鐘の音で終わらせて



 最初に気づいたのは審問官だった。“スカイホールドにフェレルデンの救世主がいる”と言われた時は何の冗談かと思ったもの。実際この目で彼女を見てもまだ信じられずにいる。エリッサは審問会の紋章をつけ、有り合わせの装備で密偵の中に紛れ込んでいた。なぜ気づかなかったのかと歯噛みしつつ、顔を見合わせてさえ彼女が本当に私の知るエリッサ・クーズランドなのか疑っていた。まるで別人のようだわ。
 別れる時には長く伸びていた黒髪が一人旅の間に短く切られ、しなやかで優雅な線を描いていた体は激戦を繰り返すうちに荒々しく削れて強張っていた。彼女を印象づける色鮮やかな緑眼は曇っている。天の亀裂を初めて見た時は彼女の目に似ていると感じたけれど、今こうして比べるとその印象は消え去った。心の奥深くまで容赦なく光で照らし出して見透かすような、鋭い視線が跡形もないのだ。
 顔立ちは確かにエリッサなのに何かが決定的に違っていた。彼女はそれを「呼び声で思考がはっきりしないせいだ」と言った。やはり彼女もグレイ・ウォーデンにしか聞こえない、死を告げる声を聞いたのだ。理性を揺さぶり感情を掻き乱し、過ちへと誘う声を。でも彼女はアダマントの砦にいなかった。それが重要だ。
「あなたが敵にならなくて良かったわ。グレイ・ウォーデンが姿を消した時から、ずっとそれを恐れていたのよ」
 本当に、心からそう思う。この世で唯一、刃を交えたくないのが彼女だった。エリッサに殺されるなんて絶対に嫌。彼女に憎まれることこそ私が過ちを犯したという証に相違ないから。そして万が一にも私が彼女を殺してしまうのは、もっと恐ろしい。

 エリッサは奇妙な目で私を見つめていた。ロザリングで初めて会った時のように不審なものを見る視線が居心地を悪くする。あの時は、それでも彼女は私を仲間に加えてくれた。私の幻視を戯言と片づけず“レリアナにとっての真実”として受け入れてくれた。今度もそうであればいいのだけれど。
 以前受け取った手紙には審問会に参加はできないとあった。もし事情が変わって仲間になってくれるならこんなにありがたいことはない。例えグレイ・ウォーデンがその致命的な弱点を明らかにした後でも、彼女の意志は私たちを支えてくれるはず。救世主が加わるとなれば兵の士気はどんなに向上するだろう。追撃に向けて私たちは勝利の勢いに乗ることができる。
「現状を知ってほしいの。私たちはコリーフィウスを追いつめているわ。その計画を悉く阻止した。そして彼は今、じっと荒野に息を潜めている」
 暗闇に姿を隠してチャンスを窺っている。審問官がオーレイ各地をまわっている間、密偵のほとんどをアーバー荒野に送り込んではいるけれど、広く危険すぎるために彼が狙う遺跡の場所は未だ発見できていなかった。速やかに、正確に軍を展開するためにもっと情報が要る。せめて方角だけでも知ることができたら、ありがたいなんてものでは済まない。
 エリッサには、グレイ・ウォーデンにはダークスポーンの居場所が感じ取れるはずだ。
「協力してもらえない? コリーフィウスと直接対決しなくてもいい、その呼び声がする方角を探し当てられない?」

 聞こえていないのだろうかと思うくらいの長い間、彼女は黙ってぼんやりしていた。焦れて声をかける直前、その瞳が揺らぐ。
「協力はできない。この声が聞こえている限り」
 彼女の声は不安定に胸を響かせた。おぞましい予感が背筋を抜けていくのを必死に見ないふりする。エリッサの声はいつも聞く者に勇気を与えて奮い起たせたのに。やはり彼女は何か変だ。
「その呼び声は偽物なのよ。あなたは死期を迎えていない。知っていれば惑わされないでしょう?」
 アリスターがクラレルに従わなかったように。彼女自身そうしなかったように。私たちが声の主を殺すから安心してと言ってやりたかった。聞こえてくる音を理解しようとはせず、ただ発生する方角だけを探ることができたらとても助かるの。
 私の期待をまったく意に介さぬように彼女はどこか遠くを見ていた。
「私には鐘の音が聞こえたよ。まるで祝福のような音色だった。あの偽物とは似ても似つかない。真の呼び声を聞いていれば聞き分けるのは簡単だ。私はコリーフィウスに惑わされない。やつの作り出した声には」
「……そう」

 微かな違和感があった。彼女の言葉がぐるぐると頭の中を回った。どこか妙だ。「まるで祝福のような」「偽物とは似ても似つかない」「聞き分けるのは簡単」「コリーフィウスには惑わされない」「この声が聞こえている限り」 ……おかしい。拒まれた落胆以上に、得体の知れない不安がひたひたと迫ってくる。
 エリッサは呼び声を聞いていた。けれどそれが偽物だと分かっていた。だからアダマントにいなかった。彼女は今も呼び声を聞いている。祝福の音色を。コリーフィウスが放つものとは似ても似つかない声を。それでは、彼女が聞いた“呼び声”は、まさか……。
「……あなた……聞いているの? 本物の呼び声を?」
 愕然とする私とは違い、彼女は平静そのもので答えた。
「数年前から、それは私の一部だよ」
 茫然と立ち尽くすことしかできなかった。彼女がじきに死ぬのだと、どうして信じられるだろう。自分が死ぬのだと何の感慨もなく話せる彼女のことも、信じられなかった。

 エリッサは荷物の中から紙束を取り出し、息が止まりそうな私の手に持たせた。そっと触れた彼女の指は記憶と変わらず温かかった。末端まで熱い血が通っている。彼女が死ぬはずがない。でも、あまりに儚いその感触はすぐに霞んで消えてしまった。今しがた彼女が私に触れたのも夢であったと言うように。
 紙束に目を落とすと殴り書きに綴られた文字列が飛び込んでくる。“エリッサ・クーズランド、私の名前。私の名前、私の名前、私。エリッサ、エリッサ・クーズランド、フェレルデン女王、ハイエヴァー公爵の妹、ブライスの娘、我が王の妻” そして紙一枚にびっしりと彼女の名が敷き詰められていた。
 裏返してみるとそちらにも半分ほど“エリッサ・クーズランド”と書かれている。どれも書きつけた瞬間の焦りと怒りが伝わるほど乱暴な文字だった。混乱して彼女を見つめると、無言の問いにあっさりと答えが返される。
「記憶が混濁するたびにそれを見て名前を書き加えるんだ」
 思わず紙を握り締めてしまった。ここに書かれた数だけ。自分の名前も思い出せないほど深く穢れに蝕まれているというの。

 二枚目をめくる。“ファーガス・クーズランド、兄、ハイエヴァー公爵、ファーガス、ファーガス、ファーガス……クーズランドの当主、ファーガス・クーズランド、私の兄” こちらも一つの名が紙の表裏を埋め尽くしていた。
 三枚目はモリガンだった。これはなぜか慎重に、丁寧な字で綴られている。“モリガン、湿地の魔女、指輪、私を記憶する。約束、モリガンを殺すこと” 慌てて顔を上げた。彼女は私を見ていなかった。……モリガンを殺す? その一文は名前よりもたくさん、繰り返し書かれていた。重要であるほど、あるいは忘れる回数が多いほど文字が増えるのだ。
 次の紙には“家族”とあった。ブライス・クーズランド、父、私とファーガスの父親、故人、エレノア・クーズランド、母、オリアナ、義姉、オーレン……そして彼女が大切にしているとおぼしき人々の名が数枚の紙に何度も何度も書き記されている。
 思い出せないですって? そんな馬鹿な。これらは彼女のすべてなのに。この人々こそが、エリッサの世界そのものだというのに。忘れてしまったら、なくしてしまったら、生きていけないほどに……。

「初めにそれを忘れてしまったと気づいた時は、ほとんど錯乱した。自分を失うに等しい重大事だ。死ぬほどの恐怖を感じた」
 とてもそうは思えないような声音で淡々と告げる。エリッサはこの悲劇を気に留めてもいないように見えた。その無関心が私に彼女の死を実感させ、痛めつけた。
「でも思い出したんでしょう? ここに書くたびに、ちゃんと思い出したのよ。そうでしょう?」
「いいや」
 短い否定の言葉には何の苦痛も切なさも感じられない。虚ろを見つめるエリッサは微笑さえ浮かべていた。
「思い出せないよ。そこにある名のすべて。紙束を確認し、歴史の勉強でもするように知ることができるだけだ。私の中からは何も出てこない。何の記憶も残されていない。穢れて、闇に塗り潰された」
「そんな……だ、だって……ファーガス公爵は? あなたの兄を本当に忘れたっていうの?」
「ファーガス・クーズランド、同じ両親から生まれ、同じ家で育ち、我が家を守ってくれている私の兄。その紙によって記憶している。……例えるなら他人の口から彼が兄だと知らされたような感じ。理解し、納得する。でもそれを“思い出す”ことはない」

 震えながら読み進めた紙束の中には私の名前もあった。共にブライトを戦い抜いた者の名前があった。フェレルデンの貴族が幾人か、アマランシンにいた頃に彼女が徴兵したグレイ・ウォーデンの名前や、生きていくうえで彼女が多大な影響を受けたであろう人々の名前があった。
 そこには文字だけではなく絵も描かれている。向かい合う二頭のマバリや、バラの印章、月桂樹の葉。横にはそれぞれの意味を記す走り書き。サークル・オブ・メジャイやテンプル騎士団の紋章、グレイ・ウォーデンの象徴たるグリフォンの紋章。生きている者ならば誰でも当たり前に、意識さえせずに記憶している事柄が、彼女の脳から零れ落ちてゆく。この紙はエリッサの記憶の残骸なのだ。
 最後の一枚には他と違ってエリッサらしく流麗な字で簡潔な言葉が記されている。
“最も重要な名は残さない”
 そこに到ってようやく気づいた。アリスターの名前だけがどこにもなかった。私の視線がそれに辿り着いたのを見て、彼女から表情が消えた。
「彼の名を思い出せなくなれば、去るべき時が来たということだ」

 スカイホールドを訪れた彼女になぜ気づけなかったのか理解した。かつて彼女を突き動かしていた刺すような憤怒と憎悪、微笑に包み隠された鋭利な眼差しがなくなっていたから。私の知るエリッサとはかけ離れてしまっていたから。彼女を知らない審問官だからこそ結びつけることができたのだろう。
 嵐のような感情が消え去り、今のエリッサは平穏そのものだった。枯れた大地、凪いだ海。彼女の心は動きを止めていた。その腕に死を抱きながら、恐怖も絶望もなかった。
 かつて彼女に聞かせてもらったガントレットの亡霊のように。あるいは審問官が話してくれたフェイドのジャスティニアのように。死人のように、穏やかだった。胸が痛くなるような静寂だけが彼女を満たしていた。
「あなたはスカイホールドに何をしに来たの?」
 声を絞り出すのに苦労しながら切迫した想いが去来する。彼女が死ぬなんて。考えたこともない。考えたくもない。いつだってそう、予想もしなかった悲しみが突然訪れる。主の気まぐれにはもう飽き飽きしていた。
「デネリムに行くべきだわ。彼はあなたが帰ってくるための準備をしてるのよ」
 彼が今もエリッサにとって最も重要な人なら、きっとアリスターが彼女を引き留めてくれる。そう願っている。でなくても、せめて……最後は、一緒にいるべきだと思う。この私たちの英雄が灰も残さず世界から消えていくなんて耐えられなかった。

 エリッサは無感情な目を庭園に向けてぽつりと呟いた。その視線を追いかけ、彼女が見つめる先に誰がいるのかを思い出してゾッとする。
「私はモリガンを殺さなくてはいけない」
「ど、どうして」
「でも今は無理だな。彼女はコリーフィウスを殺すため審問会に協力している。彼に危険を及ぼす敵を殺すために。これが終わるまでは殺せない。コリーフィウスが死ぬまで私が持てばいいが」
 平坦な口調に寒気がした。あの文字がはっきりと思い浮かんだ。流れるような筆跡が。おそらくは正気のうちに書いたであろう言葉が。決して忘れないよう何度も何度も書かれた言葉が。
“モリガンを殺すこと”

「どうして、……あなたは彼女を好きなんでしょう? 友人だったじゃない!」
 少し妬ましく思えるくらいに気が合っていた。あの冷酷なモリガンでさえエリッサを大切にしているのが感じられた。親友と呼んで遜色ない関係だった。それがなぜ殺意に結びつくというの?
「モリガンは彼に消えない傷を刻みつけるつもりだ。私を忘れさせないように。そんなことはさせられない。でも、彼女の贈り物を捨てることもできない。だから殺すしかない」
「贈り物って……」
「殺すしかないんだ。アリスターを傷つけないために」
 彼女の口からアリスターの名が出て安堵した。少なくとも、まだ彼を覚えている。それにしても不可解だった。エリッサとモリガンの間に一体どんな駆引きがあったのだろうか。
「モリガンが何もしなくたってアリスターは傷つくわ。分かりきってるでしょう。彼があなたを忘れると思う?」
「私が生きている限り執着するかもしれないが、死んでしまえば彼は乗り越えて生きるだろう。ごく普通に、その時が来て死んだのであれば」
「そんな信頼……ひどい人ね……」

 エリッサは私に微笑を向けた。拒絶にほかならない優しさを。救世主が背を向けようとしている。自分がいなくても私たちは生きていけると、冷たく突き放して去ろうとしている。
「どうして泣いてるんだ」
 肩に縋って引き留められたらいいのに。でも私にはできない。手を伸ばすのが恐ろしかった。触れた途端に自分が亡霊であると気づいた彼女が消え散ってしまうのではないかと思えた。それほどに存在が希薄だった。
 そしてそれ以上に、審問官のことを想った。英雄そのものでありながらその地位を拒み続けているトレベリアンを。エリッサを蝕み、自我を奪っているのは穢れだった。でも審問官の心を押し潰しているのは私たちだ。
「……レリアナが泣くのは嫌だな」
 どうして私にエリッサを止められるの? そんな権利はない。私には、彼女を止められない。新しい救世主を仕立て上げようとしているくせに。
「美しい女性が涙しているのを見るのは辛い。でも、私にはそれを拭ってやれないみたいだ。すまない」
 まるで昔のような軽口もフェイドからの囁きのように朧気で頼りない。呆けた彼女の目は私を通りすぎ、何も見ていなかった。

「どうにか、できないの? やはりデネリムに行くべきだわ。アリスターがあなたを助けられるかもしれない。きっとそうよ。彼もグレイ・ウォーデンだし、あなたを一番よく知っている。誰よりもあなたに……」
 行ってほしくないと願っている。アリスターに今の彼女を見せられるだろうか。エリッサは今の自分を彼に見せたいと思うだろうか。久しく流していなかった涙のせいで頭が痛む。為す術もなく彼女を失った時、痛みはこれの比ではないだろう。
「どうにもならない。夜に眠り夢を訪れるたび闇が近くなる。朝に目覚め空を見るたびに現実が霞む。……アリスターの思い出が少しずつ消えていくんだ。初めて会ったのは……ああ、オスタガーだ。グレイ・ウォーデンになった時に。ブライトが起きたんだ。それから、一緒に旅をしたのは覚えている」
「他には?」
「モリガンも一緒だった。レリアナもいたな。アリスターが……だけど……私は……、駄目だ。他には……何もない」
 たったそれだけ。彼女に残っているのは、アリスターと出会った記憶だけ。それさえ今にも消えようとしているのを感じ、涙が止まらない。

 今初めて私の存在に気づいたように目を見開いたあと、エリッサは不思議そうに首を傾げた。
「どうして彼がこんなに大切なんだろう? 死んでもアリスターを守らなければと思う。なぜだ?」
「あなたが彼を愛してるからよ。彼はあなたの夫よ、エリッサ。そしてあなたの大切な故郷の、フェレルデンの守護者だからよ」
 私の言葉を噛み砕くように押し黙り、不意に顔を上げる。
「彼の声も、香りも、微笑みも、力強い腕も、思い出せない。顔を見ても彼のことが分からないかもしれない。だから会いに行かないんだ」
 これがグレイ・ウォーデン。欲を捨て、意志を捨て、愛を捨て、心さえ捨てても世界を守る屍。その成れの果て。
 とっくに死んでいながら彼に同じ道を辿らせない方法を探し続けたけれど、もう先へ進めなくなったから彼女はここに来た。決別するために。彼が彼女の死を追わないように。
 緑の双眸が私を覗き込み、最後に一つ願いを告げた。
「彼の王国を守ってくれ」
 それを為すべきは審問会ではなく彼女自身だと、エリッサなら分かっていただろうに。この人は、私の目の前にいる彼女は、エリッサであった証をなくした彼女は、一体誰なの?



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