泥水をすする
傭兵部隊の売り込みを受けて嵐の海岸へ向かったトレベリアンは、約一ヶ月が経った今日ようやくヘイブンに帰還した。代表者に会い話をして契約の是非を決めたらそれで終わりだと思っていたのだが、探索にでも熱中していたのだろうか。それにしても遅かった。置いて行かれたカサンドラが壊した練習用の木人形は、もはや両手の指で数えられなくなっている。
「随分と長くかかったな」
「う〜〜……」
「何か問題でも?」
「そういうわけじゃないんだけど」
ザ・アイアン・ブルの突撃兵は彼女が戻るより何日も早くやってきて既に審問会に組み込まれている。クナリ族の率いる寄せ集めの兵士たちということでやや不安なところもあったのだが、彼らはオーレイ帝国で高い名声を得ているらしく意外にもすんなりと軍に馴染んでくれた。貴族の評判も上々だ。それどころか突撃兵の参入を受けてセリンファールへの随行を申し出てきた家もあるほどだから、ありがたいでは足りないくらいの心強い仲間と言える。
しかしトレベリアンは微妙な顔をしていた。突撃兵についてはともかく、嵐の海岸での仕事は彼女にとってあまり満足のいく出来ではなかったようだ。
「何度も行きたい場所じゃなかったから、ついでにやれる仕事を全部やっておこうと思って長居した。遅くなってごめん」
「いや、私は別に構わないのだが」
ついでの仕事というとレリアナの依頼だろう。少し前に海岸沿いで目撃されたグレイ・ウォーデンの一団を探していたようだ。自己主張の激しいフェレルデンの救世主を除いて彼らは元々あまり表の世界に姿を現さない。捜索が難航して一月もかかったのだろう……と思ったら、トレベリアンはあっさり「違う」と首を振った。
「私も、レリアナが『南部からウォーデンが消えた』なんて言うから無理な仕事だと思ってたんだけど、彼らの痕跡は簡単に見つかったよ。キャンプ跡も残ってたし、日誌とか旅の記録もほとんど置きっぱなしだった」
「妙だな。持ち去る余裕もなくどこかへ消えたのか」
「ウォーデンたちは誰かを探してる。その“彼”はブラックウォールじゃないみたいだ」
彼というなら救世主でもない。もちろんアリスター王でもないだろう。どうやらこの厄介な時世にグレイ・ウォーデン内部でも問題が起きているらしい。難儀なことだ。レリアナの疑念に同意するわけではないが、気掛かりには違いない。
傭兵のように気軽な扱いはできないにせよ、きっと彼らはブラックウォールのように我々の仲間となってくれたはずだった。
他にはこれといってなさそうだ。トレベリアンが傘下に加えたヘサリアンの剣士についての報告は二週間ほど前に届いていた。あとはヒンターランド地方でも拾った委細不明の欠片をいくつか発見し、遭遇したすべての裂け目を塞いで帰還。
あの海岸付近には住民が少ないが、だからこそ領主の目が行き届かなくなる。使徒が隈無く探索しなければ平穏はあり得なかっただろう。
「では、お疲れ様。あなたの名が広まっているお陰でもうじきセリンファールへ行けそうだな」
せめて達成感と明るい話題を与えてやれたらと思うのだが、彼女はなぜだか更に不機嫌になってしまった。
「……セリンファールって暖かい? 私が行く頃は晴れてるかな?」
「え? さ、さあ……。まだ雨の時期だからな。嵐の海岸ほどの大雨に見舞われることはなくとも、快晴を望めないのは確かだろう」
ブレシリアンの森周辺は真夏でも曇天に覆われる。年中乾くことのない土地だからこそ冬にも自然が豊かなのだが、日陰で雨に打たれて育つ動植物は魔を惹きつけるのが難点だ。森に程近いセリンファールの砦もまた同様だった。あの場所は陽気とは程遠い。
貴族諸氏の都合をつけるため彼女がルシアス・コリンと会うのは年明けになると思われる。緩やかに雨が降り続く頃だろう。それでも北部の激しい嵐に比べれば過ごしやすい小雨に過ぎない……、どうも彼女は同意してくれなさそうだが。
「ああもうやだ。雨なんて嫌いだ。もう濡れたくない。うんざりだ」
申し訳ないとは思いつつも心底から嫌そうな顔をして項垂れるトレベリアンに笑ってしまう。……素直に愚痴を吐くのは気を許している証かと思えばそれも嬉しかった。
「あなたは並の魔道士よりも体力があると思っていたんだが。そんなに疲れたか?」
「疲れたなんてものじゃないよ! 泥だらけで歩きにくいし変な虫とかいっぱいだし、ずっと雨が降ってるだけであんなに消耗するなんて思わなかった」
真冬のヘイブンに降る雪が一番の敵だと思ってたのに違ったんだと真顔で告げる彼女は珍しく本当に怒っている。確かに彼女は鍛えられているが、所詮はトレベリアン家の庭園で剣技を習いサークル・タワーの石床を歩いて育った身だ。危険に満ちた外の世界、悪路の旅というものには慣れていない。
「岩場で滑るし靴に水が溜まるし下着までびしょ濡れだし服は重たいし」
まだ服が水を含んでいるのではと疑うように彼女はローブの襟元を引っ張って中を覗き込む。見てはいけない部分まで見えてしまいそうで慌てて目を逸らした。
「カレン?」
「い、いや、何でもない」
頼むからもう少し自覚を持ってくれと叫びたかった。あなたは女性で、私は男なのだから。打ち解けてくれるのはありがたいが無防備すぎるのも困ってしまう。それに服が伸びる。
悪路だけではなく、トレベリアンは天候の変化にも弱い。考えてみればもっと早くに気づいて配慮すべきことだった。サークル・タワーは障壁によって気温や湿度まで一定に保たれている。幼い頃そこに連れて来られて以来めったに外へ出ることもない魔道士は、普通の人間以上に雨風や雪、強い日射しには不慣れなのだ。薄暗く静かで狭い場所。人が牢獄と揶揄する塔の景色こそが彼女の故郷だった。
筆頭魔道師ヴィヴィエンヌが「使徒は洞窟を好みすぎる、もっと華やかで人目につく場所で冒険をさせるべきだ」とレリアナに進言していた。もちろん、世間に知られない密かな場所で活動してはアンドラステの使徒たる意味がない。だがトレベリアンはそれを好むのだ。まるで地表に出てきたばかりのドワーフのようだと少し思う。
「……オーズマーにでも行ければ楽しめるだろうな、あなたは」
「いいね。屋根と壁があるところは好きだ。地底回廊で暮らしても構わない」
「それはさすがにどうかと」
自由と混沌を隔てるものはない。彼女の求める秩序は他者による監視と守護が不可欠だ。トレベリアンはサークルに戻りたがっている。意図せず手にしてしまった強大な力を抑え、自分の代わりに見張ってくれるテンプル騎士のいる場所へ。身体を打つ雨風の吹かない安全な家へ。
塔を牢獄とは捉えず自身にとっての利点を見出だし適応する。始めは、人々が皆このように謙虚であればと思っていた。しかし最近は何か違うような気がしてならない。トレベリアンは決して謙虚なのではなく……、何だろう?
ハイエヴァーと西方丘陵に面した海は領主の監視も行き届いている。だがその中間に位置する、港を拓くには厳しい土地柄の海岸沿いは謂わば無法地帯だった。荒れ狂う海が真っ当な人々を遠ざけ、だからこそフェレルデンの目を盗んで上陸しようとする者が集まってくる。
審問会の軍を展開して周辺を制圧し、ヘサリアンの剣士という同盟も得たが、残念ながらトレベリアンにはまた嵐の海岸へ行く機会もあるだろう。アンドラステの使徒直々に出向かねばならないような厄介事が起こった時に。私がそう言うと彼女は見るからに悄気てしまった。妙な罪悪感に苛まれるのでそんな濡れた仔犬のような顔をしないでほしい。
「雨のない季節ならいいのにな。雨宿りしようと思って洞窟に入るとクモが巣を作ってるし……最低だ」
「クモが嫌いなのか」
「だってあいつら、図書室に巣を作っちゃうから。天井から落ちてくるのも嫌だ。本をかじるのも困る」
なるほど。人の気配がなく豊富な書物があり過ごしやすい室温。クモのテリトリーはトレベリアンのそれと似通っている。
海岸を歩き回る間に嵐を避けて入った洞窟にはほとんど必ず先客がいたのだという。「私はディープストーカーも嫌いだ」と憤慨する彼女に「地底回廊にはクモとディープストーカーが掃いて捨てるほど居るらしい」と教えると、青い瞳にみるみる涙が滲んで焦る。そんなに嫌いなのか……。
しばらく如何にクモが怖いかということを熱く語っていた彼女が不意に黙り込んだ。その視線が何かを探すように宙を彷徨う。
「聖灰の峡谷……フェイドから脱出する前、クモに追いかけられたんだ」
「講和会議のあとの話か?」
「私は殺されそうになってた。あの……女の人が、私に手を伸ばして……どうなったんだ? あれは誰? どうして彼女は私と一緒に助からなかったんだ?」
この話は彼女がアンドラステの使徒と呼ばれるようになった出来事の核心に通じている。きっと無理矢理にでも聞き出すべきだ。しかし恐怖に青褪めた彼女の顔を見ているとどうしても気を削がれる。幸いここにはカサンドラもレリアナもいない。朧気な告白を耳にしたのは、それを追及できるのは私だけだ。だから私は……聞かなかったことにしよう。
緊張から固くなっている彼女の肩を軽く叩き、途切れた記憶の向こう側を覗こうとするのを敢えて引き留めた。思い出さない方がいい記憶ならば触れずにおくべきだろう。我に返り私を見上げる彼女はもうフェイドでのことも頭にない。
キンロック見張り塔にもクモが巣食っていた。害虫の対処という任務には終わりが見えず管理担当であるレオラが常に苛立っていたのを思い出す。魔道士たちのために虫の見張りに立ち退治もしてやろうなどという奇特なテンプル騎士がいるはずもなく、課外授業の好きな見習いたちは塔のあらゆる本が永遠に埃を被ったままでいるよう望んでいた。
「オストウィックのサークル・タワーにもクモがいたんだな」
「え? ああ、うん。でも私が試練をクリアしてからはいなくなったんだよ。見習いを集めて交代で図書室を掃除するようになった。毎日ね」
「そ、それはさぞや……」
嫌がられたのではないかとは言えなかったが、口にするまでもなくトレベリアンは察したようだ。
「……だから私は、他の魔道士に嫌われてた」
「……そう、か」
多くのメジャイはサークルのためになる行動を嫌う。例えば、清掃のために静者を常駐させる必要もないような人気のない倉庫を皆で清潔に保つ、などの仕事だ。トレベリアンがやったように、善良な見習いが上級魔道師やテンプル騎士の喜ぶことを為せば“点数稼ぎ”と批難を受け、悪くすると排斥されることもある。
うまい言葉でもあればいいのに。彼女を慰めるか、あるいは茶化して笑い事にしてしまえるような器用さは、私にはなかった。彼女が空気を打破する道を探し出すのをいつもいつも待っているだけだ。
「……私は、図書室にはあまり足を踏み入れなかったな」
友人たちと楽しげに話しながら好きな物語を読み耽り安らかな休息に浸っていた魔道士たちが、テンプル騎士に視線を向けられ口を噤む。その瞬間が嫌で堪らなかったから。
「ただ、昼に誰かが読んでいた本を夜が更けて人がいなくなってから手に取ったことは何度かある。あれはチェイスンドの魔法に関した内容だったか。人間を動物の姿に変えてしまうというような」
彼女の好みそうな話題を記憶の中から苦労して引っ張り出す。ありがたいことに、トレベリアンの瞳が好奇心で輝いた。
「変身術の本があったの? いいなぁ」
「観察することで対象への理解を深め、自分の在り方をそこへ近づけていく。深い共感が必要になるので身近な生物ほど変身しやすいらしい。ネズミとか、ク……」
一瞬にして彼女の顔が引き攣るのに気づいて言葉に詰まる。ク……クモじゃないぞ。断じて違う。
「えー、く、クマとか、そう、身近な生物、だ。ネズミとか、クマとか」
察しの良さが仇となった。トレベリアンは気づいていた。その本によれば、観察対象として手頃なクモは変身術の基礎だそうだ。まあ、いくら変身魔法に興味があっても長期に渡ってクモを眺め尽くすなど彼女には無理だろうな。
ひとつの小さな野望が潰えて溜め息を吐きつつ、彼女は裂け目に背を向けるようにして空を見上げた。
「……観察か。レリアナの鳥でも借りて試してみようかな。鳥にだったら変身してみたい」
「困るな。変身して飛び去るのは勘弁してくれよ」
冗談半分の私の言葉に彼女は「飛んでる途中で魔法が解けて落っこちたら困るからしない」と笑った。ああやはり未だ、去るつもりなんてないとは言ってくれないようだ。