暁のありか



 どんなに言い聞かせても仔犬たちは自分の家に帰ろうとしなかった。どうやら皆して私の護衛気取りでいるようだ。亡き相棒そっくりの顔立ちを見ると無理やり追い返す気にもなれない。五頭ものマバリを養っていくのは旅の身空には厳しいが、スカイホールドの人々に餌をもらって好き勝手に暮らしているのは幸いだ。
 フロストバック山脈に足を踏み入れた途端にどこからともなく次々と姿を現した彼らはスカイホールドまで同行して当たり前のように今も私のそばにくっついている。一体どうやって私の帰還を知ったのか不思議だった。いくら鼻がいいとはいえ遠くはアマランシンにいたはずの子まで駆けつけたんだから謎は深い。
 マバリ独自の連絡網でもあるのだろうか。もしかするとブライトの最中に彼が広げた縄張りが未だに活きているのかもしれない。何にせよ、犬たちのお陰で私の所在がデネリムにバレるのも時間の問題だろう。
 アリスターに知られると困る。それがなぜなのか、ともすれば忘れてしまいそうだ。手の届く場所にいる限り彼は私がいなければ生きていけないような気になってしまう。だから、二度と届かない場所へ行かなければならないんだ。
 私はアリスターの子供が欲しい。己の血脈が故郷に根づいてゆくことの喜びを、“私が此処に在る”と確信する幸せを、彼に味わってほしい。私自身が与えてやれるなら何より素晴らしいだろう。しかしそれがほとんど不可能に思われる今、彼が無為な時間を過ごさぬよう私は速やかに消え去るべきだ。帰る宛のない者を待っても仕方がない。その虚しさは私もよく知っている、はずだから。

 コリーフィウスが狙っているという遺跡の正確な場所が判明したらしく、審問会は遂にアーバー荒野へ進軍を開始した。とはいっても教会の手から離れたテンプル騎士団や新皇帝指揮下のシュヴァリエが入り交じる混成軍、足並み揃えて未開の土地を駆け抜けるのは難しい。
 聞くところによるとあの古代のダークスポーンは生身で漆黒の都に入ることを目的としているらしい。求めるものが同じ私としては複雑な気分だ。正直に言うとコリーフィウスの成功を願う気持ちもなくはない。奴がフェイドに入れたなら、その道を通って私も行けるだろう。そのあとに奴が世界に敵するなら改めて殺せばいいだけだ。
 扉が開かれるまで待つべきではないのか? 我々はそろそろフェイドについて知るべきではないのか? 夢幻の世界とは言いつつそれは確かに存在し、現実として生者の世界に影響を及ぼしている。いつまでも知らずにいては、ままならぬ運命に抗うこともできない。フェイドが隔絶された異界でなくなれば未知の脅威を少なくとも既知に変えることはできる。
 尤もそんな風に思い切ってしまえるのは私が感情をなくしているせいだろうとは思う。人の世界に生きていればもっと変化を恐れるものだ。

 境が曖昧になってゆく。自分が本当に生きてここにいるのかもよく分からなくなっていた。あらゆることに対して執着心が欠如している。それゆえコリーフィウスの脅威に何も感じない。混乱を極めて愚かな行為に走り、これまでの成果を無に帰してしまわないように、私はもう退場した方がいい。そのために……潔く死ぬためには、モリガンを待たなければならない。
 彼女はアリスターを手酷く傷つけるナイフを握っている。私の死という刃を。彼に癒えない傷を遺したくない。自責と後悔のもととして彼の心に残りたくない。その切実な願いさえ眠りと共に摩耗していくようだった。
 峡谷の空に残る天の亀裂を見つめてぼんやりと時間を過ごす。こんな風にしていると何もかも放り出して死んでしまってもいいような気がしてくる。アリスターのことも忘れて身勝手に命を投げ出しそうになる。
 今の私は生きているとは言えないのかもしれない。静者のように感情がなく意志もなく、生きる意味などないのかもしれない。それでもかつて生きていた時の意味を成すためにまだやるべきことがある。心を閉ざす選択を後悔してはいなかった。
 呼び声は心音のように胎内から響く。耳を塞げば聞こえないとかいう類いのものではなかった。穢れは着実に私を蝕んでいた。放っておけば今ごろ私は過去すべてのウォーデンに倣って精神に異常をきたし、グールと化して暗闇へ走り去っていただろう。
 風が吹きつける。そこへ障壁を作れば風が肌を打つことはない。だが、例え感じられなくても風は依然として吹いている。感覚を閉ざしても現実が変わるわけではなかった。己の精神力だけで呼び声を遮断するのは不可能だ。穢れの影響をただ認識しないのではなく完全に寄せ付けないためには魔法の力が必要だった。
 ビジルを真似て自身の深淵に向き合い、そこに自我を置いてきた。たった一つ、彼の名を、彼の存在を封印の鍵に、捻れて歪んで穢れてゆく心身から“私”と呼ぶべきものを引き剥がした。呼び声に対抗する手段を見つけない限りこの封印は解かれない。未来が歪に変わり果てるくらいなら、まだ私が私でいるうちに死んでしまった方がマシだ。

 物言いたげな視線を感じて振り返ると何やら派手な飾りをつけた審問会の騎士が私をじっと見つめていた。あれは……あれだ。その、あれ、誰だったかな。そうだ審問会の指揮官だ。
「まだいたのか」
 勝手に入り込んだうえそのまま居座っている者の言葉とは思えない不躾さだが無意識に口から出てしまった。言われた彼の方は怒るでもなく何やら焦っていた。
「わ、私は……呼び戻している兵が集結次第、共に最前線へ行くつもり、……です」
「女王としてここにいるのではない。無理して敬意を払わなくてもいい」
「べつに無理をしてはいないのだが……」
 なんとなくだが彼には敵意を抱かれている気がする。確かに、女王としてではなくスカイホールドにいる私はただの不審人物に違いない。彼が心配するのも無理はなかった。べつに審問会の治安を乱すつもりはない。
「あなた方の留守中を狙って審問会を害したりはしないので安心してくれ。何の保証もできないが、我が王の名に懸けて、不名誉な行為には及ばないと誓う」
「……そんなことは心配していない、フェレルデンの救世主」
 おや。華美な外見からしてオーレイ人かと思っていたが、フェレルデンの出身か。訛りがないので気づかなかったな。ただ、微かに見覚えがあるような気はする。レリアナほどしっかりとは思い出せないけれど。
「もしかすると前に会ったことが? 諸事情で記憶が曖昧なもので、失礼」
「いや、呼び声のことは聞いている。それがなくてもおそらく覚えていないだろうと思う。あなたとは、十年も前に少し会話をしただけなんだ」
 十年前ならブライトの真っ最中か。あの出来事ですらはっきりと思い出せることはもう少なかった。彼はほんの僅かにガッカリしたような表情を浮かべていた。
 私は人の顔と名前を覚えるのが得意だった。会って話せば何年経とうと忘れはしない。だが今は違う。その人が私にとってどんなに大切な存在だったとしても記憶には靄がかり思い出せないだろう。きっとこうやって重要なことをいくつも忘れている。

 昔の私を知っているという彼はその頃の面影を探すようにじっとこちらを見つめていた。
「……感情がないというのはどういうものなんだ? あなたは、もはや自分の意志で生きたいとは思わないのか?」
「生きたいとも死にたいとも思わない。感情がないというのは欲求がないということだ。必要とされる仕事を黙々とこなすだけの静者みたいなものだ」
 強固な意志のもと、死へ誘う声を聞かぬふりで耐え忍びながら生きていくことも可能ではあっただろう。生きてゆくだけならば。しかしその生涯の終わりに狂気が待っているのが耐えられなかった。私の中から、アリスターの中から、どうしても穢れを排除したかった。死と触れ合いながら心を動かさず真実だけを追い求めるには、感情に惑わされてはいけなかった。仕事を続けるため私にはどうしても静寂が必要だった。
 旅の道中、何度か呼び声を癒す手段を見つけたような気がした。しかしそれが調査に基づく推測なのか恐怖から成る妄想に過ぎないのか、判別がつかない。集めた情報を手元に置いておけなかった。見つけた端から手をつけずに他者のもとへ送った。そうしなければ私の混乱が真実を歪めてしまうから。
 調査を続け、呼び声を癒さなければこの苦痛から逃れられないのに、呼び声のせいで調査を続けることができない。もはや為す術もなかった。
「感情を抱えたまま痛みと恐怖に耐え続けてもいずれ“私”は壊れてしまう。自分自身として死にたいという願いは、ある意味では生きる意志を守るのと同じことだ」
 私のその言葉で蜜色の瞳が痛みに歪む。彼に見覚えがある理由がなんとなく分かった気がした。彼は少し、ほんの少しだけアリスターに似ている。尤も、記憶を振り返る限りアリスターの方が男前ではあるが。陽光に溶ける金髪も磁器めいた透き通る白肌も儚げで頼りない。アリスターはもっと地に深く根を張る大樹のような男だった。と思う。たぶん。それでも内に抱えた鬱積がどこか似通っている。会いたくて堪らない人を思い出させる。
 ああそう、会いたいんだ。調査を続けることが困難になったから、人生を終わらせたくなったから、その前にモリガンに会う必要があったから、なんて言いながらその実、私はアリスターに会いたかったんだ。ただ彼の顔を見て、声を聞いて、消えかけた記憶を新たな思い出で埋め、空白の心を満たして死にたかった。だからこんな近くまでのこのこと戻ってきてしまった。

 かつてアリスターは自分の欲望を叶えることを罪悪のように感じていた。忍耐と抑制に慣れすぎて欲しいものを諦める癖がついていた。もう何年会ってないだろう。彼は今、一人じゃない。彼の支えになる人々をかき集め、彼の居場所を作り出そうと努力してきた。私がいなくなり、そして戻れなかった時のために。
 彼に会いたい。彼の願いを叶え、望みを叶え、彼を守り、愛するために生きてゆくと誓ったのに、穢れが我が心を食い潰す。気づけばあの人の思い出ではなく闇からの囁きに耳を傾けている。あの人を求める以上に呼び声の主に焦がれる自分がいる。
 奥の方で恐怖が燻っている。私の中から彼が消えてしまうことが怖い。暗闇に視線を向けた瞬間、その恐怖が私を焼き尽くすだろう。そう自認するたび感情を切り離していてよかったと安堵する。
 指揮官は無表情な私を睨んでいた。
「あなたはなぜそんなことを聞くんだ?」
「……審問官は以前、静者になりたいと言っていた……今も願っているかもしれない」
「お薦めはしないな」
「彼女は重圧に耐えられないと言った。恐怖に食い尽くされるのは嫌だ、心静かに使命に殉じるため静者になりたいのだと。……あなたの、ように」
 イヴリン・トレベリアンは魔道士だ。静寂の儀式を行えば彼女自身のマナを用いて精霊と契約を結び、強力な結界が敷かれるだろう。私のように記憶の混濁を招く中途半端な封印ではなく、はっきりと自我が消えた静者となる。審問官の職務に恐怖や躊躇いを持たず公平に忠実に励むようになる。

 蒼白に染まっていた指揮官の顔に憤怒の色が浮かんだ。彼に敵意を抱かれている感じがしたのはこのためだったのだ。
「そうか。あなたは彼女を愛しているのか」
 そして彼女に辿ってほしくない道を歩んだ私の存在が、気に入らないのだ。彼女にどんな影響を及ぼすか知れたものではないから。
 コリーフィウスと天の亀裂に唯一対抗できる存在、世界の存亡を双肩に担う重圧、心が壊れなほどの恐怖。彼女は、審問官という使命に掻き消されてしまう前にイヴリン・トレベリアンとして死にたかったのだろう。だが周囲が、彼がそれを許さなかった。
 それはもちろん、静者には意志がないからだ。自らの正義を決定できない。審問会に忠実であるが如く、下手をすればコリーフィウスにさえ疑いなく従いかねない。自分の意志で死ぬことは許されず他者の意志によって屍のごとく生かされている。そんな審問官という名の虚像の中にある人を、彼は愛してしまったんだ。
「……可哀想に」
 恐怖に耐え続けろと言い捨てられた彼女も、助けてやれない彼も。可哀想に。何の報いも受けられず我が身を犠牲にしようとしている。彼女はまるで私の鏡像だ。今も心を侵され続ける別の未来を歩んだ私。だが、まだ繋がっている。違えた道をもう一度交えられたなら、お互いの運命を変えることもできる。
 光が垣間見えた。私はトレベリアンに逃げ道を与えてやれるかもしれない。そして彼女は私の待ち望んだ夜明けになり得る。



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