爪先だけ踏み入れた悪夢
グレイ・ウォーデンの動向を報告に来たホークとウォーデン・ストラウドが、アダマントの監視を続けるため再びスカイホールドを発った。審問会は砦攻めの軍を編成する傍ら戦闘に際して背後からの急襲を避けるために、ウェスタン・アプローチ中に散らばったヴェナトリを排除しているところだ。
私はと言えばある意味のんびり過ごしている。気になっていたクレストウッドの問題も解決したし、ウェスタン・アプローチで見つけた遺跡や書物の調査にもまだ動きはない。とりあえず私がやらなければいけないことはなかった。軍の準備が整うのをひたすら待つだけだ。
そんな絶妙のタイミングで、フェレルデンのアリスター王からレリアナに手紙が届いた。彼は「審問官と二人で話せるならウォーデンについて情報を提供する」と言い、私をレッドクリフに呼び出した。レリアナはそれを私に会うための嘘だと見ていた。彼には提供できるような情報がないはずだと。でも、会ったからといって罠にかけられる心配はないとも言っていた。
修道女ナイチンゲールとして、教皇の左手として、そしてフェレルデン王夫妻の友人としての保証だ。王がどんな取引を持ちかけてくるにせよ私に危害を加えることは絶対にない。そうまで言われたら会うしかなかった。
何か話すことがあった時のためにとグレイ・ウォーデンであるブラックウォールも連れて、村の手前までは一緒に来た。家並みが見えてこようかというところで空から「審問官、こっちだ」なんて呼ばれて仰天する。聞き慣れない声の主を探して辺りを見回したら、壊れた風車小屋の上にその人が座っていた。
周囲には誰もいなかった。人懐こい笑みで護衛は村に置いてきたと彼は言った。思わずブラックウォールと顔を見合わせたけれど王は素知らぬ風に私たちを眺めている。降りてくるつもりはないらしい。
「とても一国の王だとは思えないな。……ケイラン王以上に気安い」
「ブラックウォール、あなたも村に行っててくれ」
「しかし彼の意図は分かっていないぞ?」
「私は大丈夫だ。レリアナの御墨付きだし、彼が一人ならそれに倣うべきだ」
王が高名なグレイ・ウォーデンということもあってかブラックウォールはあまり渋らずに従った。他の者たちならきっと、アリスター王がウォーデンだからこそもっと警戒を強めただろうと思う。
アリスター王は冒険心に満ちた少年のように無邪気な顔で私を待っている。本当に、とても一国の王だとは思えなかった。風車小屋の廃墟に座っているのがこんなに似合う王様なんて他にいるだろうか。彼からは高貴さに基づく傲慢な空気が一切感じられなかった。ただの、村に住む農夫のようだ。もちろんいい意味で。
レリアナが「アリスターなら心配ない」と口を酸っぱくして言ったのも納得だ。彼女の言葉がなければ王の親しみやすさも私を油断させる罠だと感じて警戒したに違いない。
何を話せばいいのか悩みながら、崩れた石壁をよじのぼって彼の隣に腰かけた。
時々こっちを振り返りつつ村へと歩くブラックウォールの背中をアリスター王は神妙な顔で見つめていた。ああ、カモメとランタンには立ち入り禁止って注意しておけばよかったかな。もし帰りに酔っ払ってたら声をかけずに置いて行こう。
「あれは誰だ? グレイ・ウォーデンの記章をつけてるな」
「ウォーデン・ブラックウォールです、陛下。フェレルデンで徴兵の任務に就いていた彼は、姿を消したウォーデンにあらぬ疑いがかからぬよう審問会に加わったのです」
それも無駄になってしまったけれど。レリアナの嫌な予感は的中していた。いなくなったウォーデンはコリーフィウスに繋がってたんだ。
アリスター王はなぜか眉をひそめて、もう見えなくなったブラックウォールの姿を探すように目を細めた。
「聞き覚えのある名だ。しかしフェレルデンで徴兵だと? アンダーフェルスはこっちに口出ししない約束だ。それに彼はなぜ……」
「彼に何か問題が?」
優しげな褐色の瞳が私の方に向けられ、彼は「間違いなくあんたの仲間なんだろうな」と尋ねた。もしかしたら呼び声の影響を受けていないことを不思議に思っているのかもしれない。
「ブラックウォールは私の仲間です。呼び声に惑わされてはいません」
「……そうか。それならいい。あとその口調はやめてくれ。あんたは審問官だろ? 対等に話をしよう」
それで何の用だったのかと改めて尋ねたら、彼は「ヴェナトリの件では世話になった」と御座なりに礼を述べ、すぐ本題に入った。
「単刀直入に言う。ウルフのことは放っておけ。ちなみに、これは頼み事ではない」
ウルフ。西方丘陵伯爵。反乱した魔道士に新たな未来を与えてやれると騙されて、テヴィンターの賢者を……ヴェナトリをレッドクリフに招き入れてしまった貴族だ。王は知っていたのか。そして我々が嗅ぎつけているということも。頼み事ではなく命令、これは警告以上のものだ。首を突っ込むなと威嚇している。
穏やかな表情でありながらも彼の瞳に鋭い光が宿っているのに気づいて冷や汗が垂れた。
「あなたは、まさかあなたも関わっていたのか? フェレルデンにヴェナトリを連れてくるなんて、」
「これは我が国の問題だ。審問会はレッドクリフとの関わりを避けた。これからもそうするよう願っている。この先もし何らかの変化が起きて、噂の端にでも彼の名前が聞かれたら、俺はそいつを審問会の仕業と断定させてもらう。そっちの顧問にも伝えておけ」
疑惑が渦を巻いて消えた。最終的に王は城を占拠していたヴェナトリを追い払い、レッドクリフをティーガン伯爵のもとに返した。彼の意図もウルフ伯爵の処遇も確かにフェレルデンの問題だ。これ以上の争いを招くのは御免だった。
「脅威はレッドクリフから去った。審問会にとってこの件はそれで終わりだ。……個人的には魔道士を思いやってくれる者がいたことを嬉しく思う。他に言うことはないです」
その言葉でアリスター王の目尻が下がって、大きく息を吐きながら空を仰いだ。彼が緊張していたことにようやく気づいた。これで信頼してもらえたのだろうか? だとしたら、彼は私の約束に価値を感じているんだ。なぜだろう……。
「よし、大人げない脅迫はこれで終わりだ。話したいことは他にもあるが、あんたの言葉を先に聞こう」
急に主導権を振られて慌てた。私は彼の話を聞きに来たので何の言葉も用意していなかった。
「え、えーと、じゃあ……、グレイ・ウォーデンの行動をどれくらい把握してる?」
「捕らえたヴェナトリからある程度は聞いた。偽の呼び声を聞かされ焦ってるらしいな。それで何を企んでるかは知らん」
「全滅の危機に瀕していると信じた彼らは未来のブライトを阻止しようと考えた。コリーフィウスの手先にその方法を吹き込まれたんだ。ウォーデン戦士を生贄に、魔道士が召喚した悪魔を支配し、それを兵として使って地底回廊に攻め込もうとした」
「なるほど。で、恐らくそのブラッドマジックによって逆にヴェナトリの手下にされたわけだな。セダス南部のウォーデンすべてが?」
私が頷くと、彼は悲しげに顔を歪めて溜め息を吐いた。理解が早すぎてむしろ不安になる。心当たりはあると言わんばかりだ。
「……あいつが徴兵任務に熱心でなくてよかったよ。おかげでフェレルデンには元々ほとんどウォーデンがいなかった」
あいつというのはブラックウォールのことを言っているのかと思った。彼は徴兵係だった。でもすぐに、王はフェレルデンの救世主の話をしているのだと気づく。まさにそれこそ私が触れたかった話題だ。
「彼女は……ウォーデンと共にいるのか?」
「分からない」
「えっ」
「犠牲を払うのがウォーデンだけならあいつはこの計画に強いて反対しないだろう。だが、あまりにも短絡的すぎないかと異議は唱えるはずだ。本来なら」
「本来ならって、それじゃあ……」
「彼女がコリーフィウスの手中にあるはずがない。でもそれは単なる俺の願望だ」
私の疑念を否定してほしかった。誰よりも彼に、救世主の夫であるアリスター王に、彼女は別の理由があってここから離れているだけだと。私がこれから殺しに行くものたちの中に、彼女はいないと、言ってほしかったのに。
「エリッサはブライトを調べている。彼女が他のウォーデンと協力することはないが、この件を聞きつけて潜入している可能性もなくはない」
本当にそうだったらいいのだけれど。彼女がグレイ・ウォーデンを止めるため、そこにいてくれたらどんなに心強いか。ウォーデンの言葉はウォーデンにのみ伝えられる。皆きっと救世主の言葉に耳を貸し、呼び声が偽物だと理解してくれるに違いない。彼女が助けてくれたら。そして共にコリーフィウスと戦ってくれたら。
だけどアリスター王の悲痛な表情が、それはあり得ないことなのだと告げていた。
「どうにか居所を調べられないか? 彼女が来てくれたらウォーデンを止めることも、」
「審問官」
神妙な、そしてこれまでになく頑固な顔つきで彼は首を振った。それはダメだと言って。
「俺は、あいつが今ここにいないことだけは創造主に感謝している。コリーフィウスはアーチデーモンの紛い物を連れてるんだろう。だったらエリッサをやつに近づけるのは御免だ。もしあいつが戻ってきてもあんたのところへは行かせない」
「でも、グレイ・ウォーデンは破滅に突き進もうとしてるんだ」
「彼らを見捨てることになっても彼女だけは守る」
頑なな表情に浮かんでいたのは怒りではなく恐怖だった。本気で、心の底から、彼女を遠ざけたがっている。
コリーフィウスはグレイ・ウォーデンを操っているわけじゃない。ただ恐怖を煽り、パニックに陥らせて誘導しやすくしているだけだ。手口が分かっていれば騙されないはずじゃないか? ブラックウォールも気を強く持てば呼び声など平気だと言ってた。救世主にそれができないとは思えないけど。だって、アリスター王もそうやってここに残っているのに。
「なあ、審問官。彼女は呼び声を聞いてるんだよ。正真正銘、本物の呼び声をな」
「え……?」
「彼女はとっくに死の淵にいるんだ。本来ならコリーフィウスごときの企みに乗せられる女じゃない。だが、今は、とても……不安定なんだ。ただでさえ必死で踏み留まっていた彼女に、偽の呼び声がどんな影響を与えたか、想像もつかない」
俺は恐ろしくて堪らないんだと、虚ろな呟きに私の背筋が粟立った。疑う余地はなかった。救世主がすでに半死半生であること、そのために正気を失い、アダマントに加わっている可能性があること。ブライトの英雄が……?
絶望的な気分だった。王の手紙を受け取った時、彼や救世主の言葉を携えてウォーデンたちを説得できるのではないかと期待したが、より大きな不安がもたらされただけだった。でも、不意に思い至る。
「ウォーデンたちはブライトを止めようとしてる。もし救世主がそこにいるならクラレルは別の方法を考えるだろう。命を捧げずにブライトを止めた彼女を仲間にできなかったからこそ、こんな強硬手段に出たのなら、」
「エリッサはアダマントにいないということだな。彼らに希望を与えられる場所には」
「……それはつまり……」
良い可能性を考えれば彼女はこれに関わらず無事でいるということだ。そう安堵したのも束の間、別の可能性が頭をよぎる。悪くすれば彼女は、すでに生贄に捧げられているのかもしれない。王を苛む真の恐怖をやっと理解した。アダマントに彼女がいるかもしれない、あるいは“もう”いないかもしれない。
「もし、あいつが、」
その先がどうしても口にできずに彼は息を呑んだ。
「……もし……、万が一、彼女が……」
彼女が、死んでいたとしたら? 可能性を考えることさえ耐え難い痛みをもたらすのだろう。彼は嗚咽を漏らして胸を押さえた。そこから出ていこうとする大切な何かを逃がすまいとするように、服の襟元をぎゅっと握り締める。泣き出してしまうかと思った。でも彼は、壁を張り巡らせるように冷静さを取り戻した。
「あいつは、そう……できなくなる前に、集めた情報を俺に送ってくる。その手筈を整えているだろう。……連絡がないということは、まだ……今も、ちゃんと生きてるってことだ」
そう信じるしかないのだ。彼女の居場所が分からない。どこか遠くで、無事でいてほしいとの願いはあまりにも儚かった。