竜を監視しながら戦い続けるのは不可能だ。
だがその後フェレルデンとオーレイ帝国の間に起きることをウォーデンが気に留めていたとは言い難い。ダンカンは分かっていたかもしれないが、確かに……それは重要ではなかった。
グレイ・ウォーデンにはブライトだけが重要だった。援軍としてやってきたオーレイ人どもがそのまま侵略を始めたとしても……、ウォーデンは何もしなかっただろう。
ただ背を向け、ブライトの終わった土地から立ち去るだけだ。そこに国としての破滅が迫っていたとしても。
エリッサは憎しみを抑え込もうとするように俺から目を逸らした。それはつまり、矛先は俺に向いているということだ。ダンカンへの恨みを俺とは無関係なものとして切り離していた彼女が今、俺のことを“グレイ・ウォーデン”扱いしている。
だが不思議と、悲しくはないんだ。衝撃的ではあるけれど。……彼女は間違いなく俺を見ている。
「でも……こんな話に意味はない。あなたがロゲインを殺したことが問題なんじゃないんだ。それが王の判断なら誰も構わなかった」
「俺の判断だ。そして俺を王にしたのはお前の意志だろ?」
「ダンカンのためだとあなたは言った。国のためではなく、グレイ・ウォーデンのために、やつらの名誉のために彼を殺した。それが王の判断だと? ……私はもうあなたを信頼しない。信じられない」
「だから俺と結婚するなんて言ったのか。“暴虐の王”を監視するために?」
「あなたはグレイ・ウォーデンである以上に、この国の王でいなければならなかった。そうしてくれると思っていたのに!」
心臓を掴まれたような気がした。床を睨みつける目から溢れた涙は、今までエリッサが堪えてきたもののごく一部でしかないだろう。本当なら俺はそれを拭ってやりたかった。だが俺が差し出した手は嫌悪を以て拒絶された。
エリッサは俺がロゲインを殺さないと信じていた。彼女のために、俺が復讐心を捨てると信じていた。グレイ・ウォーデンである以上に王たることを選ぶだろうと。……俺はその期待と信頼を裏切ったんだ。
「あなたはロゲインを許さず、ダンカンを選んだ。私が私であることよりも、ブライトを、ウォーデンの使命を選んだも同然だ。なら私はあなたの前でエリッサ・クーズランドになどならない。それがお望みなんだろう?」
「お、俺はそんなこと……!」
「……私が、誰かを愛することを止めさせたのは……人間であることを、先に踏みにじったのはあんた達じゃないか」
取り澄ました笑顔の裏に隠された彼女の本当の気持ちが知りたいと願い続けてきた。使命のためにと圧し殺してきた彼女の心に触れたかった。
実際こうして涙を流す彼女を見るのはあまりにも……痛くて辛い。一番それを味わわせたくない女に、よりにもよって俺が、彼女を悲しませている。
突き刺さるのは「もう信じられない」という彼女の言葉だ。
正直言って、エリッサはアノーラを選ぶと思っていた。俺はアノーラとの結婚を承諾したが、ロゲインを生かすことに同意はしなかった。俺かアノーラか、二者択一を迫られたら彼女は俺を捨てると思っていた。
まさか王として信頼されてるなんて考えてもみなかった。こんなに深刻な裏切りになるなんて思わなかったんだ。
「そうだな。お前を納得させられる言葉はない。ロゲインを殺す理由はいくらでもあったが、生かしておけない理由は特になかったな。俺はただ、あいつを許せなかっただけだ。認めるよ。あの男が俺の行く道の邪魔だったから、殺したんだ」
「つまり、玉座にありながらあなたが愛するのはフェレルデンではないということだ」
「違う! お前が信じようと信じまいと、王になったのはウォーデンの使命に権力を利用するためじゃない、フェレルデンを守るためだ。愛するもののためだ」
「あなたが慈しみ深い人間だというのは知ってるが、愛国者だとは思えない。ここを故郷だなんて思ってもいないくせに」
彼女の邪魔をする覚悟はできていた。でも、傷つけるなんて……失望させるなんて、そんなに信頼されていたなんて、気づいてなかった。それは俺の過ちだ。欠けた信頼を取り戻せなくてもそれは俺自身の責任だ。
エリッサが俺の選択をいつか許してくれるかは分からないが、それでもこれは譲れない。確かにダンカンの仇を討つためにロゲインを殺した。だがそれは単に、彼を家族のように想っていたからだ。
これから先“グレイ・ウォーデンであること”は捨てる。俺が王になる決心をしたのは、断じてウォーデンのためじゃない。俺の愛するもののためだ。
「フェレルデンは俺の故郷じゃない。でも、お前にとってはそうだろう」
「……何を言ってるんだ?」
「お前はアノーラを王位につけることもできた。もしそうなれば、仕方ない。俺はグレイ・ウォーデンとしての責任を果たすつもりだった。でも、お前は俺を選んだ。いい王になると言ってくれただろう。……父にも等しき人の仇を、裏切り者を野放しにするのがいい王だとは、俺には思えない。ロゲインを殺したのは王としての判断だ」
「……でも、あなたはフェレルデンのことなど想ってはいない」
「言ったはずだ。俺は君を愛してる。好きな女の故郷を踏みにじるような真似は決してしない。王になったのも……ロゲインを許せないのも、愛するもののためだ。俺のやったことは全部、ウォーデンの使命とは関係ない」
そうだ。俺はフェレルデンを故郷だなんて思っていない。ただ偶然ここで生まれて育ったというだけだ。俺の故郷はオスタガーで滅びたんだ。でも、愛する女の故郷が大切じゃないはずもないだろ?
冷静さを取り戻すべく彼女は唇を噛み締めた。もう涙は止まっている。だからと言って悲しんでいないわけじゃないとも分かっている。
間違いを犯したとは思わない。だが彼女を傷つけ、悲しませたという事実は胸に刻みつけておかなきゃならない。
「……あなたを御しきれると思っていた。私の過ちだな」
「まあ、驚かせることはできたよな? もうちょっと楽しいことならよかったんだが」
許しは請わないつもりだ。もしロゲインの存在がどれほど彼女の拠り所であったのか理解できたとしても、俺はやっぱりあいつを殺しただろう。醜い王になるというアノーラの言葉を完全には否定できない。
それでもエリッサが一緒にいてくれるなら、きっと大丈夫だ。彼女がそうじゃなかったとしても、俺の方はエリッサを信頼してるからな。
ロゲインを殺すと決めた時、仇敵であったハウ伯爵を殺してエリッサの心がどうなったのかを考えていた。彼女は彼を慕っていた。だからこそ裏切られた怒りは大きかった。喪失の悲しみだけじゃない。彼女の憎しみは、それまでの愛情の証だ。
彼を憎むほど、エリッサは俺のことなど考えてはいない。彼女の心に俺は存在しない。まだ単なる道具でしかなかった。だが今、俺の裏切りに彼女は腹の底から怒っている。
許されなくても構わない。……何なら憎んでくれてもいい。
それでも君はここにいる。俺のそばにいて、歪ながらも俺を必要としてくれる。それが一番の望みだった。
もしかしたら俺が壊した関係はもう修復できないかもしれない。彼女は二度と俺を受け入れないかもしれない。でも、気にもかけられないより憎まれる方がマシだと思える。だからまだ終わってはいない。