影をなくしたあの子
年が明けてすぐのこと。ハリットに注文した装備の完成を待ちがてらスカイホールドをうろついてたら、マバリを五頭も引き連れた人が診療所近くに立っているのを見つけた。時々外科医やその助手たちが来て何事かを話し合い、また去っていく。新しい助手? そうは見えないな。
審問会の紋章を身につけて密偵の格好をしているけれどもあれは偽者だと思う。どこといっておかしなところは無い。ただ自分が似たようなことをしてたから直感的に分かるのかもしれない。あの人は私と同じ、自分がここにいるのが不自然じゃないように取り繕ってる。見つかりたくない理由があるんだ。職務放棄の新人にしてはやけに目を惹かれるのが気にかかる。
あれだけのマバリを連れてるなら灰の戦士団の一員だろうかと思ったけど、彼らが仲間になったなんて報告は受けていない。それに体格からしてあの人は女性のようだ。灰の戦士団には女性戦士が極端に少ないと聞く。ドワーフの戦法が引き継がれたという怒りをコントロールする戦い方も女性には向かないし、月経があるから犬の訓練が難しくなるんだ。
たぶん、フェレルデン人なのは間違いない。五頭ものマバリを飼おうとする者が他の国にいるとは思えない。自分一人を養うよりもよっぽど大変だもの。
ヘイブンにいた頃から審問会の兵は大部分がオーレイ人だ。魔道士とテンプル騎士の争いもあってフェレルデンの人々は自分の土地を守るのに必死だったし、一時的な協力は申し出てくれても貴族や騎士が私たちに加わることはなく、それは今でも同じ。
帝国の支持と強く結びついた上層部の蔑視を受け、進んで“犬使い”と揶揄されたがる兵はいない。全体としては少数派のフェレルデン出身の者たちも、スカイホールドに溢れるオーレイ人たちに愛するマバリを侮辱されるのが嫌で、あの強靭な軍犬を審問会に加えたがらないのが現状だ。
ちらりとその人の目が見えた。ああほら、じゃれあうマバリの仔犬に向ける慈愛の眼差し。紛れもなくフェレルデンの人だ。魔法の色を感じさせるエメラルドグリーンの双眸はまるで……、まるで……。
呼吸が止まりそうになった。フードの陰から彼女の顔がはっきりと見える。誰も気づいていなかった。でも私は“彼女”を知っている。誰もが知っているはずだ。
おそるおそる近づいて、一歩ごとに確信が深まる。一番小さな仔犬が私に気づくと同時、彼女もこちらを振り向いた。
「……フェレルデンの救世主」
エリッサ・クーズランドは少しも表情を変えることなく私を見つめた。やっぱりそうだ。彼女だ。アーチデーモンを殺して第五次ブライトをあっさりと退けた稀代の英雄。探し求め、ついぞ現れなかった人。ホークはヴァリックが隠していた。だけど彼女は自らの意思で身を潜めていた。なぜ今になってスカイホールドに姿を現したんだ?
心臓が早鐘を打つ。ブライトのこと、アマランシンでの出来事、カレンに聞いたキンロック見張り塔での話、今も彼女を待っているであろうアリスター王のことや、追放したグレイ・ウォーデンのこと。いろんな疑問や感情が瞬く間に脳裏を駆け巡る。
もしかしたらアンダーフェルスに向かったホークがクーズランドを発見したんだろうか。彼女の手紙にはコリーフィウスの近くにはいないとあった。我々の連絡を受けてからウォーデンの本拠地へ向かったのかも……。
彼女の存在がグレイ・ウォーデンに名誉を取り戻してくれるよう願い、次の瞬間、彼女が仲間の復讐のため私を殺しにきたのではないかと恐れて肌が粟立つ。彼女はどこか呆けたような穏やかさを浮かべたまま、軽く首を傾げた。
「私が誰か、どうして分かったんだ?」
「えっ」
「この子たちのせいか」
彼女にまとわりつくマバリに視線を落とす。そうだ、フェレルデンといえばマバリ、救世主といえばマバリ、エリッサ・クーズランドの隣にはいつも相棒の犬がいる。でも気づいたのはそのせいじゃない。
「えっと、普通に、顔を見れば分かると思うんだ」
むしろ周りの者たちがなぜ気づかないのか不思議だった。カレンは彼女の顔を知ってるし、それ以上にレリアナが気づかないはずがないんだ。スカイホールドを往き来する人の数はどんどん膨れ上がっているけれど、我らがナイチンゲールの瞳は来る人も去る人もしっかりと見据えているはずなのに。
だけど彼女は確かになんだかイメージと違う気もする。エリッサ・クーズランド……レッドクリフから不死者の脅威を排除し、奇跡の聖灰を見つけ出してイーモン伯爵を救い出した。悪鬼蔓延るサークル・タワー、ダークスポーンの溢れる地底回廊、呪われたウェアウルフが闊歩するブレシリアンの森を踏破し、異なる種族をまとめあげて堕落した古代の神に挑んだグレイ・ウォーデン。伝説の中にしか見ない、疑いたくもなるほどの偉業を成し遂げた人。
もっと研ぎ澄ませた刃のような、冷たく鋭い印象を持つ人物だと思っていた。こうして眼前に立つ彼女はまるで脱け殻みたいだ。覇気がなく、精気もない。英雄譚にある力強さを少しも発してない。そしてまた、どことなく懐かしい感じがするのも不思議だ。この無気力、この虚ろをよく知ってる気がする。
マバリの頭を撫でながら、彼女は囁くような声で「おかしいな」と呟いた。
「私の顔はあまり知られてないはずだが」
「ああ、ちょっと前まではそうだった。でもアリスター王があなたの肖像画をたくさん描かせてたから」
実を言うと私も持っている。それは二人の心は未だ離れていないのだという、救世主の不在に疑念を抱く人々へ向けた王の必死のアピールだとか、あるいは彼女が永遠に戻らないことを世間に知らせないための隠れ蓑だとか、いろいろ言われていたけれど。
これまでフェレルデンの救世主の肖像は、彼女の言う通り素顔を晒したものがほとんどなかった。グレイ・ウォーデンを象徴する鎧兜を身に纏った無私無欲の英雄像。アリスター王が描かせた絵は彼女の印象を覆す暖かさがあった。そこに描かれていたのは子供っぽい笑みを浮かべた綺麗な女性だった。使命に身を捧げた救世主ではなく、彼の妻の絵だった。
夜の闇を縒ったような黒髪に理知的な光が灯る緑の瞳。彼女は間違いなくエリッサ・クーズランド、フェレルデンの救世主、アリスター王の妻。……そのはずなのに、私の中の何かが納得することを拒んでいた。
私の言葉を聞いて彼女は苦笑した。
「手配書が出回ってるとは……、まったく何を考えてるんだか」
初めて表情が変わった。そして今までは無表情だったのだと気づかされる。彼女からは感情が発せられていないんだ。違和感の正体はそれだ。こちらの言葉は彼女を通り越して虚空に吸い込まれていく。聞こえてるのに届いてない。
「ブライトの調査が終わったのか? アリスター王にはもう会った? どうしてスカイホールドに……」
焦りに追い立てられて必死で問い詰める。彼女の顔からまた表情が失せ、凪いだような静寂が支配した。
「調査は終わっていない。王に会うつもりもない。ここへは知人を訪ねてきただけだ。あなた方に迷惑はかけないから安心してくれ。……審問官、私がいることは内密に」
さっと踵を返し、待ってと言う間もなく彼女は足早に遠ざかる。そのあとをマバリたちが追いかけていった。
皆の注視を浴びないよう、急ぎたがる足を宥めながら敢えてゆっくりと塔へ向かう。緊張で呼吸が荒い。テーブルに向かって書き物をしていたバリスが私の来訪に気づいて立ち上がった。
「審問官」
「騎士団長バリス、誰にも知られずデネリムに連絡することはできるか? カレンや、レリアナにも」
訝しげに眉をひそめつつ、彼が頷くのを見てようやく少し安堵する。
「はい、個人的な伝手を辿れば可能です。ちょうど昔ながらの知人に手紙を書いていました。指揮官カレンも修道女レリアナも、私の手紙の内容を改めはしません」
「よかった。どうにかしてアリスター王に伝えてほしいことがある。他の誰にも知られずに。女王がスカイホールドにいらっしゃる」
驚愕の表情は一瞬で、すぐに平静を取り戻したバリスの顔には静寂がある。そうだ、こんな感じ。でも違う。エリッサ女王の静けさ、虚無、テンプル騎士の持つ自制心とは異なる空気の質感。これは私にも馴染みのある気配。
「内密に、そして迅速に、王の耳に入るように致します」
バリスは事の重大性を理解し、無駄な質問を投げかけることなく動いた。レリアナではなく彼に頼んだ理由を察しているようだ。王に届くまで迅速さだけを期待するならレリアナに頼む方がいいだろう。でも……いや、ダメだ。
どんどん遠くなるバリスの後ろ姿を見送りながら不安に苛まれた。一応、レリアナにも言うべきなのかもしれない。でもどこまで? 私の気づいたことをすべて教えるわけにはいかない。エリッサ・クーズランドはレリアナにとって信のおける数少ない友人なんだ。
その彼女が放つ静寂の気配。あれはまるで……静者みたいだった。魔法を持たない人間に静寂の儀式を行えるのだろうか? でも探求騎士だって似たようなことはしている。彼女はどうにかして方法を見つけたのかもしれない。だけど一体、誰が彼女を静者のようにするっていうんだ。そしてそんな状態で、彼女は何をしにスカイホールドへ来たのか。
「アリスター王に早く伝えないと……」
「そりゃ無駄足になって悪かったな」
背後から聞こえた声に心臓を吐き出しそうになった。凄まじい勢いで振り返る。そこに立っていた人をまじまじと見つめた。
「…………あ、!!」
思わず叫ぼうとした口が押さえられる。アリスター王は大慌てで辺りを見回しつつ押し殺した声で「静かに」と囁いた。混乱を押しやるのに数十秒。とにかく騒ぎ出さない程度に落ち着いたことを目で知らせると、彼は軽く頷いて手を離してくれた。
「……うぅ、スカイホールドの警備って結構ザルだったんだな」
「言ってやるなよ。ここを見張ってるのはレリアナだろ? 俺もエリッサも彼女のやり方は分かってるからな。抜け穴を見つけやすいのさ」
アリスター王の言葉に今度は冷たい手で心臓を掴まれたような心地がした。王は知ってるんだ。彼女がここにいることを。
もう何が起きてるのか全然分からない。パニックで泣きそうになる私を苦笑して見下ろし、アリスター王は幼児にするみたいにわしゃわしゃと私の頭を撫でまくった。
「あいつがフェレルデンに戻ったのは気づいてた。犬が逃げたんでね。彼女の相棒の息子と孫たちが」
「い、犬が?」
「数日して義兄がデネリムに来た。ハイエヴァーでも何匹かの兄弟が脱走した」
あいつらはエリッサと一心同体だからなと然も当たり前のように言われて愕然とする。あのマバリ……彼女が連れ歩いてたんじゃなく、主君の帰還を察知して自らスカイホールドまで来たっていうのか。そしてアリスター王はただそれだけのことでエリッサ女王の居場所を掴んだ、と。
フェレルデン人って怖い。犬の血が流れてるってお伽噺じゃなかったのかも。常軌を逸した愛犬国家だ。ヴィヴィエンヌでさえ面と向かっては彼らの犬を貶めないのも頷ける。と、そんなことはどうでもいい。
「審問官、悪いが俺のことは黙っててくれないか。あいつを捕まえるのにちょっとした準備が必要なんでね。面倒は起こさないから安心しろよ」
「え、あ、でも、」
「手紙をやってくれたのはありがたい。俺がここにいるとは気づかれないだろう。むしろレリアナにも頼んでほしい。“エリッサがいるからアリスターに連絡をとれ”ってね」
夫婦揃って似たようなことを言うものだ。迷惑はかけないから秘密にしてくれ。そんなのはべつにいいんだ。親しげな王の笑顔に頷いてみせながら、勇気が足りずに言葉をひとつ飲み込んだ。
彼女は様子がおかしい。まるで人形みたいに中身がないんだ。彼はたぶんそのことは知らない。伝えなければ。でも何て? “あなたの妻は心が死んでるかもしれない”……言えやしない。青褪めた私を慰めるように「大丈夫だ」と笑って、アリスター王は悠々と庭園の方へ歩いて行った。
……レリアナのところへ向かおう。私の手には負えない。少なくとも、今の彼らに助力を請えないのだけは確かだな。